坂戸城(南魚沼市六日町)
南魚沼市(六日町)市街東を流れる魚野川の東の標高633.7mの坂戸山山頂付近に曲輪群を展開させる険しい山城。
城のある坂戸山は比高が470m、六日町盆地を流れる魚野川と三国川の合流点に向かって南東側から半島状に突出しており、北、東、西の三方は急勾配。
西の山麓に城主の居館跡と家臣団の屋敷跡がある。

居館は東西110m、南北80mの広さで、その周囲は高さ2mの石垣で補強した土塁がめぐる。
その西側、魚野川との間には「埋田」と称される堀跡が残っている。

その居館跡から主郭部に登るのであるが、この道は水平距離は短いものの、勾配はきつい。
この道を登って行くと、40、50分で「桃の木平」という平坦地に出る。
ここは山上居館跡という。ここの標高は540m、東西30m、南北120mの細長い空間であり、東側は主郭部と主水郭間の尾根が高さ30mほどに聳える。
ここから主郭部まではさらに高度差で90mほど登る。

途中に井戸があり、小さな平坦地(曲輪)がいくつも見られる。水はあまり苦労しなかったようである。
主郭部は北に30m四方の曲輪があり、高さ5mを経て長さ50mほどの2段の曲輪(広瀬曲輪)があり、本郭周囲で帯曲輪となる。
さらに1段上高さ4m上の曲輪が本郭である。

長さ40m、幅20mほどか。南端に土壇があり、天正14年(1586年)、直江兼続の勧請によるとの伝承をもつ富士権現が祀られている。
おそらくここには井楼櫓か何かが建っていたものと思われる。

主郭部の南東500m、標高631m地点に大城、小城という「詰の城」がある。
それまでの間、標高600mの尾根状の鞍部を通るが、それまでの間、主郭部背後から尾根筋に何本かの堀切があり、中には岩盤をくり抜いたものもある。
この大城、小城は長さ200m以上あり、大城には土塁を持つ広い平坦地がある。
ここは、詰の城というより、主郭部の背後を守る砦であろう。

主郭部から「桃の木平」の東の主水郭を結ぶ細尾根を通るとここにも大きな堀切があり、それを越えると主水郭である。
主郭から400mの距離があり、標高は570m、ここが「二郭」「三郭」に相当する郭である。
5段程度に幅30〜40mくらいの幅の広い曲輪が250m程度に渡って展開する。

ここはかなりの面積があり、蔵か何かが置かれていたのか、または、住民の避難場所であったのかもしれない。
なお、主郭から南西に延びる「薬師尾根」の中腹には「中屋敷」または「西郭」と呼ばれる東西40m、南北50mの平坦地がある。

この付近から山麓にかけての斜面には100基以上の畝状竪堀が築かれているという。

上杉景勝と直江兼続が生れた地として有名であり、当然、この2人も城に立っているはずである。
城がいつごろ築かれたか不明であるが、中世には上田荘という荘園があり、鎌倉時代は新田氏一族が支配しており、すでにそのころ、坂戸山に避難用の城が築かれていたものとも思われる。
しかし、南北朝時代の騒乱で南朝の主力であった新田氏は没落。

越後は北朝方、上杉氏の支配となる。
ここ坂戸には文和年間(1352-1355)上杉憲顕が越後守護になった時、家臣長尾高景の一族が入り拠点とする。
この一族が後に上杉景勝が出る上田長尾氏である。
そして、上田長尾氏は坂戸城を本格的な戦国城郭に整備した。

上田長尾氏は守護代の府中長尾氏と並ぶ格式を持ち、越後ではナンバー2の半独立的な存在で、坂戸は越後と関東を結ぶ、交通の要衝、また、魚野川の河川交通の要衝、さらに魚沼の穀倉地帯を擁する経済上の要衝として重要な地であった。

戦国時代、上田長尾氏は守護代府中長尾氏に対して半独立性立場はあったものの、長尾景虎(上杉謙信)が越後国主となると、上田長尾氏の長尾政景との対立が激化。ついに天文20年(1551)上杉謙信に坂戸城を包囲され、臣下となる。
そして、永禄7年(1564)、付近の野尻池にて琵琶嶋城主宇佐美定満(下平吉長とも)との舟遊び中に定満とともに謎の死を遂げている。
この死については上杉謙信による暗殺説もあり、今も論議の的となっている。

麓の居館跡 @山上居館「桃の木平」 A主郭最初の曲輪 B本郭直下の広瀬曲輪
C本郭の櫓台に建つ富士権現 D小城から見た主郭部 E 本郭から見た大城と小城 F 大城の虎口
G平坦な大城内部 H主水郭の段々になっている曲輪 I主水郭北端の広い曲輪 本郭から見た六日町市街

しかし、政景の子、景勝は謙信の養子となり、やがて御館の乱を制し、越後国主になるが、それには樋口与六兼続(のちの直江兼続)以下の直属の「上田衆」が大きな力となった。
このころ、景勝は春日山城におり、坂戸は家臣が城代を勤めていたが、景勝の最大の支援母体であった。
御館の乱でも北条氏の景虎支援軍が越後に侵攻するが、坂戸城で阻止される。
この城、まともな攻撃では落とせる訳がない。この城に篭られ、それを無視して侵攻することは後方が遮断される恐れがあるため、不可能であろう。

また、天正10年(1582)上野国から滝川一益の軍勢が侵入するがやはり坂戸城で阻止されている。
慶長3年(1598)、上杉景勝は会津に転封となり、越後には堀秀治が入り、坂戸城には、秀治の家臣堀直寄が入るが、慶長15年(1610)堀直寄が飯山に去り、坂戸城は廃城となる。
この間、12年で坂戸城の山上部はほとんど使われなかったと思われる。
堀直寄は山麓の居館部付近を中心に近世城郭に整備したという。
したがって、山麓の居館跡付近の遺構はかなり改変を受けており、山麓の居館跡も完全に上杉氏時代のものとは言い切れないようである。