荒山城(佐久市大字大沢)
国道141号を臼田方向から北上、医王寺城前を過ぎ1q走行、前山城方面に向かうと、左手、西側に平地に突き出た比高30mほどの岡が見える。
これが荒山城である。岡に近づくと頂上部が平坦化され、堀が確認でき、斜面が段々状となっており城であることが分かる。
平地に突き出たと言っても、周囲は車で一周でき、ほぼ独立した岡、突き出し部の長さは350mほどである。 眺望に優れた地であることはよく理解できる。 城へは南側の集落側から行く道があるが、車で行った場合、駐車場がない。 このため、岡の北側に車を止め、岡を登る小道@を行けば、本郭と二郭の間の堀切Aに出る。 大永元年(1521)前山城の支城として、伴野貞慶、貞秀が在城したという記録が「貞祥寺開山歴代伝文」にあるというが、築城はもっと前であろう。 |
武田氏が佐久を支配下においた時の城主等は不明である。 武田氏滅亡後の天正10年(1590)の城主は市川長義であったといい彼が武田氏時代も城主であったようである。 おそらくその後、織田氏に従い、織田氏撤退後は北条氏に従っていたのであろう。 そこを徳川に付き、佐久平定を担当する依田信蕃が攻撃。落城し、城主の母妙高が自刃したという記録が「市河文書」に残る。 その後、廃城となったのであろう。 |
この時、依田信蕃が本陣を置いた場所が、北側を「陣川」の名に残る。
城は東の先端部から3つの郭が並ぶ、連郭式であり、郭間を堀で区画し、周囲に腰曲輪、帯曲輪を展開させる。
長命寺の裏、天神社のある坊中山が本郭Cである。
長さ100m、幅60mほど。南に傾斜している。
@北東側の小道を上がると、両側に曲輪が展開する。 | A @の道を上がると本郭(左)と二郭間の堀切に出る。 | B本郭の西に櫓台がある、 |
C櫓台から見た本郭 | D二郭の腰曲輪、建物は三郭。 | E二郭、三郭間の堀底 |
現在は畑である。西に高さ5mほどの大土壇Bがあり、「妙高稲荷社」の社があり、自刃した妙高を弔うものという。
北側には曲輪が並ぶ。土壇の西が深さ8mほどの大堀切となり、今は通路として使われている。
その西が二郭であり、中心部から北側にかけては墓地となっている。
腰曲輪Dがあるが、藪または畑である。東西100mほどの長さがある。
この二郭の西に堀Eがあり、その西側が三郭、かつて大沢小学校があった場所である。
岡の南斜面は岡により北風が遮る絶好の場所であり、集落となっている。
おそらく当時から根小屋であったのであろう。
航空写真は国土地理院昭和51年撮影のもの。
医王寺城(佐久市(旧臼田町)臼田医王寺山)
旧臼田町市街地の西を通る国道141号の西側の山のふもとにある医王寺の裏山が城址、この山、標高は780m、比高は80mほどである。
旧臼田町役場である南佐久支所のちょうど西に見える山にあたる。
この山、右の写真のように冬場は国道沿いから曲輪や堀の形がくっきり確認できる。 国道側から見ると山の東側は崖状の急勾配であるが、山の西側は山に続き、南側、北側も緩い勾配である。 山城ではあるが、西から見れば崖端城である。 城には南から農道が延びており、本郭部まで行けるが、その道が分からず、結局、医王寺からロッククライミングをしてしまった。 途中に崖があり、平坦地Eがあるが、これは遺構なのであろうか?石垣もあるが、これは何だろう。 ともかく、崖をよじ登る。 斜面を竪堀Dが医王寺に2本ほど下って行く。 |
悪戦の末、本郭北の堀切Cに出るが、何とその先は畑、その畑は帯曲輪である。 じいさんが枯れ草を集めて燃やしており、思わず腰くだけ。 本郭は非常に小さい。 西と南に帯曲輪が広がる。本郭@は小さく、20m×15mほど。この部分だけを見れば物見台か狼煙台程度のものである。 もともとそのような機能の城であり、それを城に拡張したのではないかと思われる。 本郭の北側の曲輪は鉄塔が建ち、改変されている。 本郭西側は畑となっており、改変を受けているようである。 |
しかし、どこまでが遺構なのか分からない。
本郭の南側は段々状の曲輪Aが展開し、切岸に石があるので石垣であったものと思われる。
この部分も畑であったようであるが、耕作は放棄され、イバラ地獄である。
南側に展開する曲輪群は10以上もあるようであり、途中に堀Bもある。
低地に近い部分は現在も畑や果樹園として使われている。
@本郭は非常に小さい | A 本郭南の腰曲輪 | B 本郭南側の堀 |
C 本郭北の堀切 | D東側斜面を医王寺方面に下る竪堀 | E東側斜面にある岩場と平坦地 |
本郭部は木が多く、見通しは悪いが木がなければ、佐久盆地を一望にできる。
延徳元年(1489)佐久地方が村上氏に占拠されると、村上顕国の子顕胤が、武田氏に備えて築城したという。
その想定から50年後、武田氏の佐久侵略が始まり、天文9年(1540)5月、武田氏の武将、板垣駿河守が武田信虎の命を受け、佐久に侵攻。臼田城、入沢城等、数十城を破り、前山城を築いて陣したことが、『妙法寺記』『塩山向岳禅庵小年代記』に記録される。
ここに登場する臼田城が医王寺城とされる。
その後、武田氏と村上氏の間で佐久地方が取ったり、取られたりの争奪戦が繰り広げられる。
天文18年(1549)の武田軍が平原城攻撃に「桃井山」に陣を置いたということが、『高白斎記』に記載されるが、それが医王寺城ではないかと推定される。
航空写真は国土地理院昭和51年撮影のもの。
深堀城(佐久市中込字深堀)
佐久市役所から国道141号旧道を500m南下すると中込台地南端部、中込原南交差点で新道と合流する。
その手前西に皇大神社がある。この神社の地が深堀城の本郭という。
神社の地は南、西が急斜面であり、下からの比高は15m。志賀川が南から西に流れ、西下を小海線が通る台地の南端に位置する。
神社は東西50m、南北60mほどの広さであり、北側に堀の痕跡があり、西側の斜面は竪堀となっている。 どうもその外側にもう1つ曲輪があったようであり、梯郭式の城だったようである。 旧道は堀の位置を通っているようである。場所的には千曲川越しに臼田の方まで展望できる場所である。 城の歴史は明らかではないが、八反田城主上原筑前守の一族、上原和泉守の城と伝承される。 八反田城は東1q に位置し、その支城であろう。 中込台地の南端を守っていたのではないかと思う。 構造もそっくりである。 航空写真は国土地理院昭和51年撮影のもの。 |
本郭とされる皇大神社境内 | 神社境内北側には堀跡が残る。 | 南側の参道から見た低地。横を小海線が通る |
瀬戸城山(佐久市平賀瀬戸南)
八反田城から東500mの志賀川を隔てた東の対岸の東の佐久リサーチパークとなっている山から西に突き出た比高20mの岡を「城山」といい、長野県の中世城館跡でも城跡としてマーキングしている。
その岡に行ってみたのだが、尾根続きの東側を横断する道路が堀切跡のような感じはするが、肝心の岡先端部は墓地であり、特段何も遺構と思われるものはなく、岡の周囲も緩やかであり城館という感じの地ではなかった。
地元でも「城山」の名前はあるが、城の伝承はないという。
居館程度のものがあった可能性もある。
館主とすれば八反田城主上原一族の者であろう。
または、合戦時に陣を置いたことがあったのかもしれない。航空写真は国土地理院昭和51年撮影のもの。
東側から見た城山。 裾は緩い傾斜である。 |
岡頂上部には遺構らしいものはなかった。 |
中城峯(佐久市平賀瀬戸東)
「なかのじょうみね」と読む。 長野県の中世城館跡でも城跡としてマーキングしている。 瀬戸城山の北700m、志賀川東岸の断崖の突端にあったというが、現在、佐久リサーチパークの「ダイキ」という工場の敷地となっている。 南の裾野に永禄元年(1558)上原筑前守が開基したという宗福寺があるので、上原氏の城と推定される。 航空写真は国土地理院昭和51年撮影のもの。 |
曽根新(そねあら)城(佐久市岩村田字新城)
城址は上信越自動車道・佐久ICの北西にあたる。この地の城郭共通の特徴である田切地形の川の断崖に面した城だった。 濁川に面した断崖上にあり、長野県の中世城館跡によれば450m×125mの連郭式の比較的大きな城だったようであり、戦国期末期、この地が徳川領となっていたころの城であったという。 諏訪氏、松平氏とされ地域支配用の拠点として使用したらしい。 おそらく田切地形を利用した耳取城のような感じではなかったと思われ、「新城」「藤塚」「がん沢」などの城に関わる地名も残る。 現在、ICが設置され、周囲もすっかり変わってしまい遺構らしいものは確認できない。 |
曽根城(佐久市西屋敷)
濁川の田切地形を利用した城の1つであり、佐久ICの北東1q、戸谷城の南西600mに位置する。 南と東が濁川の断崖に面し、西と北に堀を巡らした80m四方ほどの単郭の館であったという。 西屋敷という地名が城の存在を示唆している。 西屋敷がここだとすると、東にも屋敷があったはず。 それは戸谷城か、それとも小田井城か。 城址比定の場所に行ってみたのだが、ただの畑だった。 とうに堀は埋められてしまったようであり、痕跡がない。 ということで写真の掲載も断念。航空写真のみ掲載。 神津氏の城だったという。 航空写真は国土地理院昭和50年撮影のもの。 |