猿沢城(村上市猿沢)
村上市中心部から国道7号線を約6q、道の駅「朝日」の西側の山にある。
日本海東北自動車道「朝日まほろば」ICで降り、国道7号線の旧道「羽州浜街道」沿いにあるお堂裏から登る。
日本海東北自動車道から見た猿沢城
お堂の裏(北側)に大土塁があり、堀を介して「中郭」と呼ばれる居館跡がある。
約230m×100mの広大なものであるが、内部はクソ藪。その西下には「ムラグ澤」がある。
この城は麓の居館部と中腹の「福立」その下の薬師山、そして詰めの城「サルクロ」「八幡クロ」からなる根小屋式の複合城塞である。
しかし、中心部は居館部と旧道沿いの根小屋地区である。
「福立」て以降は緊急時の施設である。
遺構はよく保存されているが、広大なこともあり、管理には限界があるのだろう、荒れている藪の中である。
おかげで写真を撮っても、どこを写したのかも分からないらようなぽものばかり。
ガッカリする。
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中郭の前に土塁と掘@がある。中館の切岸は高さが6mほどあり高い。
中郭に入る虎口Aは倒木地獄、歩きにくい。内部Bもシダの密集と倒木で歩くのも難渋。しかし、広い。
薬師山は山上の城郭群への入り口を守る玄関のような城であるが、遺構はしょぼいC。
堀切DEも小規模である。
ここから登った場所にあるのが「福立」てである。
ここが猿沢城の主城といえるであろう。
径約100mあり、東西に分かれ、真ん中には池があった。(枯れていた。)
東側、南側には越後の城のトレードマーク、畝状竪堀群があるのだが、藪でちっとも分からない。
D薬師山から東に下る竪堀 | E薬師山の一番上側の堀切、この先を登ると「福立」。 | F福立、最南端の曲輪、林の下に畝状竪堀群があるが・・。 |
G福立、本郭下の腰曲輪 | H福立の本郭内部。東斜面に畝状竪堀群がる。 |
福立の各曲輪も形は分かるが、かなり藪である。
時間の都合上、ここより上には行かなかった。
大葉沢城では城内に熊が歩いた形跡はあったが、ここは全くなかった。おそらく植生の違いだろうか。
本庄氏に関わる城であるが、これほど規模が大きい城の割に詳細は分からないらしい。
本庄氏と関わりが深く、村上城と並ぶ拠点、すなわちこちらが副城のような役割があったのではないかと思われる。
そうでもないと城下を含めた大きな規模の説明がつなない。
一方では本庄氏に関わりの深い、小河が16世紀の前半にいたのではないかとも言われる。
(甲信越の名城を歩く 新潟編等を参考にした。)
村上城(村上市二之町)
新潟県北端の市、村上市にある。
城は比高120mの独立した山、標高135mの「臥牛山」にある。
非常にかっこいい山である。
山頂の本丸からの眺望は良く、日本海の向こうに佐渡も見える。高さ120mのタワーに登ったようなものだ。
逆にこの付近のどこからもこの臥牛山が見える。
城を築いて当然というべき山である。
↑北から見た城址。山頂右端に本丸の石垣が見える。 近世城郭として知られ、山頂部に石垣が並ぶ。 しかし、これらは江戸時代のものである。この石垣は領民に見せるための物である。 管理人、近世城郭にはほとんど興味がない。 ベースは戦国時代の城であり、戦国時代は阿賀北の有力国人、本庄氏の本拠地であった。 現在の市街地は城の西側山ろくであるが、これは江戸時代になってから整備されたものであり、戦国時代は城の東山ろくであったといい、外堀が東の山ろくにあり、総構え構造であったという。残念ながら総構の掘は国道7号線となり、湮滅している。 したがって、山頂部から東の尾根沿いに戦国時代の曲輪群が展開していた。 しかし、東の斜面は大雨で崩れ、立ち入り禁止になっている。 これらの戦国時代の遺構群は江戸時代には全く無視されていたため、ほぼ完存状態にあるという。 山頂部が戦国時代も主郭部であったが、江戸時代に近世城郭に改造するため破壊されており、どのような城であったのか、分からない。 |
築城時期は定かではないが、1500年代初頭に越後揚北衆の本庄時長あるいは息子の本庄房長によって築城されたとみられている。
永禄11年(1568)、本庄繁長は上杉謙信に反旗を翻し、1年にわたり抵抗するが、伊達氏、蘆名氏の斡旋を受け入れ、嫡子顕長を人質に出し、所領を一部没収されることで講和を受け入れ、家臣となる。
その後、御館の乱、新発田重家の乱では上杉景勝に味方して活躍するが、天正18年(1588)、庄内に侵攻し、制圧する。
しかし、これが秀吉の総無事令違反に問われ、繁永は失脚してしまう。
その後、上杉氏の会津移封にともない上杉家臣に戻る。
↑本丸から見た西下の市街地と日本海、左側に佐渡が見える。
慶長3年(1598)、堀秀治の家臣・村上頼勝が領主となり、近世城郭への改築工事が始まり堀直寄の時代に完成を見た。
堀氏の時代には3重の天守が建てられ、また城下町の構えや町割りも整備された。
慶安2年(1649)に姫路から松平直矩が入城。寛文年間に村上城は大規模に改修された。天守・櫓等が新たに造り直されたが、ほどなく寛文7年(1667)の落雷により天守等を焼失。
以後、天守が再建されることはなかった。
↑本丸から見た北方向、猿沢城、大葉沢城はどこだ?
幕末の戊辰戦争では、内藤家の村上藩は親幕府派と新政府派で意見が分かれて分裂状態となり、慶応4年(1868)、官軍に抗しきれないとみた親幕府派の藩士が山麓居館に火を放って庄内方面へ脱出。
この時、ほぼ全城が焼失してしまった。脱出した村上藩士は庄内藩兵と合流し、新政府軍と羽越国境で交戦した。
明治3年(1870)新たに成立した「村上県」知事となった内藤信美は残っていた城の建物の破却を政府に届出し、明治8年までに解体・売却された。
(Wikipedia、甲信越の名城を歩く 新潟編等を参考にした。)
@七曲り城道を登ると四ツ門の石垣がお出迎え | A北端の曲輪、宇佐美丸または三の丸内部 | B鐘御門の石垣 |
C本丸北側の石垣 | D本丸東側の石垣 | E本丸の桝形 |
F天守台から見た本丸内部 | G本丸南端の天守台跡 | H西麓にある近世の居館跡 |
以上の写真は全て近世城郭の遺構、肝心の中世城郭の遺構写真がない!