忍城(行田市本丸)
映画「のぼうの城」の舞台、小田原の役での石田三成による水攻めで有名。
行田市の中心部一帯が城址であるが、市街化してしまい遺構はごくわずかである。
しかも、江戸時代の城としての遺構であり、戦国時代の忍城の姿はまったくない。
城は湿地帯・湖沼地帯の島・微高地を利用した城である。

本丸の地が行田市郷土博物館になり、復興三階櫓が建つ。@
しかし、もともとはこの地には三階櫓はなく、南側の勘定所があった曲輪Eにあった。
本丸はかつては野球場であり、今の堀や土塁A、Bはほとんどが復元されたものである。

本物と言える遺構は国道125号線をはさんで北に位置する東照宮にある。
ここは諏訪曲輪跡であり、北側に土塁と堀Cが残る。
しかし、藪状態で写真を撮っても分からない。
堀も残るがかなり埋められてしまっている。
また、南東側にある水城公園の池Dこそがかつての水堀の跡という。

文明10年(1478)頃、地元の豪族であった山内上杉に属する成田正等・顕泰父子がこの地を支配していた敵対する扇谷上杉家に属する忍一族を滅ぼし、築城したといわれている。
翌年、扇谷上杉家が忍城を攻めるが、太田道灌の仲介によって和解、以後、成田氏が領有が確定する。
河越合戦後、北条氏が関東に勢力を伸ばすが、成田氏はこれには抵抗し、天文22年(1553)、北条氏康の攻撃を撃退している。
この時期は成田氏は独立路線を模索していたようである。
永禄3年、上杉謙信が関東に進出すると成田氏は抵抗の素振りを見せるが、結局は従属。

永禄4年(1561)の上杉謙信による小田原城攻めに参陣、ここで成田長泰が、鶴岡八幡宮での関東管領就任式事件を起こす。
これにより成田氏は上杉氏から離反、北条氏に従うようになる。

@本丸跡に復元された三階櫓 A復元された本丸東の堀 B本丸内部の復元された塀
C諏訪曲輪の北に残る土塁と堀は本物 D城の南部の沼は水城公園として残る。 E 本物の三階櫓の土壇

その後、何度か上杉謙信による忍城攻撃に晒されるが、何とか持ちこたえている。
天正末期になると完全に北条氏に支配され、天正18年(1590)の小田原の役では、城主成田氏長は小田原城に篭城させられ、忍城は甥の成田長親を城代とし、家臣と農民ら3,000の兵が忍城に立てこもる。

これに対して、豊臣方は総大将に石田三成、大谷吉継、長束正家らも加わった2万の軍勢で攻め寄せ、本陣を忍城を一望する近くの丸墓山古墳(埼玉古墳群)に置く。
この丸墓山古墳、さすが埼玉古墳群の盟主だけあり、高さはいまでも19mある。
頂上は直径30mほどに削平されている。
ここからは忍城の本丸が一望の下である。

三成は近くを流れる利根川を利用した水攻めを行うことを決定し、総延長28qに及ぶ石田堤を築く。
しかし、忍城はついに落城せず、小田原城開城により開城、成田氏は降伏する。
しかし、水攻めで落城しなかったことにより、忍の浮き城という別名が生まれ、名城という評判を得る。
この籠城戦のとき、成田氏長の娘である甲斐姫が活躍して包囲軍を退けたという伝承もあり、これが「のぼうの城」に登場する。

三成の本陣が置かれた丸墓山古墳 古墳頂上に本陣があった。ここに三成がいたのか。 古墳頂上から見た忍城本丸の三階櫓

この水攻めであるが、あまりにここは平地すぎて水攻めは無理である。
総延長38qもあり、1週間で完成したというが、実際は1ヶ月以上も工事し、結局完成しないうちに戦いいが終わってしまったらしい。
これは多分、石田三成の発想ではなく、権威を見せつけようとする秀吉の指示によるものであろう。

こういうことは現在でもよくある話、現地を見ずにワンマン上司が指示を出し、それに末端が振り回されるという悲劇である。
一番辛い立場なのは中間管理職である。結果責任は指示を出した聞く耳持たぬ上司ではなく、実行させられた現場の中間管理職が負わさせるという悲劇である。
なお、手抜き工事か忍びによる工作で堤防が決壊して大勢が溺れ死んだということが言われているが、堤防の決壊はあったかもしれないが、それほどの死者が出たようではなく、これもあまり信用できる話ではない。
この話は江戸時代、石田三成の評価を下げようとする幕府による捏造であろう。

丸墓山古墳下の堤 新幹線北堤根地区に残る堤

この石田堤であるが、本陣を置いた丸墓山古墳の南側とさらにかなり南の上越新幹線高架下堤根付近に残る。
小田原の役後、徳川家康の四男の松平忠吉が忍城城主となり、10万石を領する。
小田原の役後、城や城下は荒廃していたが、徐々に復興整備されたという。次いで寛永16年(1639)に老中・阿部忠秋が入ると城の拡張整備が行われ、最終的な城の縄張りは元禄15年(1702)頃に完成しらしい。
城主は文政6年(1823)に阿部氏が白河に移り、桑名より松平忠堯(奥平松平氏)が入り幕末を迎える。
江戸時代、忍城城下は、中山道の裏街道としての宿場町としての機能や、利根川の水運を利用した物流の中継地として繁栄する。
江戸時代後期からは、足袋の産地として名をはせるようになる。明治維新での廃藩置県に伴い「忍県」の県庁が二の丸に置かれた。
その後、廃城となって城内の構造物はほとんどが撤去され、堀は埋められ、学校建設や宅地化でほとんどが失われてしまい、諏訪曲輪付近に遺構が残る程度である。

さきたま古墳群
埼玉県行田市の郊外に展開する8基の前方後円墳と1基の円墳及び小型円墳群も含めた全国有数の大型古墳群である。
古墳群のある場所は、関東平野のど真ん中。周辺に利根川と荒川に挟まれた肥沃な水田地帯が広がる。
古墳時代、このあたりは、すぐ東まで東京湾の入り江の埼玉沼が存在したという。
この沼、戦国時代の霞ヶ浦や北浦のような感じだったと思われ、古墳群があった場所はその沼に突き出た半島のような地形だったらしい。
この付近は河川が流れる肥沃で平坦な土地であり、水も豊富であったため、古くから水田開発が行われ、その経済力を背景にした巨大権力が存在し、その富により5世紀の終わりから7世紀の始めにかけて、族長クラスの大型古墳がこの地で次々と築かれた。
現在9基の大型古墳が東西600m、南北900mの狭い範囲に存在する。
前方後円墳の後円部はすべてほぼ北に向け築かれている。 100年間にわたり、 一貫した計画性をもって次々と築造されている。
大和地方の天皇陵クラスの大古墳にしか見られない特徴を持つ点が多く、大和朝廷との強いつながりがあることを示唆する。


稲荷山古墳
埼玉県第2位の規模の大型前方後円墳である。
造営年代は、古墳時代後期の5世紀後半と考えられており、この古墳群中では最初に築造されたという。
大仙陵古墳と墳形が似ており、大仙陵古墳の4分の1スケールに誓い。
この古墳群の二子山古墳、鉄砲山古墳も稲荷山古墳と同じ墳形をしており、基本はいずれも大仙陵古墳だったという。
同じ大仙陵古墳を縮小モデルに岡山県の両宮山古墳が存在する。
昭和43年(1968)の発掘調査で、国宝の「金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」が出土した。
墳丘長120m。 後円部径62m、高さ11.7m、前方部幅74m、高さ10.7m。

丸墓山古墳
小田原の役で、忍城攻略のため石田三成が丸墓山古墳の頂上に本陣を置いたことで知られ、忍城を水攻めするための石田堤が丸墓山から南に真っ直ぐ伸び、古墳に至る道がその名残である。
直径105m、高さ18.9mの日本最大の円墳である。
石室は未調査だが、葺石や、円筒埴輪、人物埴輪などの埴輪類やが出土、これらの出土遺物から築造年代は6世紀の前半と考えられている。
『新編武蔵風土記稿』に麿墓山(まろはかやま)として記載がある。

二子山古墳
埼玉県内で最大の前方後円墳である。二つの山があるように見えることからこの名がある。
墳丘長138m、 後円部径70m、高さ13m、前方部幅90m、高さ14.9m。 方形の二重周濠を持つ。
内堀は復元されたもの。 西側くびれ部に造り出しがある。