日向城(佐久市根岸字長坂)
佐久市立岸野小学校の真南2q、中沢川の谷奥の日向集落の西の山にある。
本郭に八幡神社があり、北から登る参道を行くと到達する。
この参道を登っていくと直ぐに平坦地が現れる。おそらく曲輪であろう。
下の写真は北下の公民館から撮った城址である。

曲輪は数段あり、八幡神社直下の曲輪@は広く神社のある本郭の周囲の西側以外を覆う。
突き出しが
15mほどある。

そこから7mほど高い場所の神社社殿の地が本郭Aである。
25m×15mほどの小さな曲輪Bである。
西に例によって社殿裏に土塁があり、その西側下5mに堀のような曲輪がある。
さらに西に土塁Cがあり、南北に土塁Eが延び、本郭下の曲輪の西を覆う。D
その土塁の西側が深さ7mの豪快な堀切Fになり、竪堀Gが豪快に下る。
その西側には小さな曲輪が3つほど連続する。土塁がL型に構築される。
これらの曲輪から竪堀が何本も下る。
そして西端に竪土塁を持つ二重堀切Hがあり、竪堀が下る。
この辺の遺構は息を呑むほど素晴らしい。

城自体は比較的コンパクトであるがメリハリがあり、ほとんど風化していないのにも驚く。
城の歴史は分かっていない。
武田氏重臣長坂釣閑斎光堅と子源五郎が在城したともいう。
武田信近が城代で、飯富兵部が後詰として入ったともいう。
しかし、元々は地元の土豪の城であり、それを武田氏が整備したものであろう。
本郭に建つ八幡神社こそが、武田氏の係わりを示していると考えられる。

@本郭の西側以外を取り巻く二郭 A 二郭から見た本郭 B 本郭内部。八幡神社が建ち、その後ろに土塁がある。
C 本郭の土塁上から見た西側の曲輪 D本郭西側の曲輪から見た南に回りこんだ二郭 E本郭西側の曲輪西の土塁上、左が堀切。
F1つ目の堀切、深さ5mほどある。 G Fの堀切は竪堀となって豪快に斜面を下る。 H最西端の堀切

前山城(佐久市前山)

野沢の市街地の西に見える山にある。
国道141号の野沢西信号を西へ入り、県道145号1q先右カーブを前山地区に進む。
または野沢北高校と野沢中学の間の道を真っ直ぐ、西に進み突き当たった山が城址である。
弥生団地を目指しその東南の山と見当を着けてもたどり着く。

大体、この地区では知名度がある城であるので訪ねれば大体教えてもらえる。
前山地区内の道は狭いが、城のある山の先端部下に消防団詰所があり、その北側に20台ほどの駐車スペースがあるのでここを拝借。
城への入口はここから南に50mほど行った所に看板があるのでそこを入る。
または前山寺まで行き、そこの駐車場を借用する手もあるとのことである。

今回は前者の道で登城した。主郭部の標高は726m、比高は55mとそれほどハードな山ではない。
この道は人家の庭先を通る小道であるが、山に入ると直ぐに曲輪が現れる。
最高部の本郭までの間に3、4mほどの高さを隔てて、6段程度の曲輪がある。
その多くが何とりんご畑である。
収穫シーズンは、りんご泥棒に間違えられるリスクがあるので注意する必要がある。
小道を辿ると山頂の主郭に出る。
主郭は神社があり公園化され、東屋もある。
この東屋のある部分が主郭の最高箇所であり、7m四方の大きさであるが本来はもっと高かったのであろう。
その北に長さ13m、幅3mほどの物見のような突き出しがある。

一方、東屋の南側の神社がある地は35m×20mほどの広さがあり実質的に本郭に当たる場所である。
この場所の南下4mに南北12mほどの腰曲輪、東側に犬走のような細い腰曲輪がある。
一方、西側は崖で曲輪はない。
南下の腰曲輪の南、尾根筋に当たる部分に定番の大堀切がある。
深さは主郭側で7m、南側の郭側で4m、幅は10mほどの規模である。
なんとここは子供の遊び場であり、「ロープ遊び」の表示が出ている。
堀切の南は東西18m、南北60mほどの広い曲輪Uがある。二郭に相当する曲輪である。
内部は藪である。
冬に近いから入れるが、イバラが痛い。
南端に段差があるが、ここに堀があったという。
その南の曲輪は10m四方と狭いが、西側に土塁があり、南端部に櫓台のような土壇がある。

その先は細尾根になり、この城のメインイベントの巨大二重堀切がある。
2つの堀はいずれも幅10m、深さ6mほどあり、竪堀が下に延びる。
特に西側に下りていく竪堀は北にカーブしながら迫力を持って下る。
堀間の土塁は1つの曲輪と言える。幅は15m程度あり、3方を土塁が覆う。
また、竪堀間は立派な竪土塁になっている。
この堀より南側は山が登りになるが、明確な遺構はなかった。

北から見た前山城 本郭を東下の腰曲輪から見る。
腰曲輪はなんと「りんご畑」である。
本郭は南側が広く、神社が建つ。 本郭の北側は一段高くなっている。
南側の堀切底から見た切岸と本郭。 本郭南の堀切は7m位の深さがあり、子供の遊び場になっている。 この城の最大の見所、南端の二重堀切の1本目。 二重堀切の2本目。
堀は堅土塁を伴い竪堀となって斜面を下る。

この城は、伴野氏の城である。伴野氏は野沢に伴野館を構えていたが、隣の大井氏との抗争が起きたため、文明年間(1469〜87)の頃、伴野光利が詰めの城として築城したものという。
伴野館からは西に約2.5qの距離である。
天文17年(1548)武田信玄に伴野氏は降伏し、前山城は武田氏の城として佐久支配、小県侵攻の拠点となる。
天正10年(1582)武田氏が滅亡すると、伴野氏は北条氏に組するが、徳川方の依田信蕃の攻撃を受けて落城し、城主伴野信守は討死、ここに伴野氏は滅亡してしまう。

宝生寺砦(佐久市下平宝生寺山)
佐久市野沢から国道142号を望月方面に走行すると熊久保入口の交差点の西側に小さな岡がある。
この岡、国道側から見ると
3段になっており、岩がむき出しである。
岡は平地部に突き出た感じであり、比高は
20m。
南西に宝生寺という廃寺がある。
前山城の出城、物見の砦と推定され、伴野氏によって築かれたものであろう。

南東側に平場があるが、これが当時のものかはわからないが、腰曲輪と思われる。
これが周囲を取り巻く。頂上部Aには特になにもなく、
40m×15mほどの広さ。
北東端部に土壇@があり、ここに物見台があったのかもしれない。
ここからは佐久盆地一帯が見渡せる。
まさに天然も物見台であり、当時も物見台を置いてしかるべき立地である。
写真は北西から見た砦跡である。

航空写真は昭和50年に国土地理院が撮影したもの。
@岡北東端にある土壇。 A 岡内部は40m×20mほどの広さしかない。 岡先端から見た佐久平と浅間山


岩尾城(佐久市北岩尾)

真田幸隆が始めて城主になった城として、そして依田信蕃の戦死の地として知られた城である。
文章では説明しにくい場所にある。
佐久市野沢から国道142号を望月方面に走り、沓沢入口信号から県道78号を小諸方面に北上、千曲川にかかる佐久橋を渡ると北側に岩盤むき出しの崖が見える。
これが岩尾城である。


南から見た岩尾城。右側の森が三島神社が建つ二郭である。

この城には車で乗り付けるのは止めておいた方が良い。
北岩尾交差点東の桃源院かコンビニに車を置き,城址まで歩くのが良い。
城の北と南は湯川、千曲川による断崖、その間にある西側に突き出た比高30mの半島状の丘にある。
丘の先端西側が高く、東側は低くなっている。桃源院が城の東の城外であったという。
ここから城まで間は台郭という名の曲輪であるが、宅地化している。
この宅地の中を南北に貫く道が最外郭の堀であったという。

城跡は三島神社が建つがそこまでの道もどうも堀底のようである。
道に三日月堀址という木柱が立っているが、どこが堀の址なのかよく形が分からない。
ここが依田信蕃戦死の地だそうである。
ここから東を見ると60m四方の畑であるが、その東端に石塁が南北50mにわたり残っている。
三日月堀の木柱が建つ場所の西が主郭部であり、神社境内は4mほど盛り上がっている。
その手前南側には堀の跡がある。
神社本殿がある場所が二郭である。
本殿前は50m四方の平坦なスペースがあるが、本殿裏は東西25mのだらだらした東方向への下り斜面である。
本殿北側に下に下りる虎口が開き、下に曲輪が見える。

境内は本殿があるため結構改変されているものと思われる。
本殿裏に小さな社が建つが、そこが本郭東の土塁である。
石垣作りであり北側が一段高く櫓台があったと思われる。土塁の幅は4mほどあるが、これは結構崩されているようである。
土塁の西側が本郭であるが、ここは藪である。
冬近いから歩けるが、夏はとても入れないであろう。
しかし、いばらが多く痛い。
本郭は東西50m、南北20mほどの大きさであり、西側に堀がある。
堀は幅10m程度の大きいものであるが、深さは2m程度しかなくかなり埋まっているようである。
注目すべきは本郭側の切岸が石垣であることである。
その西が西郭であるがここは広い。
東西80mほどある。50mほど行くと途中に段があり西側がやや高い。
西端は10m下に1つ曲輪がある。
ここに立つと、南から千曲川が真っ直ぐ向かってきて、崖下で西に急カーブを描いているのが分かる。上右の写真は西郭から見た南を流れる千曲川である。
北を流れる湯川はかなり離れている。西下で2つの川が合流するが、その東に琵琶島という曲輪があったという。
河川輸送のための船着場であったのであろう。

 この城は神社となっているためほとんど遺構が残っていないと聞いていたが、これは西側の先端部まで行っていないからであろう。
良く観察すれば遺構はちゃんと残っている。西側は完存である。
この神社西側を見なければこの城を見たとは言えないであろう。
主要部分の広さは東西300m位であろう。

岩尾城の築城は文明年間(1469〜87)に大井氏であり、分家の岩尾大井氏が居城した。
この岩尾大井氏は大井城の宗家を支える最も有力な家であった。
しかし、文明16年(1484)に村上氏の攻撃で大井宗家は滅亡し、武田氏が佐久を支配すると大井氏の一族では武田氏に従った者や浪人になった者がいたという。
この時は大井氏は城主の座を奪われ、真田幸隆が城主となった。
真田幸隆が城主となった始めての城でもあった訳である。
その後、岩尾大井氏が城主に復帰している。武田氏が滅亡し、織田氏が撤退すると、佐久地方は北条、徳川の草刈場となる。
この地をいち早く占領した北条氏は、この地の先の支配者大井氏を復活させ支配することを試みる。
岩尾城に拠った大井行吉はどうも浪人しており北条氏が保護していたらしい。
このため、この地を狙う徳川との争いが起き、徳川方の依田信蕃の攻撃を受ける。
岩尾城を攻撃するころは佐久のほとんどの城は依田信蕃に制圧され、岩尾城にその残党が集結、依田信蕃と激しく戦う。

この攻撃では、東の桃源院に本陣を置き東から攻撃したという。
確かにこの城は東方向以外に攻撃することは困難であり、セオリーどおりである。
しかし、佐久の諸城を落としてきた信蕃には、油断とおごりがあったのだろうか、岩尾城の激しい反撃にあい、弟信幸と共に戦死してしまったという。
余りに激しい反撃に包囲する徳川軍も攻撃を諦め、城兵の奮闘を讃え、開城勧告を行ない、これを受けて岩尾城も開城し、城兵は助命されて解散したという。
廃城はこの時であろう。この時、武家としての大井氏も歴史から姿を消すことになった

東側の集落内のこの道が堀跡だったという。 台郭東側には石垣で補強した土塁が50mほど残る。 三日月堀跡ということであるが、この道が堀跡? 二郭東の堀切はほとんど埋められ、南に一部が残る。
二郭に建つ三島神社の社殿。 本郭東側の土塁も石垣で補強されている。 本郭西の堀はかなり浅くなっているようである。本郭側の切岸は石垣がある。 西郭の先端部。下に腰曲輪が1つある。

この城で戦死した依田信蕃については余り知られてはいないが、魅力的な人物である。
第二の「真田昌幸」になり得た可能性もある人物という評価もある。

この依田信蕃の出た依田氏は、源為公が信濃守となって信濃に赴任した時、その子孫が依田庄に住み、依田または余田を称したものという。
依田氏が記録に出てくるのは木曾義仲に従い京都に攻め上がった中に 余田二朗実信が見えるのが最初である。
結局、木曽義仲は滅ぼされてしまい、依田庄は剥奪され、依田氏は飯沼に逼塞し、一時飯沼氏を称したという。
しかし、北条氏に実権が移ると北条氏に接近して勢力を回復し、依田庄を回復する。室町時代は一貫して足利氏に組し、信濃での地位を確立、幕府の評定衆にも名を連ねる。
また、丸子方面や立科方面にも勢力を延ばし、芦田城を築き、分家の芦田氏を置く。

これが大井氏との抗争を引き起こし、大井氏により敗れ、芦田氏は大井氏の家臣になり、大井氏の中で有力者となる。
大井氏が伴野氏に敗れると芦田氏は土豪として独立する。しかし、実力はなく、諏訪氏に従属する。
この時の当主は芦田信守、依田信蕃の父である。この時が芦田氏のどん底の時代である。

ところが諏訪氏は武田氏によって滅ぼされ、武田氏が佐久に侵攻すると、芦田信守は武田氏に従い、あちこちこき使われる。
依田信蕃の名が出て来るのは信玄の駿河・遠江侵攻からである。
信玄は二俣城を落とすとここに芦田信守、信蕃父子を置く。
この時、すでに旧姓に復帰しているようである。
しかし、信玄が死に、武田軍が長篠で敗れると徳川軍の反撃が開始され、二俣城も攻撃に晒される。
この時既に信守は病死後し信蕃が部隊を指揮していた。

結局、天正3年(1575)武田勝頼の指示で信蕃は開城退去し、信蕃は城を家康に渡した。
今度はあの輪郭式城郭で有名な田中城に入り、再び信蕃は徳川軍と激戦を交え、徳川軍を阻止。
しかし、江尻城主の穴山梅雪(信君)が徳川方に寝返り完全に孤立する。
そして家康の勧めで開城し、本拠地信濃春日城へと戻る。

この信蕃の活躍に家康が惚れ込み、何度か家臣になるように進めたという。
そしてついに家康に仕える。
武田氏が滅亡し、本能寺の変が起こると、佐久地方は徳川、北条の草刈場となるが、信蕃は真田昌幸を徳川方に引き込み北条の兵站線を分断。
佐久から撤退させる。しかし、大井氏、伴野氏、望月氏などが抵抗したため、信番は攻撃をかけ、ほぼ佐久郡を平定する。
その最後の仕上げが大井行吉が守る岩尾城攻めであった。

この時、軍監として派遣された徳川軍は包囲して開城を迫る方法を薦めたが、信蕃は強行攻撃を主張し、結果として至近距離から鉄砲で狙撃され、弟の源八郎とともに戦死してしまう。
家康は依田信蕃の死をあわれみ、信蕃の子竹福丸に家康の「康」の字を与え、康国と名乗らせ、さらに旧姓の「松平」の名字をも与えて松平康国として小諸城主とした。

これは破格の待遇であり、家康の惚れ込み振りが良く出ている。
家康をここまで惚れ込ませたのはよほどの人材であったのだろう。
しかし、悲劇は続く。
小田原の役で石倉城の降伏交渉に入った松平康国は、交渉中に攻撃開始をされてしまい巻き込まれて戦死。
さらに弟の康真が後を継ぎ、藤岡三万石の大名となるが、大阪冬の陣の陣中で旗本と碁を打っていて喧嘩となり、相手を殺してしまい出奔し、領地を失う。

この時、家臣は故郷に帰り帰農したという。ここに武家としての依田氏の名は消えてしまう。
さて、ここで依田信蕃が果たして真田昌幸になり得たかという話題にもどる。
家康を感嘆させる人物であり、おそらく戦術、戦略、人心把握には優れていたのは間違いない人物であろう。
しかし、岩尾城での強行策、陣頭指揮等はおごりと短慮の結果である。

真田昌幸ならこんなことはしないであろう。
それに息子、康真の領地を失う事件である。この親子には今一つの考えが足りないという欠点が見えて来る。
やはり、依田信蕃はそれなりの人物ではあったが、第二の真田昌幸には成りえなかったのではないだろうか。
ただ、もし第一次上田合戦に依田信蕃が存命で徳川方として参戦していたら結果は異なったものになっていたかもしれない。
依田信蕃がいなかったから真田昌幸は大胆不敵な作戦を企画実行でき、徳川軍に壊滅的打撃を与えられたのではないかとも言われる。