津川城(新潟県東蒲原郡阿賀町)37.6855、139.4581
津川城は阿賀野川と常浪川に囲まれた標高191mの麒麟山の常浪川沿いの南側から西側にかけて築かれている。
北側、西側、南側は川が流れ、天然の水堀の役目を果たし、東側が麒麟山であり、防御上、要害の地である。
麒麟山から西側に続く尾根上に主郭部の曲輪であるが、麒麟山は崖状の山であり、この方面から攻めらることはできない。
水面の標高は50.7mである。
南側、常浪川南岸から見た城址、岩山が麒麟山、遺構は川べりと麒麟山の左側(西側)に展開する。
城へは阿賀町中心部津川地区から国道459号線に入り、常浪川にかかる城山橋を北岸に渡った所にある駐車場から常浪川B北岸の沿った遊歩道を歩く。
この先、約600mが城域である。
遊歩道を西に進むと、搦手口の土塁@がある。
この土塁は麒麟山から竪土塁になって下るが、藪でよく分からない。
ここを過ぎると侍屋敷Aが続く、家臣団の屋敷である。
川縁なので標高は52m、所々に空掘があり区画が仕切られる。
| @搦手口の土塁は麒麟山から竪土塁となって下る。 | A常浪川に沿って北岸に侍屋敷が続く。 | B常浪川が天然の水堀となる。対岸は阿賀町中心部。に |
途中から登りになり、二の曲輪Cになる。
ここの標高は100m、100m×30mの広さがある。
結構広く、ここが戦闘時の指揮所、主郭にあたる曲輪だろう。
この北上が本郭である。堀切Dに出ると西側は物見台Eのようになっている。
ここの標高は120mである。ここからの眺望Fは抜群である。
| C二の曲輪、籠城時の指揮所だろう。 | D二の曲輪から登と堀切がある。この両側が本郭である。 | E本郭西側の物見台 |
堀切Dの東側が城内最高箇所Fには、社が建つ。しかし、曲輪の幅は狭い。
北側、阿賀野川方面の斜面には段々状に曲輪が重なる。
麒麟山に続く東の尾根には堀切等はない。そして、麒麟山への崖状の登りHとなる。
| F本郭西端の物見台から見た阿賀野川下流方面 | G本郭には社が建つが、狭い。物見の場に過ぎない。 | H麒麟山西下の登り道、急で登るのは危険である。 |
本郭の南下に帯曲輪があり、段々に曲輪が重なる。
注目すべきは切岸が石垣である。
西下、常浪川と阿賀野川の合流点側の曲輪も石垣があり、北側の阿賀野川の岸に舟入りがあり、阿賀野川の水運を管理していた城であることが分かる。
この先端部の南側にも石垣があり、常浪川の対岸にあった居館と結ばれていた大手道があった。
ここには橋が架かっていたのであろう。
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ここ阿賀町は越後国なのだが、この付近一帯は会津の蘆名氏が支配していた。 その蘆名氏の拠点城郭がこの城である。 ここが蘆名領だったのは、平安時代末期に会津の恵日寺領となったことによるという。 明治初期まで会津地方の一部とみなされてきていたという。 城は鎌倉時代の建長4年(1252)会津佐原氏の一族・金上盛弘が築城したと言われ、以来金上氏が代々城主を務める。 当然ながら、ここは国境、境目の城である。戦国時代には、上杉氏と抗争が起きることになる。それ以後、波乱の歴史を刻む。 天正6年(1578)上杉謙信が死に御館の乱が起きると、城主金上盛備は蘆名盛氏の命を受け上杉景虎方を支援する。 天正9年(1581)に起きた新発田重家の乱では表向きは中立を示していたが、重家を支援したため、天正15年(1587)、景勝は蘆名氏からの重家への支援を断つため、金上氏の支城・赤谷城を攻撃し、陥落する。 天正17年(1589)、金上盛備は摺上原の戦いで討死。 子の盛実は伊達政宗に降伏し、津川城を没収された。 津川城は伊達家臣、原田宗時に与えられたが、天正18年(1590)の奥州仕置により津川城は没収される。 代わって、会津に入った蒲生氏郷は北川忠信を城主とするが、文禄4年(1595)蒲生騒動が起き、津川城は上杉景勝に与えられ、藤田信吉が城主となる。 しかし、関ヶ原直前の慶長5年(1600)、信吉は上杉家を裏切り、徳川家康の下に逃れると、津川城には鮎川帯刀が配置される。 関ヶ原後、会津に蒲生氏郷の子秀行が復帰し、岡重政が城主となる。 岡重政が失脚すると、蒲生郷治が津川城主になる。 寛永4年(1627)、加藤嘉明が蒲生氏に代わって会津に入封した際に、幕府の命令により廃城となった。 |
この時、常浪川の南の対岸、津川地区内に陣屋が設けられた。
戦国時代も居館は常浪川南岸にあったくらいなので、平和になった江戸時代には、戦闘を意識した構造の津川城は不便であり、もはや不用だったからである。
(『甲信越の名城を歩く 新潟編』、Wikipediaを参考)