小田原城(神奈川県小田原市)
戦国時代の北条氏の根拠地として超有名である。
現在、小田原駅の南西側に復興天守があり、そこが小田原城と思われている人が多く、多くのHPでもそこが小田原城として紹介されている。
それはそれで間違いないが、この小田原城は江戸時代の小田原城である。
北条氏時代の小田原城はというと、今の天守が建つ場所も城の一部であったことは間違いない。
ただし、そこは平時の居館があった場所であり、城の主要部は小田原高校のある高台、八幡山にあった。
この山の標高は70mほどあり、平山城というより山城に近い感じであった。

ここに城が築かれたのは、平安時代末期まで遡り、相模の豪族土肥一族の小早川遠平という。その居館が八幡山付近にあったらしい。
室町時代、応永23年(1416)上杉禅秀の乱で土肥氏は失脚し、城は大森氏が奪う。
さらに明応4年(1495、それ以後とする説もある)、北条早雲こと、伊勢平氏流伊勢盛時が大森藤頼から奪い、以来、北条氏綱、氏康、氏政、氏直と戦国大名北条五代の居城として、南関東の中心地となる。
この間、氏康の代に上杉謙信、武田信玄の攻撃を受けるがこれを撃退し、名城振りを発揮する。
この経験から城の拡張が続けられ、小田原の役の頃には、八幡山から海側に至るまで、小田原の町全体を総延長9kmの土塁と空堀で取り囲んだ総構を持つ要塞都市になった。
しかし、北条氏も天正18年(1590年)、豊臣秀吉の攻撃を受け、20万の大軍に包囲される。
北条氏は、上杉、武田の攻撃を撃退した戦法を踏襲し、篭城と支城からの出撃で包囲軍の兵站線を疲弊させ、撤退させることを狙った。
しかし、秀吉軍の兵站能力と兵力は北条氏の想像をはるかに超え、大量の秤糧を確保し、関東各地の支城も機動軍である上杉、前田、真田氏などにより次々、攻略されてしまう。これにより北条氏の戦略は破綻、3ヶ月の篭城戦の末、降伏。北条氏宗家は滅亡した。
(なお、北条一族の北条氏盛が河内国狭山で狭山藩1万余石として外様大名となり、明治まで続いている。)
この篭城戦においては、戦闘は外郭線で少しあった程度だったという。はじめから積極的に攻撃する意志がなかったのか、小田原城の防衛が優れていたためか理由は分からない。
また、北条側が議論を重ねたが、一向に結論が出なかったという故事が小田原評定という言葉として今に伝えられている。
この小田原城の総構えとその効果は、包囲軍の大名にも大きな影響を与え、諸国の城で総構えが造られるようになったという。
小田原城の総構えは大阪夏の陣前の慶長19年(1614)、徳川家康により破壊させている。
江戸に近いこの場所にこのような大規模な総構えを持つ巨大城郭が存在するがあることを警戒していたという説もある。

近世小田原城

家康の関東移封後、小田原城には大久保忠世が置かれる。以後、一時の中断時期を除いて、大久保氏が小田原藩主を務めた。
大久保氏が小田原城に入ると、北条氏の小田原城は縮小され、居館があった部分を主郭とし、北条氏時代の本郭であった八幡山の城郭は破棄され、大幅に縮小された。
縮小と言っても元々が巨大な城郭であったので、並み(それ以上)の城郭になっただけとも言える。
現在の石垣は大久保氏時代に造られたという。北条氏時代の城には石垣はなかったようである。
寛永10年(1633)と元禄16年(1703)の2度大地震会い被害を受け、元禄の地震では天守が倒壊している。
天守が再建されたのは宝永3年(1706)であり、この再建天守が明治まで残ったが、明治初年にに解体され、天守台には神社が建てられ、明治34年(1901)には城内に小田原御用邸が設置された。しかし、大正12年(1923)9月1日の関東大震災で御用邸は大きな被害を受け、石垣も崩壊した。
昭和5年(1931年)石垣を復旧し、戦後は、城址公園となり、昭和35年に鉄筋コンクリート造の天守が復興された。
ついで昭和46年(1971)に常磐木門、平成9年(1997)に銅門(あかがねもん)が再建されている。
@二の丸東側の堀 A二の丸隅櫓 B再建された二の丸の正門、銅門 C二の丸から本丸への登城路
D本丸東の堀跡 Eおなじみの再建天守。 F御用米曲輪跡は駐車場である。 G二の丸御殿跡。

中世小田原城
現在、城址公園となっている近世小田原城は、観光地でありさすがに客は多い。
しかし、いかにも近世の城といった感じであり、中世城郭ファンの管理人にとっては、取り立てて魅力は感じない。
北条氏時代の臭いはほとんど感じられない。
御用米曲輪の土塁が北条氏時代のままという。
城の北側を東海道新幹線が通るが、この部分は堀切であったらしい。
管理人が興味あるのは、北条氏時代の小田原城の主郭部である。
北条氏時代の主郭部があった八幡山は、斜面一帯に住宅が並んでいるが、かなりの急斜面に家がある。
これじゃ完全に山城である。
これらの家のある場所自体が帯曲輪なのであろう。

この八幡山は西側の山地から東に張り出した山であり、その先端部に北条氏時代の小田原城の主郭部があったことになる。
当然ながら山に続く尾根筋は何本もの大堀切で分断される。
主郭のあった小田原高校付近は、標高が60m。広く、林も多く中世的な雰囲気が強い。しかし、高校の敷地内は、生徒の安全のため立ち入り禁止になっている。
変質者が出るのであろう。高校東側のテニスコート付近が鍛冶曲輪である。
小田原高校南下の相洋高校に沿った道沿いには空堀が残っていた。その道から分岐して八幡山に登る小田原高校西側の道路こそが八幡山大堀切である。
途中に平坦な場所がいくつかあるが、曲輪の跡だろうか。
この堀切の西側は、山に登っていく感じであるが、曲輪のような感じはしない。だらだらとした緩斜面が続いているだけである。
そして慰霊碑の建つ場所の西側に小峰大堀切がある。この付近の標高は100m。堀は幅20m、深さ8mほどあり、豪快でありきれいに整備されている。
東側は土塁になっている。堀底が凸凹しているので畝堀になっていたと思われる。

この堀底に入るが、鬱蒼としてじめじめした感じであり、藪蚊の集中攻撃を受けてボコボコにされてすぐに撤退。
小田原城を攻撃した豊臣軍もここでやられたのかもしれない。
この堀切の西側にも出城のような曲輪があったというが、そこまでは行かなかった。
その場所の標高は120mというから、これは山城である。
さらにその北側の山地尾根筋を総構えの堀が通っていたという。これらが北条氏時代の小田原城の遺構という。
江戸時代はこの八幡山はほとんど手が付けられず藪に埋もれていたようである。
小峰大堀切 小峰大堀切の土塁
八幡山東斜面は住宅地。
帯曲輪の跡だろう。
北条氏時代の小田原城の主郭部は
小田原高校付近だったという。
小田原高校の北側が鍛冶曲輪 小田原高校の西側が八幡山大堀切

北条氏時代末期の小田原城とは、麓の居館(近世小田原城)と詰めの山城が一体化した城だったようである。
山城部分がどのような使われ方をしていたのかは分からない。
北条氏全盛の頃の末期、小田原の役が迫る頃、再度、大整備がされたのではないだろうか。
小田原の役で氏政、氏直がどこで指揮を執っていたのかは分からないが、多分、町と周囲が見渡せるこの山じゃなかっただろうか?
とすると例の評定はどこで行われたのだろう?やはり、小田原高校の地かな。

ここからは海も周囲の山が良く見える。
海も山も平野も埋め尽くす豊臣軍を見て、北条軍首脳はため息の毎日だったのだろうか?