たて茂沢城(軽井沢町茂沢)
軽井沢といえば、日本を代表する避暑地、夏など都会がそのまま移転してきたような雰囲気となる。
しかし、それは旧軽井沢付近のこと。


↑ 南東側、茂沢川岸から見た城址。右側最高部がCに当たる。
下からは高さが50m以上ある。


この町はずれの茂沢地区はそんな国際観光都市軽井沢と同じ町とは思えないような日本のどこにでもあるような山間の田舎である。
そんな軽井沢町の南西部、御代田町境付近の茂沢地区にこの城がある。

信濃追分駅から直線で2km南の湯川と茂沢川に挟まれた東西400mほどの細長い尾根状の山が城址である。標高は883m、比高は西側の湯川と茂沢川の合流点から80mほど。
東から南を県道157号線が通る。と言っても狭い県道である。
山の南北は急斜面であり、特に南側は岩盤むき出しの崖である。
この城には東から登ることができる。

東側には倉庫や竹林がある台地@になっており、字名を「立」という。
字の通り居館があった場所であろう。ここから登れる。

しかし、道などある訳がない。
ご丁寧に笹や枝、小さい木が刈られているので見通しはよい。ところが、これが先を塞ぐのだ。
つまり逆茂木になっているのである。しかも、急斜面、このため登攀はは予想以上の苦戦。

「立」の西側にピークが聳える。
「立」からの高さは30mはあるであろう。
そのピークに行くがその先には細尾根がアップダウンしながら続く。

ピーク部Aは物見台のようであり、鞍部には堀切Bのような感じの部分もある。
もしかしたら本物の堀切なのかもしれない。でも、こんな細尾根、自然のままでも十分じゃないかと思うが。
細尾根から下を覗くと怖いこと、足を踏み外したらとんでもないことになる。
これが約200mほど続く。途中のピークに祠があるはずであるが、基台部を残してなくなっている。
付近を捜したが部材が見つからない。ここで趣味の祠復興ができると思ったのだが。
どうやら崖下に部材は崩落してしまったようである。残念!
その先の鞍部を越えると、標高883mの三角点の建つ、最高地点Cとなる。

ここからは西下に扇状に曲輪が展開Dする。
高度約30mほどの間に曲輪が5,6個ほど展開し、さらに下に三角形の大きな曲輪Eがある。
さらに西下の湯川と茂沢川の合流点にかけて曲輪が存在する。
この西側部分にはかなりの人数が収容できそうである。

@東から見た城址、竹林部分が「立」、居館跡か? A 細尾根上のピーク。物見か? B細尾根上には堀切のような部分もある。
C城址の最高地点、ここから西に曲輪が展開する。 DCの西側に展開する曲輪群 E Dの曲輪群の下に三角形の曲輪がある。

Eの曲輪に下りた時、曲輪内に大きな獣の足跡があった。
前日が雨なので足跡はくっきり残っている
この足跡は・・・そして、何やら獣臭が・・・で、回れ右をしてDの曲輪群を駆け上り、細尾根を逃げ帰る。
姿は見ていないけど、御城主がどこかの木の幹の陰から見ていたのかも?

城の歴史等はまったく不明である。
この付近は牧場経営以外、生活を支える手段はあったのかどうか?
そんな牧場経営者の非常時の避難施設だったのではないだろうか。
(宮坂武男「信濃の山城と館」を参考にした。)

備前屋敷館(軽井沢町追分)

軽井沢町西部信濃追分の南部、御代田町との境付近の別荘地の一角にある。

館のある付近はカラマツや白樺など林であるが、東側はキャベツなど高原野菜用の一面の畑となっている。

館は西側が滝沢に面した台地の縁を利用して西側以外の三方に堀@、Aを巡らしている。
幅は8mほど、深さは5mほどであろうか。
堀内は藪状態である。

館内部の広さは50m四方程度、曲輪内は現在、家があるが、別荘か住宅かは分らない。

面白いことに館の土橋がそのまま家の入口になっている。
堀に面して土塁が存在していたらしいが失われている。

@館南側の堀は竪堀となって西に下る。 A館東の堀と館内、内部には住宅がある。 B南側にある土塁に囲まれた場所

戦国期、追分に住んだ土豪の土屋氏の館と言われ、伝承や地名の備前林から土屋備前守と
名乗る人物の屋敷とされている。土屋氏がどのような者からは分らないが、近世はじめまで追分に居たことが
確認できるという。なお、武田氏家臣に土屋氏がいるが、その一族の可能性もある。
標高950mもある冷涼なこの地、作物はそれほど育たないであろう。
土屋氏の収入は果たしてどうしていたのだろう。

今は別荘地になっている館外側にも曲輪が存在したといい宮坂氏は「館南辺から低い土塁列が東に延びている」と書いているが確認できなかった。
しかし、館から南の林の中に南以外を土塁に囲まれ、西側と東側に堀Bがある地形がカラマツ林の中に発見した。
上の右のイラストである。
これが館と関係する遺構か判断できないが、城郭遺構とは思えなかった。
これは馬を囲う施設であったような感じもする。
土屋氏の生業は牧を営み、馬の飼育を本業にしていたのではなかったのだろうか?
(参考: 宮坂武男/信濃の山城と館)

油井中屋敷(軽井沢町長倉)

軽井沢バイパスの終点近くの南側、泥川に臨む低地に北側から突き出した2本の尾根状台地上にある。
南側に熊野神社@、Aがあり、その北の台地上が館跡、神社から登る道があると期待したが、甘かった。
斜面は笹藪であり、道などなかった。
若干東に台地上の祠Bに行くための笹を刈り、ロープをつけた場所があり、岡の上まで比高20mほどを登る。
祠はあったが、岡の上Cは一面の笹薮、しかも、タラのような棘のある木が密集、ほとんど歩けない。
堀も笹薮で何がなんだか分らない。


@ 南から見た館跡。岡中央部中腹に熊野神社がある。
 その背後の比高20mほどの岡が曲輪T。
 Bの祠は右端部にある。
 鉄塔付近に堀があり、その左側が曲輪Uである。
A曲輪U下の熊野神社 B曲輪Tにある祠 C曲輪T内部。凄い笹薮状態。

東西2本の岡を数本の堀で仕切った館であったようである。
西側の遺構が主体部であり、5つの曲輪が直線に並ぶが、多分、曲輪Uが本郭ではないかと思われる。
しかし、どうにも行ける状態ではない。
油井さんの館であるが、油井さんという姓、この地方に非常に多い。
この館も牧場経営を生業とする者の居館ではなかったかと思う。
(参考: 宮坂武男/信濃の山城と館)