今井城(津南町)36.9887,138.6156
千曲川(新潟県に入ると信濃川と名前が変わる。)が流れる長野県と新潟県の境付近は日本有数の豪雪地帯であり、最大5mくらいの積雪があるという。
この積雪量、想像もできない世界である。雪のない時期ならごく普通の日本の田舎の世界なのだが・・・。
↑今井城(中央部の林)の背後、南側は水田地帯である。こちらから見ると平城である。
この津南町、となりは栄村である。
有名な秋山郷は栄村なのだが、この津南町から中津川沿いに入って行くのである。
千曲川が流れ、国道117号線、飯山線が通る谷沿いが町の中心部ではあり、あとはひたすら山、と想像するが、「どっこい」その谷を見下ろす南岸の段丘の上、広大な平地が広がっているのである。
畑が主であるが、水田もある。驚く景色である。
谷側から見ると、この段丘は山に見える。
そりゃそうである。川面からの比高が200mほどある。
その点では立派な山の上にある山城である。
今井城はそんな広い段丘の端にある。崖端城と言える。
下から見れば、ごつい山城、台地内側から見れば平城である。
この台地、南から信濃川に合流する何本かの川が深い谷を造り、台地上は結構走りにくい。
今井城は信濃川の支流大門川と馬界川が刻んだ台地北端にある。
南の城原地区から農道を約1.5q北上した場所にある。
@馬出ということになっているが・・・小さすぎるような? | A二郭外側の土塁とその外側の堀、 風化はしておらず鋭い! |
B二郭内部から見た土塁。 |
その間は緩やかな平地で一面の水田である。
山間の地というイメージから程遠い何だか不思議な光景でもある。
標高は433m、信濃川水面の標高が223mなので比高は210mもある。
しかし、車で乗り付けられるのである。
C二郭の西側は一段低くなっており、馬場と言われる。 | D二郭と本郭間の堀。二郭側から突き出した部分がある (左側)ここから本郭側に木橋が掛かっていたかもしれない。 |
E二郭と本郭間の堀の底には仕切り土塁がある。 |
南北約150m、東西約100mのそれほど大きな城ではない。
2つの曲輪からなり、南側が二郭、二郭は東側が一段高く、東側が少し低く、ここは馬場Cと言われる。
二郭の南側に高さ3m位の土塁Bがあり、外側に深さ約5mの堀Aがあり、屈折する。
面白いのその屈折点外側に馬出@のようなものがある。
8m四方の小さいものであり、果たしてこれが馬出なのだろうか?
F本郭内部。 | G本郭から北に下る尾根にも堀切がある。 下に信濃川が流れる。 |
一方、北側が本郭であり堀で仕切られているのだが、二郭の北側中央部が堀に突き出しているD。
ここから本郭に木橋がかかっていたのではないかと思える。
さて、本郭間との堀であるが、これがでかい。
幅は約30m、深さが約7mあり、堀底にさらに土塁Eがある。
薬研堀ではなく箱堀だったようである。
本郭に虎口から入るのは大変である。
堀底から虎口までの切岸の勾配が鋭く、滑るのである。(どうやら西側に回り込めばあっさりと入れるらしい。)
本郭Fは一辺約40mの三角形をしており、二郭側に高さ約4mの土塁がある。
先端から尾根が下に下っているが、その尾根筋にも堀切がある。G
しかし、この方面から攻撃なんかできるのか?
また、本郭の西側斜面には畝状竪堀群があるというのだが、ちっとも分からない。
築城年代は定かではない。
寿永年間(1182年?1185年)に木曽義仲が越後に侵攻した際に今井兼平を留めて守らせたとも、南北朝時代に新田氏の一族が築いたとも言われるが、これは地名にかこつけた伝説に過ぎないだろう。
このような話、信濃を中心に各所にある。
やはりこの辺りは義仲英雄伝説の宝庫である。
現在残る遺構は戦国時代のものである。
伝承では上杉氏の家臣金子次郎右衛門などが在城したと伝えられる。
なお、金子次郎右衛門は琵琶懸城に在城していたと言われる。
赤沢城が東1.8qに位置するが、赤沢城を補完するため戦国期に築城したのではないかと思われる。
一時、武田氏の侵略の手が飯山付近まで及んだことがあり、更なる侵攻を警戒するため、信濃国との国境を固める要害として築城し、上杉氏の家臣が在城していたのであろう。
(「甲信越の名城を歩く 新潟編」を参考にした。)
赤沢城(津南町)37.0000、138.6340
今井城の東約1.8kmに位置し、信濃川右岸の河岸段丘北端の台地に築かれている。
ここには国道117号線、中津川橋西から県道251号線に入り登って行く。すると目の前に赤沢の台地が広がる。
城はこの台地の北東端にあるはずだが、そこには畑があるだけである。このため、畑にいた爺ちゃんに聞く。
何とこの台地の一段下に水田があり、その先なのだと言う。
そこに行ってみると驚き。ちゃんと水田がある。まるで「隠し田」である。
この水田の標高は425m、台地より10m低い。
↑ 南側、水田越しに見た主郭部。中央部に土塁の間欠と言われる土壇がある。水田になっている場所の右側に方形居館があった。
そして崖っぷちが一段盛り上がっている。
これが赤沢城なのだ。
なお、この水田、開発されたものだそうである。
水田になっている東側部分には二重の堀を持つ郭内の広さが約50m四方の方形館があったという。
田んぼの間の農道を行くと土壇がある。
この土壇が湮滅した土塁の一部という。
なお、西側にも堀が延びており、西側にも居館が存在したという。
その土壇の北側に巨大な堀@、Aがある。
幅約20m、深さ約8m、全長約130mの規模を持つ。
@主郭部手前西側の堀 | A主郭部手前東側の堀 | B二郭内部、堀側に低い土塁がある。 |
その北側が主郭である。
標高は431m、水田より5m高い。
主郭は2つの曲輪からなり、南側の二郭Bは堀に面し、低い土塁を持つ。
70m×40m、さらに北側に浅い堀Cがあり、その北が本郭Dである。
扇型をしており幅は約30m。
ここから眼下に千曲川の流れが望まれる。
川の水面が216mなので比高は215mもある。
C本郭(右)と二郭間には浅い堀がある。 | D本郭内部は狭い。ここから先に逃げ場はない! | 本郭先端から見た下の信濃川流域、下まで215m! |
攻撃を受け、本郭まで追い込まれたらもう逃げ場はない。
ここからの脱出は絶望的であある。
城の歴史は分からないが、戦国時代、信濃国との国境を固める境目の城として、今井城と同じく、上杉氏の家臣小森沢氏や金子次郎右衛門などが守備し、改修した可能性がある。
南北朝時代の赤沢平の領主が大井田氏であり、大井田氏の築城の可能性もあるが、現在残る遺構は戦国時代のものであり、南北朝期まで遡れるかは分からない。
現在残る遺構は「永正の乱」(1506年〜1521年)における長尾氏の改修とも、武田氏の飯山方面からの侵入に備え謙信が命じた改修とも考えられているが、確証はない。
(「甲信越の名城を歩く 新潟編」を参考にした。)