布引城砦群

小諸市の西部に御牧ヶ原台地がある。
標高750mほどの台地であり、台地上は比較的平坦で畑や宅地、別荘地になっている。
名前からして、昔は放牧場だったのだろう。

しかし、この台地の北が凄いのである。
北下を流れる千曲川まで高さ200mの崖状なのである。
とんでもなく恐ろしい断崖になっている。

その断崖の途中に「布引観音」がある。
「牛に引かれて善光寺参り」で有名な寺である。ちなみにこの伝説。

「昔、善光寺から東に十里、小県郡に強欲で信心の薄い老婆が住んでおりました。
この老婆が千曲川で布をさらしていたところ、どこからか一頭の牛が現れ、その布を角にかけて走り出しました。
老婆は驚きましたが、布惜しさに野を越え、山を越え、牛の後を追いかけました。
そして気がついてみると、善光寺の境内まで来ておりました。老婆はやっとのことで牛に追いついたと思ったのもつかの間、牛は金堂のあたりで姿を消してしまいました。
驚きと悲しみに疲れ果てた老婆はあっけにとられてその場に佇んでしまいました。
やがて日も暮れる頃、どこからともなく一条の光明が差し、その霊光の尊さに思わず跪いて菩提心を起こし、一夜を金堂に篭って罪悪を詫び、家に帰って参りました。
これは布引か観世音菩薩が牛に化して信心うすい老婆を善光寺阿弥陀如来の許に導いて教化したのでした。
ある日のこと、ふと布引山を仰ぎ見ますと、岩角にあの布が吹付けられているではありませんか。老婆は何とかして取り戻したいと思いましたが断崖絶壁で取るすべもありません。
一心不乱に念じているうち、布とともに石と化してしまったということです。布引山の断崖には今も白く布の形をした岩肌が眺められます。」

(現地の解説板より)

その御牧ヶ原台地の北、千曲川に面する崖沿いに不思議な城がある。
楽巌寺城と堀の内城である。
ともに異型の城として知られる。
特に楽巌寺城は変わっている。
崖沿いに長塁と堀があるだけで、曲輪らしい部分がほとんどない。
塁を突破したら敵も味方も崖を真っ逆さまに転落である。
一体、何を守ろうとした城なのか判断がつきかねる。
普通に考えれば、はるか下にある布引観音、釈尊寺を守備する城であるが・・しかし、そこまでは崖、突破されても障害が多すぎる。

その西400mにある堀の内城は、まさに隠し砦である。
まさか、細尾根の先に広い平坦地が広がっているとは。
その細尾根の付け根部に遺構が存在する。両城、楽巌寺城は楽巌寺氏の城、堀の内城は布下氏の城というが、本当かどうかは分からない。
距離からして2城1体のものだろう。

楽厳寺(がくがんじ)城(小諸市大久保)
城の堀と土塁を突破したら、その先は崖なのである。
細尾根が延びており、そこに若干の遺構はあるが、そんなものを守る施設としてこの城の堀と土塁、立派なのである。
しかし、遺構の西側に別荘が建てられ、その部分はかなり破壊を受けている。

城は別名、「布引城」「額岩寺城」「楽岸寺城」ともいう。
標高は756m、千曲川からの比高は208m。北側は絶壁である。
少し下った場所に城の別名の由来ともなった「布引観音」がある。
城の北側は絶壁なのであるが、一転、南側は緩やかな御牧ヶ原台地が広がり、民家が点在する。
当然、この城を攻めようとすれば、南側の御牧ヶ原台地側からである。

そのため、長さ150mにわたり、水堀状の堀@と土塁Aが構築され、途中に土塁間の切れ目がある。
さらに北側の尾根にも深い堀Bを2重に持つ。

何のためにここまでのものを作ったか不思議であるが、御牧ヶ原台地にいる敵を攻撃するための出撃基地と解釈すれば、この訳の分からない城の意味が見えてくるような気がする。

この城の500mほど西にもう1つの異型の城「堀の内城」がある。
山の縁部に不相応な堀と土塁を巡らすのは同じであるが、堀の内城は土塁の背後が細尾根状に北に延び、その先に不思議な平坦地が広がっているのである。

この2つの城は本来1つの城であり、堀の内城が守りの城、楽巌寺城は堀の内城を援護する攻めの城、いわゆる防衛用の「陰の城」に対して、攻撃用の「陽の城」という位置付けではなかったかと思う。

似た城が群馬の甘楽の「麻場城」と「仁井屋城」の関係にある。
築城時代など詳しい歴史は不明だが、この地の土豪楽巌寺氏の城という。
でも居住のための城ではない。
そんなスペースはない。

築城時代など詳しい歴史は不明だが、この地の土豪楽巌寺氏の城という。でも居住のための城ではない。
そんなスペースはない。
戦国時代の楽巌寺氏当主は楽巌寺 雅方。通称は右馬介。
元は釈尊寺の末寺・楽巌寺の僧侶で、剛勇で知られたという。
武装寺院の僧兵の長だった訳である。武田信玄の侵略に対抗するため、布下氏や武装寺院と化した枡形城とともに村上義清と連合して武田信玄と戦うが天文17年(1548年)頃に楽巌寺を失い、砥石城で抵抗、その後村上氏没落後、武田氏に帰順し、望月信雅の配下として楽巌寺城にいたという。(住めないと思うが・・)
なお、村上義清の家老室賀光氏も楽巌寺姓を名乗っているが、光氏との関連は不明。同人とも考えられるが、光氏は天文23年(1554年)に没しているので別人であろうと言われている。
@南側の堀は幅5m、水堀状の部分もある。 A内側から見た土塁 B2本目の堀

堀の内城(小諸市大久保)

楽厳寺城から西に500mにある。
標高は756.2m、千曲川からの比高は230m。

入り口部は楽厳寺城とほぼ同じような構造。
ただし楽厳寺城の堀、土塁が直線的なのに対して、こちらは長さ100mほどもある水がある堀@と土塁が半円状に配置され、その北側にさらに諏訪神社がある曲輪Bがあり、堀Aと土塁が囲む。

この堀を三日月堀として、武田氏の改修という説もあるが、なぜかこういう遺構があると武田に結びつけたくなるようだ。
真田氏改修説もある。それなら第一次上田合戦の時だろうか。

この先、さらに道が細尾根を北に延び、100mほど行くと、土壇Cと堀切Dがある。
この周囲は廃バンガローが建ち並び、昼間でも不気味である。
さらに細尾根を100mほど行くと目の前に平地Eが広がる。
そこには民家があり、畑があり池まである。
この平地300m×200mほどある。
城郭遺構らしいものはほとんどない。
この平地の周囲は断崖であり、ここに逃げ込めば南側に通じる細尾根から以外来ることは不可能である。

したがって、入り口部の堀と土塁で防衛すればこと足りるコストパフォーマンスが高い城である。

布下氏の城ともいうが、ここは逃げ込み城であり、北西下の千曲川沿いの布下地区に布下氏の居館があった。
堀の内城の城主は諏訪刑部左衛門頼角だったらしいが、彼が城代であったのではないかと考えられる。


@南端部城入口の堀 A2重目の堀 B諏訪神社の周囲には土塁が回る。
C細尾根の途中にある曲輪 D細尾根の途中にある堀切 E北には広大な平坦地が広がる。


愛宕山城(小諸市大久保)

県道423号線沿いにあり、愛宕公園の地が城址という。
ここの標高は764m、この山、長さ東西400mほどあり、堀切が2箇所あるという。
しかし、西半分は公園となって跡を止めず、東半分は藪山で歩けず、遺構は発見できなかった。
楽厳寺城の東1qにあり、支城とはいうが・・。








枡形城(小諸市大久保)
布引温泉年金保養センターこもろの地が桝形城のあった場所であるが、遺構はなく、城址碑が建つだけである。
小諸市街地の西、布引大橋を渡った千曲川南岸にあり、周囲の道路が堀の跡らしいのだが・・・・
この城は布引城砦群のひとつであるが、ここにあった神興寺という寺が、城砦化したものという。
100m×80mの単郭構造であったという。布引山釈尊寺の寺院勢力を形成した布下氏と楽厳寺氏に呼応した神興寺が寺院を城郭化し、連合して武田氏の侵攻に対抗したという。
天文17年(1548)8月の武田氏の攻撃で楽厳寺城、堀の内城が落城、その時、桝形城も落城したと思われる。

航空写真は国土地理院昭和51年撮影のもの。