栃尾城(長岡市栃尾)
長岡から国道351号線を東に約10q行くと栃尾の小盆地に出る。
ここはかつては栃尾市であったが、平成の大合併で長岡市に吸収された。
栃尾城は市街地の西の山、標高227.6mの鶴城山に主郭を置く。
市街地の標高は65m程度であるので、比高は163mある。
結構高い。堂々たる山塊である。
↑ 東下、市街地を流れる刈谷田川沿いから見た栃尾城。比高163m・・手強そう。
栃尾城は上杉謙信が戦国の世にデビューしたことで知られる。
謙信が古志長尾氏を継ぐことになり14歳でここに来た。
天文12年(1543)のことである。
時の城主は本庄実乃(さねより)であり、彼が謙信を後援した。
もう一つの目的が中越地方の平定だったというが、14歳の少年にそれを期待するのはいくら何でも無理だろう。
府中長尾家の次男を甘くみた周囲の反長尾勢力が襲い掛かったが、城兵を指揮し、これらを全て撃破し、中越地方を平定したという。
果たして10代の少年にそんなことができたのか?
はたはた疑問だが、戦術の天才だから事実なのだろう。
この実績で天文17年(1548)春日山城に入り、越後守護代を継ぐ。
当然、本城実乃の強力な支援があってのことである。
その後、城は本庄氏が城主となって続く。
↑ 本郭から見た東下の栃尾市街地
栃尾城、どこに行っても「上杉謙信初陣の城」の看板がある。
もちろんその通りであるが、本庄氏の名はどこにもない。
まあ、知名度が違い過ぎるので仕方ないけど・・・。
この城、でかい。
さすが上杉氏重臣本庄氏の本城だけある。
今残る遺構は本庄氏の末期、御館の乱の時に拡張整備した姿と考えていいだろう。
謙信がいた頃はもっと小規模だったのだろう。
↑狼煙台付近から見下ろした栃尾市街地南側。
麓から見上げた栃尾城、迫力がある。
山頂部から中腹にかけて遺構が展開し、西に延びる尾根先端に狼煙台がある広い城域を持つ。
さて、どこから登るか?
麓から登ると比高163mかあ・・・ため息が出る。
バイパスはないのか?
調べたら林道が本郭のすぐ西下までつながり、駐車場まであるとのこと。
躊躇なく、そのルートを選択する。
このルートなら本郭まで比高約50mに過ぎない。
確かに主郭部に行くまではこれで良い。
しかし、遺構は東の中腹まで広がるのだ。
山頂の主郭部から中腹まで降り、再度戻る。
これじゃあ東の麓から登っても大差ない。
もし複数人で行って、車が2台あれば、主郭直下と麓に車を置き、上から下って行くいわゆる「デポ戦法」ができれば、栃尾城を隅々まで見るのに一番理想的である。
さて、遺構であるが、山頂部はL型をしており、南北に主郭である二郭、本郭、松の丸、三郭、五島丸が約400mにわたり並び、その東の山麓に多数の曲輪を展開させる。
一方、山頂の東西には二郭の西側に中の丸、琵琶丸、馬繋ぎ場、狼煙台が約400mに渡って並ぶ。
本郭@は鶴城山の山頂にあり、70m×15mほどのやや湾曲した細長い曲輪、東は一気に40m下る急斜面になっており、下に金銘泉Aという井戸がある。
この山、各所に井戸があり、山城で一番重要な水には困らないようである。
しかし、反面、曲輪がジメジメしたところが多く、シダ類の繁殖も多い。
本郭の西側の縁などは石積で補強されているというが藪で確認できない。
@本郭は細長い。さすが良く整備されている。 右が高さ約40mの切岸。 |
A本郭東の高さ約40mの切岸。 下に金銘泉という井戸がある。 |
B本郭南下の曲輪を二郭から見る。 |
本郭の北側には深さ10m、幅15mの巨大な堀切Dがある。上から見れば谷である。
ここには本郭西下の帯曲輪を経由して行く。
この堀を越えるともう1本の堀切があり、松の丸Eとなる。
この曲輪は長さが90mほどあり、標高は219m、北側が一段と高い。
C二郭内部、東屋が建つ。周囲に曲輪が展開する。 | D本郭(右)北下の堀。深さ約10m以上。谷である。 | E松の丸内部は2段構造になっている。 |
その北側にはまたも巨大な堀Fがある。
深さは約10m、幅は20mはある。
さらに三郭、五島丸等が堀切を介して並ぶ。
三郭の標高は209m、本郭からは標高が下がって行く。
これらの主郭部には遊歩道が通り問題なく歩けるが、満足に見れるのは松の丸まで。藪も多い。
F松の丸北下の巨大堀切。この堀が東に全長300m下る。 | G松の丸の東斜面に展開する曲輪群。超藪! | HFの堀の末端。左が千人溜め、右が馬洗い場である。 |
松の丸北の堀Fは東斜面を下り、全長が約300mある。末端がHである。
松の丸の東斜面には曲輪Gが10段以上展開し、末端が一辺約80mの三角形をした千人溜である。
ここの標高が155mというので山頂からは約70m低くなる。
さらにこの長大な竪堀末端Hの北側には馬洗池や馬場がある。
この付近は非常に複雑な曲輪配置になっているが藪でよく分からない。
さらに桝形虎口があり、さらに北下に後藤郭、金井郭がある。これらは家臣の屋敷の地であろう。
I馬場、馬をここまで連れて来るか? 宿営地か屋敷があったのでは? |
J中の丸(左)と琵琶丸(右)間の堀 | K琵琶丸(左)西の堀切。 ここから狼煙台までの尾根が約400m続く。 |
本郭の南下には曲輪Bがある。標高は214m。その南が二郭Cである。標高は225m。
多くの曲輪が二郭中心に東斜面に展開する。
二郭から西に尾根が延び、箱堀を介して、中の丸があり、巨大な堀Jを介して琵琶丸があるが、内部は藪である。
北側斜面には帯曲輪が3段展開する。
琵琶丸の西に堀切Kがあり、細尾根となるが、馬繋場Lという比較的広い曲輪がある。
この曲輪の西は削り残し土塁となっている。さらに堀切Mがあり、尾根が約150m続き、一段高く狼煙台Nとなる。
50m×12mの広さである。
ここには窪んだ場所があり、本当に狼煙を上げたと思われるが、西方向の監視所も兼ねていたのであろう。
この場所は西に位置する御館の乱の時の宿敵、与板城の直江氏を意識したものか?
この場所の標高は231m、城内最高箇所である。
この尾根筋から攻められるのが、一番弱い。
このため、尾根に沿って深い堀を配置した厳重な造りにしているのであろう。
L狼煙台までの繋ぎの曲輪、馬繋場。 馬がここまで連れて来れる訳ない! |
M馬繋場西側には深い堀がある。 | N城内最高箇所の狼煙台、西方面の監視所でもある。 |
栃尾城の築城は南北朝時代、越後守護になった宇都宮氏綱の家臣、芳賀禅可が築いたとされる。
室町時代になると栖吉城を本拠とする古志長尾氏の領地となり栃尾城には家臣を置いた。
それが本庄氏である。
上杉謙信の母は古志長尾氏の出身のため、古志長尾氏を継ぐことを考慮していたものと思われる。
上杉謙信在城以降の城主は実乃から秀綱に代わり在城する。
天正6年(1578)謙信が死に、御館の乱が勃発すると、本庄秀綱は上杉景虎に付き、景勝方の直江氏の与板城を攻撃する。
しかし、次第に景勝方が優勢となり、天正8年4月に栃尾城は景勝方の猛攻撃を受け落城、秀綱は会津に落ち延びる。
その後は上田衆の阿部弐助が城主となり、文禄3年(1595)時点では清水内蔵助が城主であった。
上杉氏が会津に移封されると、堀秀治が越後に入り、栃尾城には神子田長門守政友が入るが、慶長15年(1610)堀氏の改易に伴い廃城となる。
栖吉城(新潟県長岡市栖吉町)
長岡市中心部の南東にある悠久山公園の東に長岡高専があるが、その南東にある堂々とした山塊、標高328mの城山にある。 |
築城がいつなのかはっきりしないが、永正年間(1504 - 1521年)、古志長尾家の長尾孝景が築城し、蔵王堂城から本拠を移したという。 おそらく戦国乱世を予想し、防御に難がある蔵王堂城に不安を抱き、要害堅固なこの城に移ったのではないかと思われる。 その一方で蔵王堂城も有力支城として存続し、双頭の城として古志長尾家の領地支配をしていたものと思われる。 この古志長尾家、謙信存命時代は有力な一族として謙信を支え活躍するが、謙信の死後、勃発した御館の乱では、景勝支持の中心となっていた上田長尾家との対抗上、景虎側に付くが、居多浜の合戦において古志長尾家の長、上杉景信(通称、古志十郎)が討死、景虎も破れ、古志長尾家は滅亡してしまう。 古志長尾家滅亡後、その家臣団、栖吉衆は河田長親が統率。 しかし、長親が越中松倉城で急死すると、嫡男の岩鶴丸が後を継ぐが早世。 河田一族の河田親詮が継ぐが、次第に軍役規模も小さくなり、栖吉衆は分解、城は上杉家の会津転封により廃城となり、栖吉衆は景勝直参の旗本となる。 もちろん、この山の上にある城に常時、居住していた訳ではなく、古志長尾一族は麓の居館に住んでいた。 この館が栖吉神社と菩提寺である普済寺近くの「館の越」にあったという。 栖吉神社から延びる尾根道が大手道というが、ここからは登らず普済寺の裏から登った。 比高270mの道はそれほどの急勾配というわけでもないが、けっこう長く疲れる。 この道を登ると標高275m地点の鞍部@に出る。 この鞍部の北側が本城部分で南側が馬場Aということになっている。 おそらくこの場所に古道が通り、関所のようなものがあったのではないかと思われる。 本城側に登って行くと、畝状阻塞という連続竪堀が見られる。 越後の上杉の城のトレードマークである。 でも季節(9月)がら藪が多くてよく分からない。 |
鞍部から本郭までは高度差で60m、水平距離で200mほど。
その間、本郭から扇状に二郭、三郭Bと曲輪が展開し、曲輪間はメリハリのある急勾配の切岸と横堀で区画される。
さらに周囲に帯曲輪が巡らし、急勾配の切岸を造りだしているが、藪で分からない。
本郭Fは東西55m、南北34mと広く平坦。南側には外枡形Eがあるが、かなり曖昧な感じである。
二郭Dは本郭の南側、西側を1辺50mのL形に覆い、本郭との間に幅5mほどの堀Cがあり土橋で接続する。
この堀は本郭の東側では堀切と合流する。二郭の南側の幅10mほどの堀を介して三郭Bがある。
@ 主郭部と馬場間の鞍部 | A 南側の馬場、出城があった? | B三郭の内部 | C 三郭と二郭間の土橋と堀 |
D 二郭内部 | E 本郭西の枡形と堀 | F 本郭内部は広い | G 本郭東の深い堀 |
三郭は50m四方くらいの広さがあり、その南に鞍部に下りる道が土橋のような感じで存在する。
この本郭部の東側に「古城」とか「詰の城」という部分があるが、主郭部からは堀が深くG、また、それがいくつも続くので直接は行けない。
(というより道が藪になっているので行けない。)おそらく当時は堀は埋没していないからさらに深く谷のようだったのだろう。
橋が架かっていたのだろうか?
この「古城」とか「詰の城」に行くには一度、鞍部に下り、そこから延びた道を行けば良い。
しかし、曲輪内は藪状態。冬場じゃないと写真には撮れない。
ここは2つの主要な曲輪からなり、東端に40m×20mの曲輪があり、1段南に長さ50m、幅30mの曲輪があり、数本の巨大堀切で主郭側に独立する。
幸い、主郭部はありがたいことに草が刈られており、十分、写真が撮れた。
てな訳で写真の掲載は主郭部のみ。
都合、栖吉城の城域は東西約600m、南北約300mにもおよぶが、特徴は2つの主郭部があり、2つの城がドッキングしたような感じである。
東側の「古城」とか「詰の城」という部分、当初の城ということを思わされるが、こちらの方が標高が若干、低い。
普通は山の最高箇所に本郭を置くのが常識である。
それに切岸の鋭さは「古城」とか「詰の城」という部分の方が鋭い。
多分、この部分は逆に後で拡張された部分ではないかと思われる。