栖吉城(新潟県長岡市栖吉町)

長岡市中心部の南東にある悠久山公園の東に長岡高専があるが、その南東にある堂々とした山塊、標高328mの城山にある。
女性的な響がする城名であるが、名前からのイメージとは正反対のごつい、いかにも戦国時代の男性的な山城であった。
麓からの比高は270mほどある。
英雄、上杉謙信の母、虎御前の生まれたのがこの地であり、彼女はこの城の城主、古志長尾家長尾房景(長尾顕吉との説も有り)の娘という。
虎御前が実家に戻って出産したため、謙信はこの城で誕生したとの伝説もある。

築城がいつなのかはっきりしないが、永正年間(1504 - 1521年)、古志長尾家の長尾孝景が築城し、蔵王堂城から本拠を移したという。
おそらく戦国乱世を予想し、防御に難がある蔵王堂城に不安を抱き、要害堅固なこの城に移ったのではないかと思われる。
その一方で蔵王堂城も有力支城として存続し、双頭の城として古志長尾家の領地支配をしていたものと思われる。

この古志長尾家、謙信存命時代は有力な一族として謙信を支え活躍するが、謙信の死後、勃発した御館の乱では、景勝支持の中心となっていた上田長尾家との対抗上、景虎側に付くが、居多浜の合戦において古志長尾家の長、上杉景信(通称、古志十郎)が討死、景虎も破れ、古志長尾家は滅亡してしまう。
古志長尾家滅亡後、その家臣団、栖吉衆は河田長親が統率。
しかし、長親が越中松倉城で急死すると、嫡男の岩鶴丸が後を継ぐが早世。河田一族の河田親詮が継ぐが、次第に軍役規模も小さくなり、栖吉衆は分解、城は上杉家の会津転封により廃城となり、栖吉衆は景勝直参の旗本となる。

もちろん、この山の上にある城に常時、居住していた訳ではなく、古志長尾一族は麓の居館に住んでいた。
この館が栖吉神社と菩提寺である普済寺近くの「館の越」にあったという。
栖吉神社から延びる尾根道が大手道というが、ここからは登らず普済寺の裏から登った。
比高270mの道はそれほどの急勾配というわけでもないが、けっこう長く疲れる。
この道を登ると標高275m地点の鞍部@に出る。
この鞍部の北側が本城部分で南側が馬場Aということになっている。
おそらくこの場所に古道が通り、関所のようなものがあったのではないかと思われる。
本城側に登って行くと、畝状阻塞という連続竪堀が見られる。越後の上杉の城のトレードマークである。
でも季節(9月)がら藪が多くてよく分からない。

鞍部から本郭までは高度差で60m、水平距離で200mほど。
その間、本郭から扇状に二郭、三郭Bと曲輪が展開し、曲輪間はメリハリのある急勾配の切岸と横堀で区画される。
さらに周囲に帯曲輪が巡らし、急勾配の切岸を造りだしているが、藪で分からない。

本郭Fは東西55m、南北34mと広く平坦。南側には外枡形Eがあるが、かなり曖昧な感じである。
二郭Dは本郭の南側、西側を1辺50mのL形に覆い、本郭との間に幅5mほどの堀Cがあり土橋で接続する。
この堀は本郭の東側では堀切と合流する。二郭の南側の幅10mほどの堀を介して三郭Bがある。

@ 主郭部と馬場間の鞍部 A 南側の馬場、出城があった? B三郭の内部 C 三郭と二郭間の土橋と堀
D 二郭内部 E 本郭西の枡形と堀 F 本郭内部は広い G 本郭東の深い堀

三郭は50m四方くらいの広さがあり、その南に鞍部に下りる道が土橋のような感じで存在する。
この本郭部の東側に「古城」とか「詰の城」という部分があるが、主郭部からは堀が深くG、また、それがいくつも続くので直接は行けない。
(というより道が藪になっているので行けない。)おそらく当時は堀は埋没していないからさらに深く谷のようだったのだろう。
橋が架かっていたのだろうか?

この「古城」とか「詰の城」に行くには一度、鞍部に下り、そこから延びた道を行けば良い。
しかし、曲輪内は藪状態。冬場じゃないと写真には撮れない。
ここは2つの主要な曲輪からなり、東端に40m×20mの曲輪があり、1段南に長さ50m、幅30mの曲輪があり、数本の巨大堀切で主郭側に独立する。

幸い、主郭部はありがたいことに草が刈られており、十分、写真が撮れた。
てな訳で写真の掲載は主郭部のみ。
都合、栖吉城の城域は東西約600m、南北約300mにもおよぶが、特徴は2つの主郭部があり、2つの城がドッキングしたような感じである。
東側の「古城」とか「詰の城」という部分、当初の城ということを思わされるが、こちらの方が標高が若干、低い。普通は山の最高箇所に本郭を置くのが常識である。
それに切岸の鋭さは「古城」とか「詰の城」という部分の方が鋭い。
多分、この部分は逆に後で拡張された部分ではないかと思われる。