海尻城(南牧村海尻)
佐久地方の南の入り口、南牧村海尻にある。ここの標高は1000mを越える高原である。
この地区は千曲川が流れる谷幅が狭まり、ここを抜ける街道筋を抑える城である。
そのため、小さい城ではあるが、いくつかの資料にもその名が登場する。
これもこの城の重要性を示している。
城は佐久を治めていた伴野氏の出の井出長門守の築城というが、詳しい事は分からない。
その後、村上氏の家臣、薬師寺右近らがこの城を守っていたが、天文9年(1540)武田氏重臣板垣信方に攻略され、城は武田氏のものとなり、武田氏は小山田備中守昌行を城主にした。

同年12月地侍の反乱で城が囲まれ、それを村上氏が家臣の額岸寺和泉光氏等が支援、城は二の丸(おそらく居館があった伊王寺の地@?)まで攻略されたが、本城(山上の曲輪部分だろう。)は落ちず、甲州からの武田軍援軍の到着で救われたという。
武田氏による佐久侵略はこの後、活発化し、海尻城を前進基地としたが、村上氏等も反撃し、奪還を繰り返したようである。
佐久が完全に武田氏の支配化に入ると、戦略的価値はなくなるが、中継基地として使われたのであろう。

国道141号の海尻交差点に「海尻城址」の標示があり、交差点のすぐ西にある医王寺の山門@脇から登山道ある。
その道を登れば城址である。
さすが地図にもマーキングされている城だけあり、登城路は整備されている。
車は医王寺の駐車場に置かしてもらうのが良い。
寺から比高40mほど、千曲川からは比高70mの西側から突き出た半島状の尾根末端が城であるが、この尾根の斜面の傾斜は鋭い。
まともに登ることは不可能である。おそらく勾配を鋭くするように加工されているのであろう。
本郭部分ABは長さ60m、幅15m程度、内部は4段ほどになり、西端に土壇がある。
石が多いのでかつては石垣で補強されていたのではないかと思われる。
その後ろは定番の堀切Cである。
二重堀切ということになっているが、二重目は確認できない。
西に延びる尾根筋を30mほど行くと、日向山というピークDとなる。
ここは山続きの西側に対する物見であろう。
さらに西に尾根が続く。一方、本郭の東下には2段ほどの曲輪がある。
一番下の曲輪Eは本郭から15mほど下の位置にある。
@山麓にある医王寺は居館の跡だろう。 A主郭部を東から、西端に土塁がある。 B主郭部を西から、段々に傾斜している。
C主郭背後の堀切 D西のある日向山は物見だろう。 E東端下の曲輪