津久井城(神奈川県相模原市)
今は相模原市に編入され、緑区になってしまった旧津久井町にある。
ここは相模川が山地から平地に出る地点である。
そのまま相模川を遡ると山梨県大月市、昔の甲斐国郡内地方、そしてその先にある甲府盆地や諏訪などに通じる。
江戸時代はここを甲州街道、現在も国道20号線、JR中央線、中央自動車道が通る交通の要衝でもある。
その場所に津久井城が築かれている。

↑ 西下、津久井湖城山公園駐車場から見た城址。左のピークが本城曲輪群、右のピークが飯縄曲輪

典型的な根小屋式城郭であり、「城山」に築かれた詰めの山城と麓の居館、政庁からなる。
いずれも遺構はほぼ完存状態であり、廃城になった戦国時代末期の姿をそのまま見ることができる。
城域としては東西約1q、南北約800mの規模である。

城に行く方法で一番簡単なのは、圏央道相模原ICで降りれば良いのである。
その西に見える山が津久井城のある「城山」なのである。
なお、余談であるが、津久井町同様、相模原市に編入された町に「城山町」ある。
相模川の北一帯である。その「城山」のネーミングの「城」はこの津久井城を指している。
でも、町内にはない。「城山」が町内から良く見えるからか?

城址は「県立津久井湖城山公園」として整備されており、遊歩道が整備され気軽に?訪れることができる。
とは言え、公園管理事務所から山城部までは比高が200m弱ある。
しかもかなりの急坂であり、かなりの体力を消耗する。
夏場も問題なく行けるが、汗をかく上、蚊が襲撃してくるので大変!

城のある山はほぼ独立した山であり、標高は376m、北を流れる相模川の水面が72mなので、川からの比高は300mを越える。
根小屋は北側の津久井湖側の「北根小屋」地区と南側の「根小屋」地区に残っている。
南側の根小屋跡である「御屋敷」は公園の一部になっている。
南斜面に段々状の平坦地が重なる。

そこから視線を南に向けると三増峠が見える。
永禄12年(1569)武田対北条の三増峠の戦いが行われた場所が至近距離にあるのである。

御屋敷から見た三増峠方面、至近距離にある。 L 本曲輪から見た北下の腰曲輪と津久井湖

根小屋の裏、城坂を上がって行くと山城部に行ける。
山城部は3つのピークがあり、それぞれのピークが曲輪になっている。

西端標高376mの最高箇所に本城曲輪群、そこから直線で約300m南東の中央部、標高358mのピークに飯縄神社が建つ飯縄曲輪、さらに約200m東の東端標高340mのピークに鷹射場が並ぶ。
各ピーク間の尾根部にも曲輪や堀切が見られる。

山頂部までの道はいくつかある。肝心の本城曲輪群に向かう大手道は今は閉鎖されている。
本城曲輪群と飯縄曲輪の間の堀切に出る短いが急坂を登る男坂(車坂)と山腹を西に大きく迂回し本曲輪の回りを一周し、同じ堀切に出る距離は長いが緩やかな女坂がある。
短気な管理人は躊躇なく男坂を選ぶ。
しかし、さすがにきつい道である。

@男坂を登って行くと、太鼓曲輪と飯縄曲輪間の堀切に出る。 A太鼓曲輪西下の腰曲輪、家老屋敷 B太鼓曲輪、本城曲輪群南にあり、飯縄曲輪等との連絡所?

本城曲輪群と飯縄曲輪の間の堀切に出て、西側の本曲輪に向かって登って行くと尾根上に次々遺構が展開する。
太鼓曲輪の南下には「家老屋敷」という腰曲輪があるが、家老がいた場所ではないだろう。
太鼓曲輪は音による命令や情報伝達の場所であろう。

尾根をさらに西に向かうと曳橋がかかっていたという堀切があり、2段の腰曲輪を経て本城曲輪群下の米曲輪になる。

C本城曲輪群入口部の堀切。曳橋があったらしい。 D本曲輪南下の腰曲輪「米曲輪」 E本曲輪の土塁上に建つ城址碑

本曲輪は南側に土塁が覆い約50m四方の規模、西下に米蔵曲輪があるが、通行止めになっている。
この本城曲輪群だけを見れば、尾根式ではなく輪郭式の曲輪配置である。
米蔵などの名前があるので籠城を想定し、米が備蓄されていたのだろう。

F本曲輪内部 G飯縄曲輪に建つ飯縄神社 H飯縄曲輪西側の物見の曲輪

一方、飯縄曲輪は本曲輪ほどのメリハリはない。
直径100m程度の広さはあるが、見張り場所のような感じである。
それとも神社があるので信仰の場所だったのかもしれない。

さらに東の鷹射場も同様である。
曲輪としての規模は小さい。
ここは周囲の支城への狼煙での連絡の役目があったと思われる。
なお、縄張図や城のイラストを見ると、山頂部から麓まで長大な竪堀が描かれている。
しかし、山頂部の竪堀は人工のものであるが、竪堀の末端部は自然の谷である。
あんな工事、山裾までするとは思えない。
あれは竪堀を自然の谷に接続させただけのものだろう。

I根本道を横切る竪堀とされているが、人工物とは思えない。
自然の谷だろう。
J城坂、周囲の小曲輪が重なる。 K城主の居館や政庁があった御屋敷

築城は鎌倉時代に遡り、三浦党の筑井(津久井)氏と言われている。
大江(毛利)氏一族津久井三郎の居館として、居館部と詰めの城の山城が整備され、西山麓にある八幡社に政庁があったらしい。

戦国時代に城は北条氏により大きく整備拡張される。
ここが甲斐と小田原を結ぶ交通の要所であり、武田軍が侵攻するとすればここを通るからである。
北条氏は旧上杉氏家臣であった内藤氏らを中心にした津久井衆に城を守らせた。
しかし、内藤氏は昔からのこの地の国人領主であり、甲斐郡内地方の小山田氏の郡内衆とも婚姻関係、従属関係がある者も多く、境目の城ではあるが、実際は「敵半地」と呼ばれ、税は双方に納めていた微妙な立場にあった。
どちらかというと緩衝地帯のような感じであろうか。

このため、三増峠の戦いでは、武田側の加藤丹後によって牽制され、出陣できなかった。
武田氏、小山田氏が滅亡すると津久井衆は完全に北条氏の傘下に入る。天正18年(1590)、小田原の役が始まると、他の多くの北条氏関係の城同様、城主の内藤景豊と主力の兵は小田原城に招集される。
城には老臣等がいたが、わずかな兵しかいなかったのであろう。兵がいなくてはいかに要害堅固な山城でも籠っても戦うことは不可能である。
徳川家康の武将平岩親吉らに包囲され、6月25日に降伏開城した。おそらく戦うことはなかったであろう。

その後、城は廃城となり徳川直轄領となり、陣屋を置き八木家などの代官がこの地を管理したとされている。その目的は?
江戸幕府は甲斐方面からの侵攻に備え、八王子に旧武田家臣からなる八王子千人同心を置いたとされる。
しかし、甲斐方面からの侵攻に備えたのではなく、緊急時には甲州に避難することにしていたのではないか?
そのため、甲斐にゆかりのある者を置いたと思われる。
緊急時の将軍が甲斐に向かう時の親衛隊の役目があったのであろう。その構想であれは、避難ルート確保は必須である。
津久井を直轄領にして陣屋を置いたのもその一環。山城を再興して再使用することも視野に入っていたと思われる。
今の山城部を見れば、基本工事はできている。
建物を建て、柵を巡らせば短期間で再興は可能である。
いかに戦国時代の城でもこの地形なら江戸時代でも十分に使えるだろう。
似た構想で廃城のまま、遺構が手付かずだった城に「小牧山城」がある。
しかし、その構想も時間が経ち江戸末期になると忘れられてしまったようだ。
実際、戦国時代の城を幕末に使った例もある。福島県新地町の駒ケ嶺城は戊辰戦争で、茨城県大子町の月居城は天狗党の乱で使っている。