与板城(長岡市与板町)
直江兼続の居城として名高い城である。下の写真は東の平野部から見た城址である。
天正年間、直江景綱の代に築城し、本与板城から本拠を移転したという。
直江氏は養子、信綱が継ぎ御館の乱では、景勝を助け活躍、信綱は景勝派武将を率い、栃尾城の景虎派の本庄秀綱や栖吉城を攻撃、牽制をしている。

御館の乱は景勝の勝利に終わるが、信綱は恩賞に不満を持った毛利秀広によって謝って春日山城で殺害されてしまう。

その後、直江家は断絶の危機に見舞われるが、景勝は名門直江家の断絶を回避させるため、樋口兼続を未亡人のお船の方と結婚させる事で家を存続させた。

慶長3年(1598)に上杉家が会津に転封となるまで、直江家の本城であったが、その後廃城となった。

城は与板市街地の南西部、標高107mの城山にあり、比高は90m。この山も本与板城同様、信濃川方面の眺望が良い。

直江兼続の本拠というと、けっこう進歩的な城というイメージがあるが、この城はかなり古いタイプの山城である。
城は南北250mに3つの主郭が直線連郭式に並び、さらに東の八坂神社方面に曲輪群が展開する。
八坂神社方面から登る道が一見、大手道のように整備されているが、大手道は北側から登る城山稲荷神社の参道である。
この大手道はかなり勾配がきつい道である。
堀切Aを通り、数段の曲輪を経て、本郭の北下に出る。
本郭@は30m×40mほどの広さで、城山稲荷神社があり、解説板や碑が建っている。

北側から西側にかけて高さ1mほどの土塁が取り巻く。
ここはNHK大河ドラマ「天地人」に取り上げられたこともあり、観光のメインスポットである。
かなりの観光客が八坂神社からの道を来る。
本郭の南に深さ9mほどの巨大堀切Bがあり、その南側が二郭Cである。

長さ100m(幅は30mほど)ほどあり、さらに堀切を介して長さ100m(幅は30mほど)の三郭がある。
その南に再度深さ9mほどの巨大堀切Dがある。
その南側に4重の堀切があり、最後の堀切が大堀切Eとしているが、ここは鞍部、自然地形であろう。

この部分の標高は80m。本郭からは30mほど下っている。ここには池があったらしい。水場であろう。
ここから西に少し登ると千人溜Fという100m四方ほどの区画された場所がある。
武者だまりとも言うが、住民の避難スペースであろう。

三郭の東斜面には曲輪群が展開するが、こちらは完全な藪状態である。
搦手道がこの方面と言う。本郭に戻り、東下を見ると8m下に帯曲輪Gがあり、その東に曲輪。さらに東側に曲輪群が展開していく。
この尾根筋は勾配が緩いので曲輪を多重にしたのであろう。
曲輪@尾は平坦で広いので多くの建物があったと思われる。

途中、山の崖面に「おせん清水」Hがある。兼続夫人「お船の方」が茶を立てたという言い伝えがある。
末端に土塁と堀がありJ、ここに門があったと思われる。

@ 本郭に建つ城山稲荷。
 背後に土塁が見える。
A 北から登るきつい参道が大手道。
 この堀切を通り、主郭部に入る。
B 本郭南側、二郭との間の堀切。
 本郭側からは9mほどの深さがある。
C 二郭内部。本郭側に土塁がある。 D 三郭南側の堀切。深さ9m。 E主郭部南端の大堀切。自然地形だろう。
 池があった。
F 南西端にある千人溜。
 住民の避難スペースだろう。
G 本郭から見た東下の曲輪。
 この方面は観光コースで整備されている。
H「お船さん」がここの水で茶をいれたという
「おせん清水」
I東に展開する曲輪群は広い。 J ここが東尾根の曲輪の末端だろう。 城山の北の谷津の置くに居館跡があった。

本与板城(長岡市与板町与板
長岡市北部、旧与板町市街地と本与板地区の間にある山にある。
主郭部は標高92mであり、信濃川付近が標高16mというので、比高75mほどでそれほど険しい山ではない。

ただし、信濃川流域の眺望は抜群であり、このことから信濃川の水運を管理監視する城であったことが想像される。
この城には南側にある工場の横の道を車で行ける。
すると本与板城駐車場の看板がある。
ここに数台の駐車が可能である。

城へは道の切通しから登り道が付いている。
どうもこの切通し、堀切を利用したものらしい。
したがって、この駐車場、すでに城内ということである。

言わずと知れた上杉家重臣、直江氏の城として名高い。
築城時期は不明だが、建武元年(1334)新田氏一族の籠沢入道が築城したと伝えられている。
その後、南北朝の騒乱で新田氏一族は勢力を失い、越後国守護上杉氏の重臣飯沼氏の居城となる。

永正4年(1507)、越後守護代長尾為景と守護上杉房能が戦った「永正の乱」で、 飯沼氏は為景に攻められ滅亡し、長尾氏家臣直江実網(後に長尾景虎の1字を貰い景綱と改名。)が城主となった。

しかし、直江景綱は南1.5qの与板城に居城を移した。
なぜ、こんな近距離で城の移転をしたのか、どんな移転する理由があったのか分からない。
ただし、本与板城は畝状竪堀群など、比較的新しい要素もあり、与板城とともに並立して機能したとも言われる。
廃城は上杉氏と共に直江氏が会津に転封されたためと推定されている。

城の主要部は東西に4つの曲輪を並べ、さらに南側の尾根に2段の曲輪群(南郭)Aを置いた直線連郭式城郭である。
主要部は東西に4つの曲輪が並び、それぞれの曲輪が40m×30mほどの広さで、郭間は幅10〜15mほどの堀で仕切られ、北側と南側には帯曲輪がある。

南側の帯曲輪は千人溜という名が付けられているがそんな広いスペースはない。

一応、東端の郭が本郭Cということらしい。堀Bを介して入る。
確かにここからの信濃川方面の眺望は素晴らしい。
北側から東側が若干高いが、これは土塁の痕跡かもしれない。
本郭の東側には2つの堀切がある。

この城で整備されているのはこの曲輪までであり、観光客が来るのもこの付近までであろう。
その西が二郭Eであるが、本郭より若干、高い。
堀Fを介して、二郭に入ると本郭内が丸見えである。本郭はこの二郭ではないかと思う。

ここから西側の三郭G、四郭はもう完全に藪状態であり、ほとんど人は行かない。
四郭との間の堀Hも通路状である。
夏場は蚊の集中攻撃を受け、足元には足の長い生物が・・。
四郭には「花畑」もあったというので、薬草園があったようである。(そう言えば、春日山城にもあった。)

@ 城の登り口、ここも堀切だろう。 A 南郭。内部は藪で夏場は突入不能。 B 本郭(右)と二郭間の堀。
C 本郭。北側に土塁がある。 D 本郭から見た信濃川と与板橋。
戦国時代はこの付近は潟だったらしい。
E 二郭内部 中は藪。本郭より高い。
 ここが本郭ではなかったか?
F 二郭(右)と三郭間の堀。 G 三郭内部。ここは意外と藪は少ない。 H 三郭(右)と四郭間の堀。

本郭から南東に派生する尾根に南郭Aがある。
北側、本郭側、南側に1段づつの曲輪を持ち、先端部に堀切がある。
この方面、夏場は完全な藪、攻略は断念。

本郭から駐車場までの間にはいくつかのKなどの曲輪が展開する。「万歳閣」という曲輪Jもその1つである。
南郭先端部斜面には畝状竪堀群Iが見られる。
さらに切通しから東に下った白山神社も城域で堀と土塁があり、先端郭と言われる。
本郭の解説板によると、白山神社の下に館があったらしい。

I南郭斜面の畝状竪堀 J 万歳閣も腰曲輪 K 南郭末端の腰曲輪