志賀城(佐久市志賀上宿)

佐久市岩村田の市街地から県道44号線に入り東に約5kmを進むと志賀地区に入る。
すると県道沿い北側に雲興寺の案内板がある。
この雲興寺の北側の山が城址である。
駐車場は寺の山門前に10台ほど置くスペースがあるのでここを拝借。

ここから北東の山を見ると岩盤がむき出しになっているが、この岩盤の上が志賀城の主郭部であり、遠目に見ただけでもこの城の要害性が伺える。
城へは寺の北東側から登る山道が付いている。
しばらくこの山道行くと谷間に段々の場所が現れる。切岸は石垣である。
これも館跡の遺構なのだろうか、それとも単なる段々畑の石垣なのだろうか。

さらに登ると道は所どころ分からなくなる。結構急勾配である。
折りしも秋の紅葉が落葉したシーズンであり、落ち葉で滑るので結構緊張する。
滑ったら斜面を転がり落ちることになる。

登って行くと面前に高さ8mほどの岩の壁が現れ圧倒される。
この城は中央部にある堀切で東西2つの部分に分けられる。
南西の曲輪はこの巨大岩の上である。西側を迂回してこの巨岩の上の曲輪に出る。

この曲輪は西部分の主郭に当たる曲輪Wから南西に張り出した尾根にあるが、内部は余り平坦ではなく、自然地形に近い。
物見に近い曲輪であろう。西側には帯曲輪と思われる平坦地が認められる。
曲輪Wの中心部は遺構が明確であり、3段程度の構成になっている。直ぐ南西下の曲輪Xは前面に土塁を持つ。

曲輪W本体の西側は北側に削り落としの土塁があり、南に帯曲輪が2段ある。曲輪Wは55m×15mほどの広さである。
この曲輪は風もなく日当たり良好である。
曲輪Wの北西側に尾根が張り出しており、段々に曲輪があるが、曲輪W側の腰曲輪は高さ5mほどの切岸であり、石垣で固められている。
曲輪Wの東に幅10mほどの堀切があり、その先がいよいよ東の部分、本郭部である。

この堀切の南側は岩盤むき出しである。
主郭部は3段ほどの構成になっており、堀切から最上部の本郭までの高さは30m程度ある。
腰曲輪Vも結構広く幅20mはあり、切岸も高い。非常に明確である。
主郭である曲輪Tの南東側も石垣で固められている。

曲輪Tは東西30mの長い曲輪である。ここには小さい石の社がある。
この城で死んだ兵士を祀ったものであろうか。
小さいながらも非常にインパクトがあった。ここには今だに怨念のようなものが漂っている感じである。

曲輪Tのやや東よりに土塁と堀がある。これは堀切のようにも思えるが、中央部が窪んでおり井戸ではなかったかと思う。
その土塁の東に東側を土塁で覆った長さ15mほどの曲輪Uがあり、さらにその東が下りとなり鞍部に至る。
ここにはお決まりの堀切がある。岩だらけである。この先は再び登りとなりピークはあるが、明確な遺構はなかった。
端には自然地形を利用した巨石による大堀切がある。
想像以上に峻険な岩の壁の上にある城であり、岩も多い。

雲興寺から見た主郭部。ちらりと見える岩盤の上である。 雲興寺の山門。非常に味のある門である。城にはこの寺の裏から登る。 山を登って行くと北側に岩が林立している。高さは8m。この上に曲輪がある。 曲輪Wの北西の尾根の曲輪。内部は平坦である。
曲輪Xの前面を覆う土塁。かなり低くなっている。 曲輪Wの背後の堀切。ここで城が2つに分割される。 曲輪Wの北西側腰曲輪の切岸の石垣。 本郭(曲輪T)南西端の切岸の石垣。
本郭に建つ石の社。怨念のようなものが漂っているような・・・。 本郭と曲輪U間の堀?井戸じゃないかなあ。 東端の掘切は竪堀になるが、この竪堀は天然の崖だろう。 曲輪V内部。広くて平坦。居住性はよさそうである。

この城はまともに攻めることは不可能である。
2週間以上、武田軍が攻撃したというが、武力攻撃はなかったであろう。
もし、まともに攻めたら豊富な石を落とされ大損害を受ける。
この攻撃とは遠巻きにして水と兵糧を絶つ戦法であろう。

この戦法か蝶略しか落とす方法はないだろう。
事実、佐久を侵略する武田軍の攻撃にも笠原新三郎清繁を主将とするこの城はびくともせず、内山城が落され、天文16年(1547)に小田井原で援軍して向かった上杉氏の軍を武田方が破り、討ち取った首を城下に並べ、それを見た城兵が戦意を喪失して降伏することで城が落ちたという。
心理作戦の代表的なものである。

この後、城兵は虐殺され、一緒に篭城していた女、子供は奴隷として売り飛ばしたという。
このことは450年以上経った今も住民の血の中に遺伝情報としてインプットされており、城下であった老人も「武田信玄は鬼だ。ここの人間は武田信玄は大嫌いだ。」と言っていた。
武田信玄の侵略を受けた千曲川沿岸の地方の住人には今でも同じ遺伝情報を持っているようである。
管理人の死んだ祖母も、悪いことをした時は「信玄が来るぞ。」と脅かされたと言っていた。
因みに怖い目に合った時は「謙信、謙信」と唱えると謙信が来て助けてくれるのだそうである。
450年前の事がこんな形で受け継がれているのは凄いことである。

内山城(佐久市内山)

佐久市中込市街から志賀城のある谷の一つ南の谷を走る国道254号(富岡街道)、通称、コスモス街道を東に内山峠方面に約5q進むと、北側に円城寺が見えて来る。(国道沿いに看板がある。)
この円城寺の北東に2段になった山が見える。これが内山城である。
車は円城寺の駐車場に置く。城址へは円城寺東の山道から入る。主
郭まではここから水平距離で300mに過ぎないが、巨石群が林立した険しい山道を登ることになり結構きつい。

巨岩の上にある点では志賀城と似ている。
道を登って行くと円城寺方面に延びる尾根に出るが、この尾根上に曲輪が1,2mの段差で段々にある。6段程度があるようである。

一番東側の曲輪は結構広く、ベンチがある。
その東側には岩がそそり立ちここからが急激な登りとなる。
主郭部は巨大な岩が林立しており、その上である。
途中に石垣が見られこの急激な尾根にも曲輪がある。

主郭部は30m×15mの本郭を中心に南側に突き出し30m及び15mの二段の曲輪、西側に一段、北側に二段の曲輪がある。東側は崖である。
南端の曲輪の下は高さ40m位の崖である。
ここからはコスモス街道が一望の下である。
崖下に南西方向に向けて長さ70mの平坦地があり、馬場平と呼ばれる。
主郭内は途中の道からは想像もできないような平坦さであり、巨岩も見られない。
途中の風景とは、別世界である。
北には浅間山がきれいに見え、谷を隔てた北の山に五本松城が見える。
この内山城も志賀城同様、まともに攻撃して落とせる城ではない。

ただし、水の確保は困難であったと思われ、長期の篭城は無理であったと想像される。
水の手は北東の尾根下にあったというが、結構、距離があり、道は険しい。
やはり水の確保は大変であったのであろう。

この城も武田氏の佐久侵略の目標とされた城の1つであり、この城を奪った武田信玄は天文15年(1546)上原伊賀守呂辰を城代に置いている。
上州との通路を監視するには最適な城であり、どちらかと言うと内山峠方面、関東方面からの侵攻を牽制する目的の城と言えるであろう。
武田信玄はその後、村上氏の本拠を攻撃するが、天文17年(1548)、上田原合戦で敗退し、村上軍の反撃を受け、この城も攻撃される。
この時、落城はしなかったが、城下が村上軍により焼き払われたという。

武田氏支配が確立すると歴史にはしばらく出て来なくなるが、天正10年(1582)に武田氏が滅亡すると、一時的に織田氏が支配する。
しかし、本能寺の変が起こると、この地は北条氏と徳川氏の草刈場となる。
徳川家康は佐久地方の平定を依田信蕃に任せ、依田信蕃は次々と城を攻略して行く。
そして、内山城も天正11年(1583)依田信蕃によって攻略された。
攻略後、城がどうなったかは分からないが、ほどなく廃城になったと思われる。

南西から見た城址。迫力のある山である。
山上の曲輪が分かる。
円城寺から延びる尾根に展開する曲輪群。 主郭部には石垣はなく、中腹の曲輪にこんな石垣がある。 主郭部北端下の岩の物見台。
本郭から見た北の五本松城。 北には雪景色をした浅間山がくっきりと見える。 本郭北下の曲輪。
三郭ともいうが腰曲輪とすべきだろう。
本郭に建つ城址碑。
本郭西側。内部は平坦であり遠く佐久の市街が望まれる。 本郭西側の腰曲輪から本郭部を見る。 主郭部の南の先端。この先は40mの崖。 主郭部南端から見た東の内山峠方面。
富岡街道を監視する城であることが納得できる風景である。

平賀城(佐久市平賀)
内山城から国道254号線を挟んで南の尾根末端部にある。
直線では2q程度という近い距離にある。
平賀地区にある城山小学校の西に約1.5kmの山である。

上野の下仁田,富岡方面に通じる街道筋の佐久側の出口を抑える城である。
城に行くルートは幾つかあり、大林寺から登る道が大手道であったと思われる。
しかし、今回は東側の正安寺裏山にある佐久宝寿霊園側からの搦手口から攻める。
この道は林道ではあるが、結構広いため、車も十分通行可能である。
何と言っても標高があるので山を登らなくても良い。

霊園駐車場手前が切通しになっており、もしかすると堀切の転用かと思うが、まことに持ってそのとおり、ここは巨大堀切である。
(地形的に霊園側にもう1本堀切があったようであるが、道路建設でほとんど失われている。)幅は20m、城側からの深さが6mほどある。

切通しから城内に突入するが、その切岸に既に石垣がある
切岸を登った上はもう城域である。
この曲輪は30m四方の広さを持ち、西側が2m程度の切岸になっている。
この切岸を降りてびっくり。南側に2mほどの段差で段々上に曲輪が展開し、何とその切岸が全て石垣なのである。南側には虎口らしい場所がある。
搦手道がここから延びていたのであろう。

そしてこの曲輪群は館跡か、倉庫群の跡ではなかったかと思う。(館をこの場所に置くとも思えず、おそらく食料倉庫群であったように思うのだが?)
この場所から東側の山に登って行くと、まず搦手曲輪に出る。
本郭はこの西上であるが、高さは10m近い。
この曲輪は東側を北側まで覆っている。
本郭側の切岸にも石垣がある。
本郭は直径30mほどの大きさであり、北西側に段々に曲輪が続く。
4m下が二郭そして三郭である。
本郭と二郭の間は二段の石垣になっている。
この主郭郭の配置は真田本城とそっくりである。
北端が主郭部虎口である。この付近は石垣で固められている。
ここから下に延びる道が大手道である。
下に多くの曲輪があるが、余りに多くて数えられない。

平賀城は大井氏一族、平賀氏の城である。
平賀氏と言えば、信玄の初陣に登場する平賀源心が有名であるが、彼は平賀氏の一族ではなく、大井氏の出である。
大井氏の領土南端の海の口城の城主であったのであろう。
信玄の佐久侵略の第一目標にされたのが源心であったのであろう。

主君をほめることをメインとした「甲陽軍艦」でも敵であった平賀源心を勇将と称えているところを見ると、彼の戦いは武田氏にも強い印象を与えたのであろう。
しかし、平賀源心戦死後は佐久の勢力は次々と信玄に制服され、この平賀城も武田氏に落とされたと思われる。

この平賀城は規模も大きく平賀氏宗家の本城であった。
平賀氏は鎌倉幕府の御家人であったが、守護の小笠原長秀と佐久の土豪、平賀、伴野、田口氏が応永7年(1400)に争い、小笠原氏に組した大井氏により平賀氏は滅ぼされたと言われる。
平賀城には平賀氏滅亡後は大井氏の代官が在城するが、その大井氏宗家も文明16年(1484)に滅亡し、天文9年(1540)以降は武田氏の城となった。
その後の城の歴史は不明であるが、天正10年(1582)武田氏滅亡後に廃城になったのではないかと思われる。

西側から見た主郭部 東側の大堀切。右が城側、切岸には石垣になっている。 主郭部東下の平坦地(館跡?)の切岸の石垣。 左の平坦地は段々になっている。
本郭東下の搦手曲輪。 三郭北、大手口の石垣。 本郭に建つ城址碑。 本郭と二郭間の石垣。高さ1mほどしかない。

大井城(佐久市岩村田)

岩村田市街地東、湯川の西岸に王城公園がある。
ここが大井城の本郭である。
大井城は公園となっている王城を中心に県道を挟んだ南の台地、黒岩城と北側の石並城の3城からなる城の総称であるというが、この3城は時代が違い、北の黒岩城が一番古いともいう。
しかし、王城は単郭であり、単郭の城のみで城として成り立っていたとは思えず、この3城は郭として一体として使われていたのではないかと思われる。
この3城は東側が湯川に面した断崖であり、川面までは20m以上の比高差がある。
一方西側は堀があったようであり、堀底が民家になっている幅20mはあるであろう。高さも10m近い絶壁である。
三つの城(郭)間は深さ10m、幅20〜30mの堀切で区切られる。
中央の王城は王城公園となり、90m四方の大きさがあるが、内部が区切られていたとは思えない。
石並城間の岩盤むき出しの巨大な堀切は圧巻であり、これが人工のものとも思えない。
南側の黒岩城との間の堀切は県道が通る。北の石並城は住宅が建っているが、墓地の周辺に土塁が廻っているという。
南側の黒岩城は畑地であり、城郭遺構はない。かろうじて地形が城を思わせるだけである。
3城合わせて城域は南北700m、東西100m前後程度ある。

王城内部は公園になっている。どうも
ここは単郭であったようである。
王城と石並城間の堀切。天然のもの
に手を加えたものであろう。
王城と石並城(左)間の堀切を堀底か
ら見る。
王城から堀越に見た石並城。墓地の
東に土塁が残っているという。
王城西側の切岸。民家が堀底に建って
いる。
王城から堀切越に見た黒岩城。内部
は畑で遺構はない。

この城は甲斐源氏、大井氏の城であり、ここに館があった。
大井氏宗家は村上氏に滅ぼされ、さらに生き残った岩尾大井氏等の支族や他の土豪の多くは、武田氏の佐久侵略で武田氏に従うようになる。
天正10年(1582)武田氏が滅亡し、織田信長が本能寺の変で倒れ、織田家臣滝川氏が去ると、佐久の旧武田遺臣もある者は北条の傘下に、ある者は徳川の傘下に入って生き残りを模索する。
岩尾大井氏は北条氏に従うことで生き残りを図る。
この当時、大井城は岩尾大井氏が管理していたようである。佐久地方は北条氏が制圧する。
次いで北条軍は佐久を経由して甲州に攻め込み、徳川軍と対陣する。
しかし、徳川方に付いた真田昌幸と依田信蕃は碓井峠ルートの北条軍の兵站線を分断し、北条軍は徳川氏と和議を結び撤退していく。
その条件は佐久を徳川に、関東は北条にというものであった。
これに従い、徳川家康は依田信蕃を主将に佐久の平定に乗り出し、北条方に付いた大井城も攻め落としたという。

大井氏は小笠原氏の一族であるので源氏である。
小笠原長清の七男朝光が承久三年(1221)五月の「承久の乱」で戦功を挙げ、その恩賞で大井庄の地頭となったので大井氏を称したという。
行光の代には隣接する伴野氏が「霜月の乱」で衰えたため、佐久最大の豪族となった。
鎌倉幕府打倒では大井氏ははじめ幕府軍に加わっていたが、足利尊氏の書状で寝返り、以後、足利氏と行動をともにする。

新田義貞を尊氏討伐で鎌倉に向かうと、大井一族は小笠原氏らとともに大井城で迎撃するが、落城し、当主大井朝行はかろうじて脱出する。
義貞敗退後、大井城を回復する。
その後、大井氏は信濃守護代をつとめている。
応永六年(1399)信濃守護となった小笠原長秀は強圧的な支配を行なったため、村上氏ら国人の反乱を招き、応永七年(1400)「大塔合戦」で敗退する。
大井光矩は中立を保っていたが、両者を調停し、長秀を京都に逃がす。
この事件後、信濃も戦国時代に突入し、光矩を継いだ持光は芦田氏と戦う。
この争いは関東公方足利持氏と将軍義教との対立で複雑化し、周辺の村上氏や滋野一族、諏訪氏らがからんでくる。
この争いは大井氏優勢に進み滋野一族、芦田氏、小諸氏も従え、平賀氏を滅亡させた。
また、依田長窪(長和町)方面にも勢力下に置き、長窪城を築いて支配し全盛期を迎え、甲州に攻め込んだこともあった。
「享徳の乱」では足利成氏を支援し関東に出陣するが、成氏が敗れたことは大井氏にも少なからず影響を与える。
この後、大井氏は徐々に没落していく。
まず、文明10年(1478)大井政朝が、伴野氏と戦い敗れる。
大井氏と対立する伴野氏は武田氏と結ぶようになり、大井氏の弱体化を今度は村上氏が突き、大井城も攻略され大井氏宗家は滅びる。
大井氏は甲斐の永窪大井氏から大井玄慶が入って再興する。
戦国時代になると今度は甲州武田氏の侵略を受けるようになる。
天文15年(1536)武田信虎が大井一族、平賀源心の海ノ口城を攻撃し、信玄の活躍で落とされる。
武田氏の佐久侵略で大井氏は武田氏に屈服するが、武田氏滅亡の後、大井政成は徳川家に使え、本領の確保に成功する。
一方、同族の岩尾の大井行吉は北条氏に組し、大井城を失い、岩尾城で依田信蕃の攻撃を受けるが依田信蕃を戦死させる奮闘を見せる。
しかし、結局は開城し、帰農する。

稲荷山城(佐久市(旧臼田町))

国道141号線の東、臼田の稲荷山公園が城址である。東は千曲川が流れる崖であり、川面からの比高は40m位ある丘の上にある。
駐車場は北側臼田橋脇に6台ほど置けるスペースがある。
ここから主郭部までは赤い連続鳥居のある階段を登る。
この北側も結構険しい。上がって行くと神社があるが、ここも曲輪であろう。

眼下の千曲川の風景は一見の価値がある。北東には平賀城が、東には田口城が良く見える。
西と南は傾斜が緩やかでこの方面に段々状に曲輪があった。
しかし、南側は宅地化しており、残りの部分も公園化しており、城であったと言ってもにわかには信じられない位である。
右の鳥瞰図は「日本城郭全集」掲載図を基に描いてみたものであるが、こんな感じだったかな?
という想像図程度のものである。変わり過ぎていてとても再現することは困難である。

最高箇所の二郭に相当する扇岡と呼ばれる。
平坦地やその西側のゲートボール場や弓道場のある部分がなんとか曲輪であることは分かる。
このゲートボール場が肥前郭と呼ばれる曲輪であったという。
西側に空掘があったというが分からない。

いつころ築城したのかは分からないが、大井氏や伴野氏の砦であったのだろう。
武田氏も砦として使ったのだろう。このころは勝間反砦という名であったという。
始めて資料にこの城が出てくるのは武田氏滅亡後、佐久地方を占領した徳川家康が松平家忠に命じて改修させたということである。
したがってこの城は小諸の富士見城同様、信州では珍しい徳川氏の手の入った城ということになる。

第一次上田合戦で敗れた徳川軍はこの城に引き揚げ、三河に撤収したという。
その後、依田信蕃の子、松平康国が小諸城の支城として利用したとされ、家臣の依田肥前守を城代として置いた。

城址北側。この上が城址である。 東を千曲川が流れ平賀城や浅間山が望まれる。 二郭に相当する扇岡。 肥前郭から展望台が建つ本郭方向を見る。


伴野城(佐久市野沢)
国道141号中込より佐久大橋を渡り、野沢地区に入ると市街の中に公園化され、立派な土塁が残る。
大体、地図等にも記載されているので詳しく説明するまでもないであろう。
鎌倉時代に造られた伴野氏の居館である。
当初は現在残る100m四方程度の単郭であったが、大井氏との抗争が激化すると周囲に二郭、三郭、出郭を増設した輪郭式の城に拡張されたという。
南西側の土塁がひときわ高く、ここは櫓台として天守相当の建物があったようである。
二郭、三郭は市街地の中に埋もれてしまっており、今は築館当初の鎌倉時代の館の規模を伝えるだけである。
北側国道142号沿いの低地が外郭の堀の跡であったように見える。
野沢城ともいう。しかし、所詮、周囲に川や沼等の防御施設もない平城であったため、防衛上の必要性から伴野氏は大井氏との対立が激しくなってくると、本拠を西の山にある前山城に移したという。
しかし、この館も併用して居館として使っていたようであり、緊急時のみ前山城に避難したというのが本当であろう。

伴野氏は小笠原一族である。小笠原長清の六男時長が佐久郡伴野荘の地頭として入り、伴野氏を称した。
伴野氏は守護家小笠原氏に従うことが多く、室町幕府の中枢にも係っていたという。
佐久では隣の大井氏との抗争に明け暮れるが、大井氏が村上氏に滅ぼされ、一息つくも、武田信玄の侵略を受けてその配下となり、先方衆としてこき使われ、高崎の根小屋城の城番にも伴野氏の名前が登場する。武田滅亡後は北条氏に属する。
このため、徳川方の依田信蕃に攻められ、前山城に篭城するが、落城し当主伴野信守、貞長が戦死して小笠原系一族伴野氏は滅亡する。

城址北側の土塁。道路は堀跡。 南西端部は一段高く、天守相当の建物が建っていたらしい。 曲輪内部を巡る土塁。 西側の土塁間が開いているが、古図にはなく、後付けらしい。

竜岡城(佐久市(旧臼田町)田口)
日本で2つしかない五稜郭の1つである。
五稜郭といえば函館の城を指すのが普通であるが、なぜか、この佐久平の少し奥まった場所にも存在する。
こちらの五稜郭、函館のものに比べればミニュチュアであり、4分の1程度のものである。
それでも径は200mくらいありそれなりの規模はある。

当然ながら戦国の城ではない。逆に日本で一番新しい城である。
近年特に名が知られるようになって、訪れる人も多いようであり、周囲はきれいに整備され、平日にも係らず、何人かの人が見学していた。
しかし、城内が小学校というのはどうも・・。この御時勢では困る。
この日も校庭では体育の授業が行なわれていた。そこにカメラを持った親父が入っていくのは?ここが観光名所であっても何となく気がひける。

周囲ののどかな風景と幕末では最先端の形式の城のミスマッチが面白いが、戦国城郭とは全く異なる次元の城として結構面白く、また、すばらしい城である。

築城したのは松平乗謨(のりかた)である。彼は三河奥殿藩主であったが、幕政に参加し陸軍総裁となり活躍した。
文久3年(1863)、居所をこの地に移して竜岡城を築く。本拠をここに移したのはこの山間の地の方が、家族や家臣にとって安全と思ったからであろうか。
もう1つの理由として、それまでは江戸屋敷に家族や重臣が住み、領地には代官を置いて管理していたが、参勤交代制の改革で江戸屋敷が縮小され、領地にちゃんとした居館を必要としたことによる。

この近くの岩村田城も同様の経緯で整備されたという。
どうもこの時、彼はどうせ造るなら並の館ではないものを造ろうとしたようである。
陸軍総裁であったので、フランスのボーバンの築城書を読む機会があり、そこに書かれている戦闘城塞をこの地に実現しようとしたようである。
因みに乗謨は蘭学、仏学を学び、フランス語も流暢に話せたというので凄い能力である。
おそらく原書を読んだのだろう。

こうして築いたのが竜岡城であり、元治元年(1864)に工事を開始、慶応元年(1867)に完成したが、直ぐに明治維新を迎え廃城になってしまう。
完成したとはいえ、星型をした内郭部だけである。
どうも未完成な点が多く、途中で設計変更をして仕様を落としているようである。

外郭部も造る予定であったようであり、北に枡形門跡が残る。
星型の外に馬出のような曲輪が造られるはずであるが、どうも省略されているようである。

もっと竜岡藩(奥殿藩)の石高は16000石にすぎず、この小藩が造れる城ではない。
この城で最も不思議に思うのは築城の資金である。
こんな小藩が資金を調達できるはずはない。
幕府から金を出させているのだろう。

総面積は6万uあり、塁の外側は 3.4mの高さの石垣で土留めし、その上に高さ 1.2mの土塁も盛る。
堀は西側はないが、幅8mの水堀をまわしている。
石垣はきれいな亀甲積みで隙間がなく、そりを持たせている。
城内には、純日本建築である表御殿、広門、小書院、台所を置いている。

 城の工事は元治元年(1864)に始められ、慶応元年(1867)に完成し、竜岡城と命名されたが、明治維新を迎えて廃城になった。
しかし、この城の堀の規模なら大砲があったら直ぐに落城だろう。

防御に役に立つとは思えない。試験的に築城を行い、築城技術の習得を目的にした実験築城の名目で幕府から資金を出させてのではなかったのだろうか。
現在、国指定の史跡に指定され、昭和36年に解体修理し、西南隅に移築された御台所が唯一の現存建築物として一般公開されている。
この城を築いた松平乗謨は、この城だけでは終わらない人物である。

北側大手門付近の塁と堀。 北西側の塁と堀。 西側に低くなっており、堀はない。 集落の北にある枡形門跡の石垣。

もう1つの顔が日本赤十字社の創始者としてである。
明治維新後、松平乗謨は大給恒(おぎゅうゆずる)と名を変え、元老院議官となる。
明治10年(1877)2月に西南戦争が起こると激しい戦闘で、両軍に多数の死傷者が出る。
この状況を見た大給恒こと松平乗謨と佐野常民(さのつねたみ)は救護団体による戦争、紛争時の傷病者救護の必要性を痛感し、ヨーロッパで行われている赤十字と同様の救護団体をつくろうと考え、博愛社を設立する。
その後、1886年(明治19年)に日本政府がジュネーブ条約に加入したことに伴い、翌年に名称を日本赤十字社と改称して今日に至っている。
五稜郭と日本赤十字社、一見何の関係もなさそうな両者が意外な点でつながっているのである。