菱形城(小諸市菱平)36.3484、138.4297
小諸城の北約2qの浅間山の南西山麓にある。
南西側約1qには富士見城がある。
南側を上信越自動車道が通り、城址のど真ん中を浅間サンライン(県道80号線)が貫通する。
その貫通する位置は堀切があった場所らしい。
↑東側から見た城址。左側が主郭部。右側に浅間サンラインの切通しが見え、菱野交差点があり、上に菱形城橋がかかる。
法面は本来は田切地形特有の崖だったが、コンクリートが吹き付けられている。
城は例によって小諸地方特有の田切地形を利用しており、南に伸びる尾根状の台地上に城があり東西の斜面は崖になっている。
さすが高原の町、小諸なので城址の標高は845mほどある。
その東側の面はコンクリートが吹かれており、そこを県道130号線が小諸市街地から北の菱野温泉方面に延びる。
浅間サンラインとの交差点が菱野交差点である。
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現在、堀等の遺構は隠滅してしまっており、堀があった痕跡のみが確認できる。
集会所の北側の切通し状の道が城域北端であったと思われ、そこから道が南に延びる。
城は南北約300mの長さである。
集会所の南側に堀@があったらしく、幾分窪んでいる。
さらに南に浅間サンラインにかかる橋があるが、この場所Aには堀切があったようである。 もちろん、それほど深いものではなかったであろう。 そこを掘り下げて浅間サンラインの切通しにしたようである。 切通しにかかる「菱形城橋」を渡ると、その南側が主郭Bである。 この部分は地勢が広がった感じであり、南に向かって段々状になり、高度を下げ、扇状に広がっている。 この部分は北側より若干標高は低い。 主郭内は堀切及び切岸によりいくつかに区画されていたようである。 かつては畑だったが、耕作が放棄され太陽光発電システムのパネルが並べられている。 歴史等は不明である。 (宮坂武男:信濃の山城と館 を参考にした。 |
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B主郭内部は太陽光発電システムが並んでいる。 |
桃野城(小諸市菱平)
県道80号線、通称「浅間サンライン」を西に進み、「高津屋トンネル」を抜け、中沢川の沢を越えた台地が桃野城の南端部である。
この城のある岡、高津屋城同様、北東の浅間方面から延び、東西を中沢川、栃木川に挟まれた台地になっている。
台地上は比較的フラットである。
幅は200〜300mほどある。
肝心の城であるが、北東から南西方向に1qほどもある。
標高は920mから860mほどに渡る。
北東端の一段高い部分が主郭部であり、土塁が存在する一角Bがある。 土塁は100mほどの長さがある。 北は浅間山方面に通じるが、土塁で囲まれた北側に堀切が存在していた感じである。 ↑D付近から見た北東の尾根に延びる台地が城址、ただの畑である。先には浅間山が。 |
南側には台地を分断する2本の堀@、Aが確認できる。
堀の幅は10mほどありはっきりしている。
その南側は若干高くなり、堀跡や切岸のような部分C、Dがあるが、これが城郭遺構か耕作地整備に伴うものか判断できない。
結局、遺構も不明確であり、よく分からない城である。未完成品かもしれない。
もし、完成していたとしても広くて守るのも大変そうである。
@この堀は幅10mほどある立派なもの。 | A北側の堀は葦が生えていてよく確認できない。 | B土塁間に開く虎口、内部は畑である。 |
Cこれは遺構だろうか?耕地化によるものか? | DCのやや南西側、これも遺構? |
矢留城の雲之助の父大之助が築城したという説があるが、これは伝承の域がでない。
遠征する軍勢の宿城であったとも考えられる。
陣城であった可能性もあるが、幅10mの堀は陣城の概念を越える規模でありありえないだろう。
これほど広大な城を使うとすれば武田氏の軍勢宿営地の可能性もあるが、小諸城、平原城などよりふさわしい城もこの付近にも多くなんとも言えない。
武田氏滅亡後、この地に侵攻した北条氏や徳川氏が使用したこともありえないことではない。
(宮坂武男「信濃の山城と館」を参考にした。)
高津屋城(小諸市甲)
小諸駅の北東2km、小諸市街を見下ろす標高913mの山にある。
この山は北東の浅間方面から延び、東西を沢が浸食し尾根状になっている。
小諸市街が標高700m程度であるので、市街地からの比高は200mほどあり、木がなかったら抜群の眺望と思われる。
南側を上信越自動車道が通り、北側を県道80号線、通称「浅間サンライン」が通る。
城址のある部分の北側の山を「高津屋トンネル」となって貫通している。
この城は昭文社の地図にもちゃんと記載されている。
この地区では昭文社の地図で城址として記載されているのは、他に小諸城、富士見城程度である。
小諸城、富士見城が
載っているのでそれなりの城と思いきや、現地を見ると「?」目が点である。 とても小諸城、富士見城に並ぶ城じゃない。 なぜ、昭文社の地図に載ることになったのか、謎であるが、どうも別荘開発をした会社のPRを意図した陰謀だったのではなかったかと思う。 南側を上信越自動車道が通り、北側を県道80号線、通称「浅間サンライン」が通る。 城址のある部分の北側の山を「高津屋トンネル」となって貫通している。 |
この城は管理人にとって忌まわしい城である。
始めて訪れたのは10年前、高津屋トンネルから突入し山を歩いたが、結局、城は分からなかった。
ただし、山中に不気味な気配を感じた。
このため、10年間、この近くを通っても訪問を避けていた。
10年後、2014年11月22日、今回、再訪して理解した。
確かに10年前、ここには来ていたのだ。
ただし、そこが城址とは分からなかったのだ。
昭文社の地図に載るくらいの城ならそれなりの城であるとの先入観が間違いだったのだ。
結局、その程度の遺構だった訳だが、よく見れば確かに城ではあった。
10年後、再チャレンジした今回もどこか調子がおかしかった。
まず、来る途中、近道しようとしたら道に迷い、轍のある道で車の下部を石かなにかにぶつけ、ガラガラと異音がするようになってしまった。
(マフラーが割れたのかと心配したが、結局はマフラー保護の金属板が変形し、マフラーに接触しただけであり、金属板を叩いて形を修正して何とかなった。)
城までの階段を登ると途中に廃墟化した別荘があり、「ゾク」っと。
やっと城址に来たのだが、ここでも「ゾク」。
笹に覆われ朽ち果てた休憩所が不気味このうえない。
さらに写真を撮ったら、SDカードが一杯に!こりゃ、帰れ!ってことだ。ということで逃げるように撤退。
ここには何かがいる!あの朽ちた別荘も怨念によるものじゃないだろうか?
@ここが主郭(T)なのであるが、不気味! | A@の東下の曲輪Uと主郭(T)の土塁 |
肝心の城、30×25m程度と、東側3m下に同規模の30m×25mの若干歪んだ正方形の曲輪が2つ並び、低い土塁が覆っているだけだった。
斜面が急ならこの程度の規模でも良いが、周囲は緩斜面である。
北方向から攻撃されたら一たまりもない。
これでは戦闘などできるようなシロモノではない。
今は木が成長して眺望は絶望だが、木がなければかなり眺めはよいだろう。
小諸市街方面を監視する物見の場所程度じゃないだろうか。
北側の防備が弱く、南を監視する役目とすれば北方に位置する者が運用していたのであろうか。
武田氏が支配したころは使われていなかったのではないだろうか。
(宮坂武男「信濃の山城と館」を参考にした。)
松井愛宕山城(小諸市松井)
高津屋城から南南東600m、松井地区から南に突き出た尾根の盛り上がり部にある。
標高は840m、すぐ南下を上信越自動車道が通り、自動車道からの比高は35mほどである。
山の南側は上信越自動車道工事のため削られており、斜面はコンクリートで固められ、山頂の愛宕神社までの間に長い階段がある。
この階段を登ったのであるが、これがけっこう疲れるし、下を見るとかなり怖い。B
途中に帯曲輪の跡が確認できる。
階段を登り切った場所にある鳥居から南方を見るとこの城の位置付けが理解できる。
何しろ眺望が抜群なのである。
すなわち、南の小諸市街地方面や佐久方面を監視する城、高津屋城と同じ目的であり、高津屋城の支城であったものと思われる。
肝心の遺構、これは高津屋城と同程度の簡素なものである。
愛宕社がある山頂部とその北側に20m四方ほどの平場があり、さらにその北側に20m×15mほどの広さの小さな平場@、そして西側斜面部に帯曲輪があるに過ぎない。
@主郭部は2段になっているが、狭い。 | A主郭から北に下る尾根に小曲輪が展開する。 | B南側は上信越自動車道工事で削られている。 眺望は抜群であり、物見であることが理解できる。 |
山頂の愛宕社についての解説板はあるが、そこにはここが城址であるという記載はない。
地元でも城という認識はないのかもしれない。
山頂の下の方に展開する平場Aにはかつて児童公園として整備したらしく朽ちかけた遊具があり、平場は遺構ではなく、その整備の時、削平した可能性もある。
これらの遊具は少子化の影響なのか、使われている形跡はない。
ここはそれほどの山間のへき地ではないのであるが、ここにも少子化の波が来ているのであろうか。
(宮坂武男「信濃の山城と館」を参考にした。)
東城(小諸市和田)
佐久市境、湧玉川の北、鷺林城と川を挟んで反対側にある。
東から西に延びた半島状の岡、先端部に位置しているが、北側の谷津は埋め立てられ、小諸市和田浄水場になっている。
このため、先端の曲輪は湮滅し、湧玉川に面した崖上に若干の遺構が確認できるに過ぎない。
その先端の曲輪が本郭だったと思われる。
その東の部分も北半分が湮滅、南側の藪の中に堀跡@が確認される。
堀に面して塚があるが、古墳だろうか?櫓台だろうか?
その東の部分も藪。 堀跡のような、虎口のような窪みAがある。 その東側に1mほど盛り上がった部分Bがある。直径は50mほどである。 この先、東と北側は畑となっており曖昧である。 城ではあるが、すでに時が経ち過ぎ、遺構が耕地となって湮滅したりして曖昧になっているのか、それとも元々、こんなものだったのか? 耳取大井氏系の城郭ではなかったと思われる。 (宮坂武男「信濃の山城と館」を参考にした。) ↑南西側鷺林城下から湧玉川越しに見た城址。右側の林の中に遺構がある。背後の山は浅間山。 |
@堀跡であるが道程度に埋もれている。 | A こちらの堀ははっきりしているが埋もれている。 | B東に一段高い丸型の平坦地がある。 |