岩槻城(さいたま市岩槻区)
太田道灌が築いた城として名高い。
しかし、現在では岩槻城の遺構は、岩槻公園となっている新曲輪と鍛冶曲輪付近に限られ、かつての壮大な城の姿は市街地に埋もれている。
それでも、新曲輪付近を見ただけでも、かつての規模を伺うことができる。

この部分はおそらく、北条氏支配時代に増設された部分と思われ、障子堀や比高2重土塁など北条氏が好んで使った城郭技術の遺構が見られる。

新曲輪は300m×200m程度の広さであり、南側は球場Hになっている。
土塁は本城側には存在しない。
東側の馬出付近には堀Gが良好に残る。
新曲輪の東が鍛冶曲輪Dであるが、城郭遺構は東側だけであり、新曲輪側は自然地形である。東側と南側に重厚な土塁、堀B、Cが構築される。

肝心の本城部分は完全に市街化してしまい遺構は不明瞭であるが、よく探せば多少の遺構は確認できるらしい。
この城は、縄張図を見ると、本佐倉城によく似ている。


新曲輪と鍛冶曲輪地区が本佐倉城の向根古屋城に相当する。
今残る遺構は、江戸時代のものであるが、原型は小田原の役直前、北条氏により整備されたものが踏襲されているのであろう。
肝心の太田氏時代の遺構がどの部分かは分からない。

岩槻城の築城は古河公方足利成氏と関東管領山内上杉氏が争った享徳の乱の最中、長禄元年(1457)という。

想定する敵は成氏方の関宿城、騎西城であり、岩槻城を拠点に管領方上杉氏の古河公方方に対する反撃が開始、上杉方が優勢となり、文明14年(1482)、室町幕府の将軍足利義政と古河公方成氏が和睦し、享徳の乱が終了する。

ところが享徳の乱の最大の功績者、太田道灌が管領山内上杉顕定の中傷により、主君扇谷上杉定正により暗殺される事件が発生。

この事件をきっかけに、管領山内家と扇谷家は分裂、長享の乱が発生、今度は、扇谷上杉定正はかつての敵である足利成氏と組み、一方の山内上杉顕定は扇谷上杉氏の家臣だった太田氏と組む。

道灌の跡継ぎは図書助資忠が早世したため、道灌の甥資家が継ぎ岩槻城主となり、実子?の太田資康が江戸城に入り、岩槻太田氏、江戸太田氏が成立。
古河公方、両上杉間の抗争を尻目に小田原の北条氏の勢力が拡大、岩槻太田氏2代目資頼の代には、北条氏綱が江戸城を占領、岩槻城も一時氏綱に占領される。

3代目があの太田資正(太田三楽斎)である。
一時、北条氏に従うが途中から死ぬまで、反北条の一本を貫く。

まずは主君山内上杉氏と扇谷上杉氏を和解させ、天文15年(1546)の河越合戦では兄資時と敵味方に分かれ北条氏と戦うが敗退、次いで永禄4年(1561)には長尾景虎(上杉謙信)の関東侵攻、小田原攻撃に参加。
松山城を落し、上杉憲勝を城主とし、岩槻太田氏の勢力を復興させる。

しかし、永禄7年(1564)江戸太田康資は房州の里見義弘と組んで北条氏に対抗、太田資正も加わり、北条と里見、太田連合軍は国府台で激突するが完敗。

太田康資は里見に亡命、資正は息子氏資が北条に加担したため、岩槻城を奪われ、忍城の成田氏の下に逃れる。

@新曲輪に残る土塁 A新曲輪東下の堀には障子堀になっている。 B新曲輪(左)と鍛冶曲輪間の堀
C鍛冶曲輪南の堀 D 鍛冶曲輪内部 E 鍛冶曲輪東側の虎口
F鍛冶曲輪(手前)と新曲輪間の池は沼跡 G新曲輪と馬出間の堀 H新曲輪内は球場などになっている。
岩槻公園内に移築現存している長屋門形式の通称、黒門。

岩槻城の大手門であったと伝えられている。
しかし、大手門にしては小さい感じがする。
おそらく、城門であるかもしれないが、大手門ではないであろう。




岩槻城は氏資が城主になるが、永禄10年(1567)北条軍に従軍し、里見氏攻撃で氏資が討死、岩槻城は事実上、北条氏に乗っ取られてしまい、岩槻太田氏はここで消滅する。
北条氏の城となった岩槻城は、大きく改修され、大構という総曲輪が造られる。
小田原城を真似て築いたものであろう。
しかし、小田原の役では多勢に無勢、圧倒的な豊臣軍に圧倒され開城。

一方、成田氏を頼った太田資正はその後、佐竹義重の家臣となり、片野城を拠点に小田氏と戦い、北条氏とも戦う、豊臣秀吉とも連絡を取り、岩槻城復帰を画策するが、小田原の役の翌年、この世を去る。
一方の北条氏後の岩槻城は、関東に入った徳川家の譜代の高力氏が入り、その後、城主が数回入れ替わり、幕末を迎える。

廃藩置県で岩槻藩は岩槻県となり、岩槻城は一時、岩槻県庁舎として利用されるが、明治4年(1871)完全に廃城となり、取り壊され市街地化してしまう。