望月城(望月町望月)

佐久方面から国道142号を進み、新望月トンネルではなく、旧道である県道151号に入り望月トンネルをくぐると右手に望月城跡への看板がある。
ここを北に進んで行くと老人ホーム悠玄荘に着く。この北側一帯、南から延びる尾根の先端部が主郭部である。
城主郭部の標高は780m、西下の鹿曲川沿いの望月町市街地の標高が670m程度であるため、ここからの比高は110mほどあり、斜面も急勾配である。
一方、主郭部の東側は浅い谷津であり、比高は30m程度に過ぎない。
なお、城域は南側、新望月トンネルの上付近までの広大な領域であったというので南北1q以上にわたることになる。
旧中仙道が通る切通しも城域内であり、堀切であったようである。
車は悠玄荘付近の道が広いのでその付近に路上駐車も可能である。

悠玄荘前を北に入る農道があり、案内板がある。この道を辿ると直ぐに城址主郭部である。
台地に登るカーブの部分は二番堀という堀跡であり、東側と西側にきれいに残っている。
台地上はすでに畑とされたために埋められてしまっている。

台地に上がるとそこは畑であるが、ここも曲輪の跡である。
北を見ると主郭部が3段になっている光景が良く見える。
この上がってきた道の南側、悠玄荘の間も城域であり、台地上は畑で遺構は不明確であるが、西側と東側の斜面に腰曲輪が2段ほど確認できる。
悠玄荘北の切通しの道も堀切跡であろう。3段の主郭部南には一番堀があり、二番掘り同様、西側と東側がきれいに残る。
一番堀、二番堀とも台地を遮断する堀であり、東西80mほどの長さがある。
幅も残存部分から推定し、10m以上、深さも5m程度はあったのではないかと推定される。
斜面部分は竪土塁が堀と平行して築かれ、堀の末端は東側では曲輪になっている。
3段の主郭部は北端の本郭の南に二郭、三郭が展開する形となっており、郭間は3mほどの段差がある。

三郭は東西70m、南北15mほどの大きさであるが、西側が高く、東側に向けて3段になっている。そしてそのまま二郭、本郭の東西を廻る曲輪に繋がる。
二郭は東西55m、南北20m程度の大きさで西側部分に土塁が残る。本来、土塁は二郭を覆っていたのかもしれない。

本郭虎口は南西側にあり、その部分は石垣で補強されている。30m径ほどの広さで土塁が1周している。
北側は急勾配であり、2本の竪堀が豪快に斜面を下っている。

望月氏は馬の管理に長けた一族であり、信濃に16あった牧の筆頭が望月之牧でその牧監であった。
滋野氏から分かれた一族が望月に住み、望月を称したものという。
滋野一族からは海野が出ており、真田氏はその流れであるので同族ということになる。
望月氏は保元の乱にも登場し木曽義仲に従い上京してもいる。
しかし、義仲戦死後は帰郷して鎌倉幕府に従うが、余り優遇はされていなかったようである。

南北朝時代には南朝に組し、中先代の乱では北条時行の軍にも加わっていたようである。
このため、守護の小笠原氏とは反目し、小笠原氏側の大井氏の攻撃で衰退した時期もあったがしぶとく生き延びる。
山間の小領主に過ぎないも望月氏ではあるが、馬が重要な物資であり、そのノウハウを持つ特殊技術者であったことも生き延びることができた要因であろう。
これによる収入も領土からの年貢以上の金額であっただろう。
しかし、戦国期、武田氏の侵略を受けると天文12年(1543)望月城も包囲され、降伏し武田氏に従うようになり、以後、川中島合戦等に参加している。

第4次の合戦では望月盛時が戦死し、武田信繁の二男信雅が望月氏を継ぐ。
しかし、長篠の合戦では望月信雅が戦死し昌頼が継ぐ。
武田氏が滅亡すると北条氏の傘下に入るが、徳川軍の攻撃を受けて望月城が落城、ここに望月氏は滅亡する。 

東側から見た主郭部。 二番堀跡から見た主郭部。段々になっているのが見える。 二番堀は西側と東側に残り、中央部が埋められている。写真は西側。 一番堀も東西が残る。写真は東側に残る堀。
二郭内部。右側は本郭の切岸。 本郭内部。周囲に低い土塁が巡る。 老人ホーム悠玄荘北側の切通しは堀切の跡であろう。 主郭部の南、旧中仙道の切通しも堀切を利用していると思われる。

芦田城(立科町古町)

立科町役場方面より県道40号を白樺湖方面に1qほど進むと左手に芦田城跡の看板があるのでこの道を入る。
古町集落内の道は狭いが何とか車は上がって行ける。
この東の山が芦田城である。山の中腹に「芦田城跡」という大きな看板がある。
車はそのまま本郭西下のまで行くことができ、そこに3台ほど置くスペースがある。
城は西を流れる芦田川に面した直径300mの山にある。山の東側は谷状になっているのでほぼ独立した山と言って良い。
小さな山ではあるが、古町からの比高は55mほどある。

城址は地元の人が大切に管理しており、草刈も行なわれ、お陰様で快適に見学することができる。
駐車場も曲輪であるが、この二段上が本郭である。
途中の平坦地も曲輪であり、北下の曲輪の切岸は石垣で土留めの補強がされている。
城は頂上部の本郭を中心とした輪郭式である。
頂上の本郭は結構大きく50m×40mほどあり、全周を土塁が囲む。虎口が南側にあり、その部分は石垣である。
虎口は東にもある。東端の土塁が一段高く、ここは櫓台であったようである。本郭内部は結構荒れている。
北側に依田神社の小さな社殿が建つがかなり老朽化している。
芦田城は鎌倉時代に滋野系依田氏により築城され、ここに移り芦田氏を称して居住した城であるが、弱小の一族であったため、周囲の土豪に振り回された。小さな城であったので、信守の代には戦国時代を乗り切るためより要害性の高い春日城に本拠を移したという。

この時点で廃城同様になっていたのではないかと思われる。
なお、芦田川の対岸に光徳寺が建つが、光徳寺は文明年間(1469〜87)芦田城二代目城主、芦田右衛門太郎光玄が父初代城主芦田備前守光徳の追福のために建立したものという。

南西、光徳寺前から見た城址。 本郭内部は土塁が巡る。特に北側が立派であり、風避け用か? 本郭南側の土塁はささやかなものである。 本郭北側下の腰曲輪切岸の石垣。土留め用であろう。
本郭北側下の腰曲輪群は3,4段になっている。 城址東側の鞍部。ここには堀があったらしい。 本郭東下の腰曲輪。 芦田川対岸に建つ菩提寺である光徳寺。かなり立派な寺院である。

長窪城(長和町長窪)

旧長門町役場から北に2km、長窪の集落から立科町方面に国道254号が走るが、ここを走ると南に「長窪城址入口」の看板があるので林道に入る。
この林道を500mくらい曲がりながら登ると搦手口に着く。ここに城址碑と説明板があり、車は2台ほど置くことができる。
搦め手の尾根を少し行くと直ぐに堀切が見えて来る。北の尾根の堀切群である。
ここから主郭部まで堀切が5本もある。いずれも大きな堀切で主郭側からの深さは5mほどある。
主郭は北側に長さ30m位の腰曲輪があり、中央部に石垣を持つ土壇があり、その南に本郭という配置である。
本郭の南はお決まりの深い堀切があり、さらにその南に堀切が1本あり、さらに下にも曲輪がある。
さらに東下には馬屋と言われる30×10mの平坦地がある。
精々200m×50m程度という小さな城であるが、公園として整備されており、車で直ぐ近くまで行けるのがうれしい。

この城は誰が築城したのか良く分かっていない。
築城者は望月氏、大井氏、芦田氏のいずれかであろう。時期としては室町時代中期ころであろう。
この地を支配した大井氏がここを拠点としているが、大井氏が武田氏に制服されると武田氏の村上氏攻略の拠点となり、その後は地域支配の拠点となる。
武田氏が滅亡後、この地は真田昌幸の領土となるが、昌幸は上田城下に部下を集めたため、長窪城下に住んでいた部下も全面移転となり、これにより廃城となった。

南側から見た城址。 北側の五重の堀切の1つ。結構立派である。 北側最後の堀切を越えるといよいよ主郭である。 本郭の北側には土壇がある。
本郭の土壇から見た二郭。 本郭の南側には深い堀切が口を開ける。 本郭南の堀切は二重堀切になっており、竪堀となって斜面を下る。 堀切の南にも2つの曲輪があるが、遺構は曖昧である。