大葉沢城(村上市大場沢)
畝状竪堀群として名高い城である。
その数、50本以上という。

西側、日本海東北自動車道「朝日三面」ICの東側から見た大葉沢城、右側のピーク部が主郭部の「宮山」。左のピークが「寺山」。

村上市中心部から国道7号線を約4q、
日本海東北自動車道「朝日三面」ICで降り、県道349号線を東に1.5q行った所にある普済寺の南側の山が城址である。

城は東から西に張り出した尾根状の山の西側先端部一帯を城域にしており、北の麓から中腹にある普済寺から登城道が延びる。

城は寺山(標高94m)と宮山(標高87m)の2つの部分からなり、西側の宮山が南側斜面を畝状竪堀群で固めた主要部となる。
長さは300mほどだろうか?

4あるいは5つの曲輪からなる連郭式であり、普済寺@裏から登ると東端部、三郭東の堀切Aに出る。

そこから南に下ると、連続竪堀群B、C、Dが斜面に続く、長さ約200mにわたる。
その光景は異様である。
竪堀群の上部は横堀状の通路になっている。ここを迎撃する兵が移動するのだろう。

ところで遺構には関係ないが、この横堀の堀底、いたるところに糞が転がっている。
熊の糞である。いやに新鮮なものもある。
雰囲気や臭いは感じなかったが、緊張を強いられる。
熊鈴2つを鳴らし、さらにラジオを着けて歩き回る。それだけでもかなりの疲労である。

この斜面、比較的傾斜は緩いのであるが、こんなものが果たして必要か、疑問が残る。
逆茂木で十分のように思える。
多分、城内に倒す木がなく、と言って、麓から木をここまで上げるのも大変、ってことでこんなものを造ったのであろが、1土豪にしてはその労力、よく捻出できたものである。

公共事業として整備したとも想定できるが、1土豪にそんな財力はあっただろうか?不思議な遺構である。

西端部が曲輪Wであるが、横堀が回り、背後、主郭側には二重あるいは三重の堀切Eで遮断される。
そこから東側の尾根上の曲輪群がが主郭部である。
東に向かうと雷神社Fがある。ここが二郭である。
さらに東が宮山の最高箇所である本郭Gである。
その東には深さ12mほどの堀切Hになっている。
その堀切を介して東側が三郭Iである。
ここまでが宮山の主郭部である。

北斜面に居館部があるが、本当にここが居館部か?
そこは北斜面である。
日当たり最悪、ジメジメしていて居住性に疑問がある。

@北の麓に建つ普済寺、この寺の裏を上がる。 A寺からの道は三郭東の堀切に出る。
B畝状竪堀群が斜面に展開する。右側が通路になっている。 C畝状竪堀を上から見る。竪堀が土塁間を下る。

一方、主郭部を東に向かうと広い尾根が続き、途中に堀切があるが、寺山に着く。
ここがX郭であるが、宮山と主郭部とはまったく違う構造である。
東西100mほどあり、矢じり型をしている。
周囲を土塁Jが覆う。

東端部に虎口Kがある。
斜面には畝状竪堀群はなく、普通の切岸である。
寺山の部分は独立した城として「寺山城」と呼ぶ場合もある。

D二郭下の畝状竪堀群 E四郭東の二重または三重堀切。 F二郭には雷神社が建つ。宮山の語源か?
G本郭内部 H本郭東下の堀切、深さは10mほどある。 I三郭内部は緩い感じ。
J五郭周囲を土塁が覆う。掘状の溝は土取りの跡だろう。 K五郭東端の虎口

大葉沢城は、本庄氏の一族、鮎川氏の居城であったといわれる。
もともとは会津の葦名氏の流れといい、東約4qにある笹平城にいたが、大葉沢城に移ったらしい。
本家筋の本庄氏との仲は良くなく何度か戦いが起きている。

天文8年(1539)、鮎川清長は、同族の小川長資と共同し、本庄城を攻撃して、本家筋の本庄房長を出羽へと追い出す。
永禄11年(1568)前に大葉沢城を築城し移ったが、本庄氏の攻撃を受け、城を落とされ大平城に逃れるが上杉輝虎の支援で大葉沢城に復帰する。
この城で合戦があったのはこの時だけのようである。
しかし、この頃、お屋形様が健在なのに、国内の土豪同士は戦いばかりしていたのか・・・
その後、しばらくの間、本庄氏とは対立していないが、天正6年(1578)の御館の乱で再度、敵対、本庄氏はこの後、失策で一時、衰退する。

鮎川氏は上杉景虎に味方したが、上杉景勝に降伏し、許され存続。
慶長3年(1594)に上杉氏が会津に転封となると、鮎川氏もそれに従い、この時、大葉沢城は廃城となった。
この城の畝状竪堀群は本庄氏の攻撃を意識して、その侵攻想定方向である村上城側に構築したものであろうが、1国人領主の力量を越える規模である。
畝状竪堀群は越後の城に普遍的に見られる遺構であり、鮎川氏の専売特許ではない。
上杉が技術者を派遣して普請させたのであろう。
上杉氏が本庄氏を牽制する意味を含めて支援していたものと思われる。
(甲信越の名城を歩く 新潟編等を参考にした。)