岡崎城(愛知県岡崎市)
徳川家康が生まれた城として名高い城である。
この岡崎、どこに行っても徳川家康である。
もっとも浜松に行っても、静岡に行っても、家康、家康である。
全国的な人気はそれほどないが、さすが地元、暖かいものである。
この城址公園も、完全なる家康ワールドである。

名古屋から名鉄本線で豊橋に向かい、岡崎公園前駅を過ぎると岡崎城の復興天守が見えてくる。
東岡崎駅から1qほど歩くと城に着くけど、駅の観光案内にレンタサイクルがあるのでそれを借りるのが便利で効率的。
ただし、午後4時までなので注意が必要。

元々は総構えを持つ大きな城だったが、外郭部は市街地となり、本丸周辺が岡崎公園として残っているだけある。
かつての壮大な姿はなかなか想像できない。
しかし、本丸北側、西側の堀は雄大であり、ここは見所である。

この地に城を築いたのは、徳川氏の前身、松平氏ではなく、亨徳元年(1452)から康正元年(1455)ころに西郷弾正左衛門頼嗣(清海入道)であったという。
城を築いた岡は龍頭山と言われていたので龍ヶ城という別名がある。
当然、ごく小さな城で現在の本丸が城域だったという。なお、東の殿橋北の菅生神社付近が当時の主郭部であり、この龍頭山は出城が設けられていたとも言う。
しかし、戦国時代が始まると、安城付近を拠点としていた土豪の松平氏の勢力が大きくなり、天明年間、西郷頼嗣は松平信光に破れ、信光の子光重を養子に迎えて城を明け渡す。
松平氏はその後、清康、広忠と続くが、このころには今川義元と織田信秀の勢力が大きくなり、その間で微妙な立場となるが、次第に今川氏に支配されるようになり、広忠が死ぬと、完全にその支配下に置かれる。
広忠の子が、後の徳川家康であり、彼は天文11年(1542)12月26日、岡崎城の二の丸で誕生した。
能楽堂の地が誕生の地という。家康(当時は松平元康)は6歳の時、織田信秀の、8歳の時、今川義元の人質となり、少年期を人質として過ごす。
しかし、今川義元は元康を一族として遇し、将来を期待していたという。「元」の字を与えたことからもそれが伺える。
しかし、元康の運命は、永禄3年(1560)の桶狭間の合戦で、今川義元が戦死したことから大きく変わる。

この戦いを契機に今川氏の影響を脱し、独立。織田信長と同盟を結び、岡崎城に居城できるようになる。この頃、徳川に改名する。
そして岡崎城を拠点に三河経営に着手し、城の拡張も行ったらしい。

西の織田と同盟を結んだことから、彼の目は東に向かい遠江進出を狙い、まず諜略で浜松城を手に入れ、本拠を移す。
岡崎城は長男信康が城主となるが、天正7年(1579)信康は自害に追い込まれる。この事件の顛末はいまだに謎に包まれている。
その後は重臣の石川数正、本多重次が城代を務め、天正18年に家康が関東に移封されると、田中吉政が入る。
田中吉政が岡崎城の総構えと城下町を造ったという。
関ヶ原合戦の後、岡崎城は再度、徳川氏のものとなり、本多康重が入り、康重、康紀、忠利、利長と続く。 康重の代に馬出し、大林寺郭、白山曲輪などが整備され、東海道が城内を通し、街道を抑える城としての性格が大きくなる。
現在、復興されている天守のモデルは本多康紀の代、元和3年(1617)完成したというが、実情は田中吉政の時代の天守を改修したものともいう。
天保2年(1645)本多利長が遠江横須賀へ転封となると、水野忠善が入り、城下町の整備が行われる。
水野氏は忠春、忠盈、忠之、忠輝、忠辰、忠任と117年間続き、宝暦12年(1762)松平康福が入り、ついで本多忠肅が明和6年(1769)入り、以後明治維新まで忠典、忠顕、忠考、忠民、忠直と本多氏が102年間続く。
明治維新を迎えると、岡崎城内には岡崎県庁が置かれ、城の建物は取り壊された。
明治8年には、岡崎県は愛知県に統合され、城跡は公園となり、現在に至る。復興天守は 昭和34年に造られた。

城は矢作川と乙川(菅生川)の合流点にある北から南に延びる標高10m程度の丘陵先端(龍頭山)、南西端に本丸を置く梯郭式の平山城である。
江戸時代の城域は、総構えが東西1km、南北900mほどあり、その外側に城下町を配置し、その周りを総堀で囲む、二重総構え構造を持っていたという。
総構え内の内郭は、本丸、持仏堂曲輪、隠居曲輪、二の丸、東の丸、三の丸、備前曲輪、北曲輪、白山曲輪、稗田曲輪、浄瑠璃曲輪、菅生曲輪といった多数の曲輪が地形に応じて複雑に配置され、曲輪間を堀で仕切っている。
主郭部はほぼ500m四方の広さである。
総構え外には侍屋敷と東海道の宿場町、寺社が置かれる。
さらにその外側に下級武士の組屋敷や町民主体の城下町があったという。
しかし、現在はほとんどが市街地に埋没してしまっている。
本丸は意外と小さく直径80mほどである。戦国時代の城の本丸の姿を留めているのであろう。
本丸には南の神橋を通って登る道と西から登る口(埋門)と北から入る門がある。
このうち、北から入る道が大手道であり、そこを出ると隠居曲輪という馬出状の曲輪がある。この曲輪と本丸間の堀が圧巻である。石垣で斜面を覆っているため、とても登れない。深さは8mほどある。
西の埋門を下ると伊賀川との間の曲輪に出る。この曲輪と本丸間の堀は水堀になっている。この堀は南側から東側を取り巻き、今は鳥が泳ぎ回る庭園の池となっているが、北東側のグランドまで続いていたという。
伊賀川の西側が白山曲輪である。
南には乙川(菅生川)が流れるが、そこには舟付き場があったといい、矢作川の水運が重要な物資運搬手段であったという。
隠居曲輪の北が堀を介して二の丸である。ここは100m四方くらいの大きさである。この地で家康が生まれたということであり、家康館なるものが建っている。
二の丸の北側には堀があったようであるが、国道1号線となっている。
二の丸の東には馬出状の東曲輪があったが、藪の中に石垣で覆われた堀が残っている。
国道1号線の北側には、北曲輪、三の丸、浄瑠璃曲輪、備前曲輪があったが市街地になっている。
本丸東の内堀の東が菅生曲輪であるが、ここはホテルなどが建っている。

乙川南から見た城址。川辺に舟付き場があった。 二の丸の地に建つ復元大手門 二の丸にある能楽堂。 二の丸と隠居曲輪間の堀は藪状態。
隠居曲輪外側の石垣 本丸北の深い堀、斜面は石垣。 おなじみ復元天守。 本丸西下の水堀。
本丸西の埋門の石垣 南側から本丸に登る道。 本丸の南から東を覆っていた内堀。 東曲輪の堀と石垣。手前のグランドは堀跡。