羽生城(羽生市)
羽生市役所の北側一帯が城址というが、そこはただの住宅地で何の痕跡もない。
天文5年(1536)、木戸忠朝が羽生の小松神社に奉納した懸仏の銘文に名前が記載されているので、このころ、古河公方足利晴氏家臣の広田直繁と木戸忠朝の兄弟二人によって築かれたらしい。

しかし、天文15年川越合戦で上杉氏を破った北条氏の攻勢が強り、天文21年(1552)に北条氏により城は落城し、中条出羽守が城主となったという。
ここであの上杉謙信(当時は長尾景虎)の登場である。
永禄4年(1561)、越後に逃れた上杉憲政から関東管領職を譲られた長尾景虎が、関東地方に侵攻する。
羽生城もこの時、奪還され、再び広田直繁・木戸忠朝が城主に返り咲く。

しかし、謙信が越後に引き上げると北条が攻撃し、再度、謙信が出てくると北条は退散するを繰り返すが、北条の勢力が拡大した天正2年(1574)、謙信は羽生城を破却して、木戸忠朝以下千人の城兵を上野国の膳城に移したという。
その後、羽生城は再建され、北条氏に従うようになった忍城の成田氏が管理するようになった。
天正3年には成田氏長の一族、成田大蔵醤少輔長親が城主であったという。
 天正18年(1590)、小田原の役では羽生城には城代の禅照寺向用斎がいたが、兵力の集中を図るため、成田氏の本拠忍城に籠城するため放棄され、役後、徳川家康が関東に入府すると、羽生城には大久保忠隣が2万石で入る。
その後忠隣は小田原城に入るが、改易のされ、慶長14年(1614)羽生城も廃城となったという。

縄張もよく分からないが、航空写真は国土地理院が昭和49年に撮影したものであるが、ここに山崎一氏が作成した推定縄張図を参考に曲輪を書き加えた。
この縄張は最終期のものであろうが、羽生市街地の東半分が城域という広大なものである。
北から東を蓮沼があるが、ここは湿地帯であったようである。
現在、一部が水田になっているが、かつての姿を連想させる。

皿尾城(行田市皿尾)
忍城の北西2qの水田地帯の微高地が城址という。
市街から県道303号線を北西に走り、秩父鉄道の線路を越えた高太寺などがある皿尾地区にある。
そこは宅地と畑、そして水田になっており、城の遺構は確認できない。
南北に長い微高地上が皿尾の集落であり、そこ一帯が城址だったようである。
この地方特有の湿地を要害とした城である。

北に大雷神社があり、そこが主郭であったという.
南北85m、東西65m程度の広さに過ぎずかなり小規模である。

左の写真は昭和49年に国土地理院が撮影した航空写真である。
集落が皿尾地区であり、北端の林が大雷神社である。
その周囲に堀跡のような低い場所が見られる。
神社裏には土塁があるが、これは社殿建設に伴うものかもしれない。
城址碑が西側の農村センタに建っている。
西側と南側の水田は堀跡のように思える。

もともとは忍城の支城であったらしいが、永禄4年(1561)、離反した忍城の成田長泰攻撃のため、上杉謙信(当時は長尾景虎、以下、通称の上杉謙信という。)が奪い取って整備し、木戸監物入道を城主に入れたという。
いわば忍城攻撃の付け城である。

この成田長泰攻撃の経緯は有名な話であり、永禄3年(1560年)上杉謙信は関東管領上杉憲政に関東管領職と上杉姓を譲られ、その就任式と北条氏攻撃に関東に出陣、翌永禄4年に小田原城を包囲した後、鎌倉の鶴岡八幡にて関東管領の就任式を行う。
成田長泰は八幡宮門前にて馬上で待っていたため、謙信それを見るなり、管領に就任した自分の前で馬上にいるとは何事だと長泰を馬から引きずり下ろして叱咤、大衆の面前で恥をかかされた長泰は早々に忍城に帰り、そのまま北条方へ転じたという。
これに対して謙信が北条方に付いた長泰を攻撃するため、忍城攻めのため皿尾城を整備したという。

その後、羽生城を後詰めで謙信と北条方成田氏の攻防戦が展開される。
謙信が皿尾城を重視した理由は、一つに忍城への牽制と成田氏の収入源であるこの付近の広大な水田地帯を押さえ、成田氏の財源を絶ち、成田氏に経済的圧力をかけるためともいう。
忍城のすぐ北西に位置するため、嫌らしさは抜群である。
湿地に囲まれた忍城も攻めにくいが、この城も同様に湿地にあるので、想像以上に攻めにくかったのであろう。
よくこんな至近距離で緊張感が維持できたものである。

主郭と言われる大雷神社、背後に土塁が? 神社東側の堀跡のような場所

謙信の関東撤退で成田氏のものになったようであるが、一説には皿尾城の木戸監物が裏切ったので謙信が皿尾城を焼き払ったともいう。
最終的には小田原の役で成田氏が没落することで廃城になったと思われる。

この皿尾城の北に「蚊喰塚」がある。
巨大な土盛り塚であるが、これは前方後円墳であろう。
物見に利用していたのかもしれない。

ここに罪人を全裸にしてこの塚に生えていた木に縛りつけ、
蚊の餌食として殺した伝説がある。これは湿地で蚊が多く、マラリアのような病気が発生したことが緒源ではないかと言われる。

騎西城(加須市騎西町)
上杉謙信の八つ当たり攻撃で落城し、籠城していた城兵や平民が撫ぜ切りにされたことで有名な城である。
この落城で廃城になったのかと思ったら、さにあらず、江戸時代まで使われ続けられていたという。
名前は知られているが、見事に何もない。
かつてはやりであった模擬天守が建ち、これは昭和バブル期の遺構である。
そのうち、文化財になるかも?

築城時期は分からないが、康正元年(1455)古河公方足利成氏が、庁鼻和性順、長尾景仲が守る深谷上杉氏の城であった騎西城を攻略したという記録が初見。
したがってこれ以前には存在していたようである。
この後、古河城の支城として存続していたようである。
戦国時代になると関東平野は上杉謙信と北条氏の抗争の舞台となり、騎西城もそれに翻弄される。

永禄6年(1563)には北条方であったようである。
このため、上杉謙信が武蔵松山城の救援に間に合わなかった腹いせに小田助三郎の守る騎西城を攻め、落城させ、城兵や平民が撫ぜ切りにする。
撫ぜ切りと言えば、伊達政宗、武田信玄、織田信長の得意技であるが、あの上杉謙信もやっていたのである。
その目的は見せしめに他ならない。

その後、謙信が越後に帰ると騎西城は北条方が奪還したようであり、天正2年(1574)の第三次関宿合戦では、簗田持助の関宿城が北条の大軍に包囲され、それを助けるために出陣した上杉謙信がこの騎西城、菖蒲城などの城下を焼討ちして牽制している。

天正18年(1590)の小田原の役ではどうしたのか分からないが、おそらく放棄されていたのではないかと思われる。
役後、城は松平康重に与えられた。
関ヶ原後の慶長6年(1601)大久保忠常が城主なるが、寛永9年(1632)、大久保忠職が美濃加納城へ移封となった時に廃城となった。
城址の水堀の位置に建つ模擬天守 天神曲輪に残る土塁

その騎西城であるが、四方を湖沼・湿地に囲まれた城であったらしいが、現在ではほとんどなにもない。
模擬天守が建つが場所はかつての城の水堀の部分である。
土塁が残るが、場所は間違いないが、これもかなり土盛りがされて復元修復されているもののようである。
付近の道路拡張工事の際に行われた発掘では2重の畝堀なども見つかったというので、北条氏が支配した天正時代のらしい。
現在は埋め戻されて地下に保存されているという。

菖蒲城(菖蒲町新堀)
町の名前の由来となった城なのであるが その城跡、水田地帯の中の微高地に過ぎない。
遺構らしいものも何もない。
そこは名前のとおり「菖蒲園」であった。

場所は国道122号線菖蒲宮本交差点から南西、桶川方向に走行した場所である。
そこは城址碑が建っているだけである。
本当にこの地なのか疑問もあるようである。
左の写真は北東側から見た城址があったという微高地である。

一部、発掘は行われたが、明確の遺構は検出されなかったが、戦国期の陶磁器片や弾丸遺物が出土し、戦国期に何らかの施設がこの場所に存在したことは確実のようである。

ここが菖蒲城の地とすれば忍城や騎西城と同じように湿地に囲まれた微高地にあった城ということになるが、今の状況では大々的な発掘をしないと曲輪の配置なども分からない。

城は古河公方足利成氏が、康正2年(1456)、金田式部則綱に築城させたという。
古河移転と同時期のことであり、抗争相手の上杉氏に対する城という位置付けであろう。

この金田氏は菖蒲佐々木氏ともいわれ、近江国佐々木氏の流れという。近江佐々木氏と言えば、バサラ大名佐々木道誉が有名であるが、彼は足利尊氏と懇意であった。
多分、そんな関係からその一族が鎌倉府に下った足利一族に同行したのであろう。
それの末裔が初代城主の金田則綱なのであろう。

金田氏はここで氏綱、顕綱、定綱、頼綱と続き、6代秀綱の時に忍城主成田氏長に属したという。
つまり、城は忍城の支城ということになる。
その成田氏は北条氏に従っていたので、騎西城同様、上杉謙信の攻撃も受けたであろう。
小田原の役では北条方の城として、戦後は廃城の憂き目にあい、城主金田氏は武家としての地位を失い、この地で帰農し大塚姓を称した。

なお、城の名前の由来は、城の竣工が5月5日の菖蒲の節句にであったことによる。
また武士が大切にする「勝負」という言葉を「菖蒲」にかけたともいう。
享徳4年(1455年)6月、足利成氏が室町幕府および管領上杉氏との抗争の過程で、鎌倉より古河へと転戦する際に「武州少府」に一時逗留した旨の記述があり、この「少府」を「菖蒲」の地に比定する説もある。

それが巡って、今は久喜市に合併されているが「菖蒲町」の名前にまでなっている。
天正18年(1590年)小田原の役後、廃城となり、以降、徳川家康家臣の旗本、内藤正成が栢間陣屋(久喜市菖蒲町下栢間)を構えて5700石を知行し、幕末まで同地を治めた。