樺野沢城(南魚沼市)37.0273、138.8214
上杉謙信越山時の直峰、犬伏、琵琶懸に続く4日目の宿城と言われる。
それともに上杉景勝の生誕の城ともいう。

さらには「御館の乱」の時、上杉景虎支援のため、越後に侵攻した北条勢の拠点となった城でもあり、多くの場面で歴史に登場する城である。
築城時期等は分からないが、坂戸城の支城として上田長尾氏によるものと思われる。

↑東から見た城址、碑はここにあったあ小泉屋敷の標示。碑の上の岡が「御屋敷」跡。
今は水田になっている。ここは「魚沼産コシヒカリ」の産地である。

城はJR上越線大沢駅の北約700mの山にあるが、標高305m、比高約100m、それほど高い山にある訳ではない。
この山、尾根状の山ではなく丸っぽい山なので遺構は広がりを見せる。
直径300mくらいが城域である。

城には山の北側を流れる樺野沢川が水堀の役目を果たし、川の南側の山の東側から三郭、二郭、本郭と並び曲輪間は堀切で隔てられる。
その主郭部の南側に西郭があり、さらに南に続く尾根筋に多重堀が構築される。

樺野沢川北岸にある龍沢寺前から登り道がある。ありがたいことにちゃんと駐車場もある。
山の東側麓部が城主の居館や職人町人が住んだ樺野沢集落である。

現在でも元屋敷、中屋敷、下屋敷、小泉屋敷、黒鉄屋敷、宮島屋敷、古町、馬場、的場、桜町といった城下町に関わる地名が残る。
「御屋敷」と呼ばれる場所が城主居館あるいは長尾政景の奥さん、仙桃院の居館であろうか。
上杉謙信、越山時の宿営屋敷なのだろうか?

小泉屋敷、黒鉄屋敷、宮島屋敷は上田長尾氏の家臣の屋敷があった場所である。
古町、桜町が職人町人が住んだ地区であろう。

上杉景勝は弘治元年(1555)この城で生まれたという。
母(謙信の姉)仙桃院が薬草を育てていたというお花畑と言われる場所も残る。
この女性、戦国無双に登場するキャラ「綾御前」その人である。

このお花畑、山麓をJR上越線が通り、一部が破壊されている。

仙桃院の薬草園があった場所付近、半分が上越線の線路で湮滅している。 御屋敷跡を城側から見る。ここも線路で一部が湮滅している。

龍沢寺前から登城路を登るとすぐに堀が見え、横堀@の堀底道を歩くことになる。
横堀の先には櫓台の跡Aがある。

この先を行くと東から登ってくる大手道に合流する。
大手道から三郭に入る虎口Kを通る。
三郭は標高が272m、西側にある最高位置の曲輪から東と南に小曲輪を展開させる。

@北東下の通路を兼ねた横堀 A@の横堀の先に櫓台がある。 B三郭、周囲にも小曲輪があるが藪で確認できない。

西側の堀切Cを過ぎると二郭Dである。
ここの標高は278m、西側に深い堀Eが本郭との間にある。
しかし、藪が酷く、どれくらい深いのか等、さっぱり分からない。

堀Eを過ぎると本郭部なのであるが、バナナ形をした最高位置の曲輪の周囲に帯曲輪Fを一周にわたり巡らせ、さらに段々に複雑に小曲輪、堀を巡らせている。
しかし、ほとんどが藪の中である。
平坦が部分が曲輪、凹んだ部分が堀程度としか認識できない。
石積みなども残るそうであるが、全ては藪の中である。

ここは聞いたところによると1年中、似たような状態という。
冬場の方が若干マシなのだろうが、そのころは雪の中である。

C三郭と二郭の間を仕切る横堀 D二郭、ここも周囲に曲輪が重なる。 E二郭と本郭の間の横堀、かなり巨大だが藪!

最高箇所、標高305mの本郭Gはバナナ形をし、長さ120m、幅15m程度の広さであるが、北側が2段、南側には堀切をはさんんで細長い曲輪が付属する。
ここからは北東に坂戸城がよく見える。
居住性はなく、戦闘指揮所という感じである。

↑ 本郭から見た北東の坂戸城、樺野沢城を占拠した北条勢は坂戸城を攻撃する。
眼下の平地と城で戦いが展開されたのだろう。


本郭の西側の堀切Hでまた帯曲輪に合流する。
さらに西側、樺野沢川の谷部に向かって遺構が展開する。
堀切Hの南側に大きな横堀があり、その堀底道を通ると、南に延びる山地に続く鞍部に出る。
ここから南側の尾根に堀切群が展開するが、平成23年(2011)の豪雨で土砂崩れが起き見れない状態である。
堀切群には崩落防止の金属ネットが被せられていた。

F本郭東下の帯曲輪、帯曲輪は本郭周囲をほぼ一周する。 G本郭内部、南魚沼一帯や坂戸城が見える。 H本郭西端の堀切。ここから帯曲輪が展開する。
I西郭西側の堀、横堀となって西郭を覆う。 J西郭内部 K大手道から三郭へ入る虎口

一方、鞍部から東に下ると西郭Jである。その間、竪堀が南に3本ほど下る。
西郭はL字形をし、総延長50mくらいである。
西下の堀Iが途中から横堀となり西郭の南下を覆う。
さらに下にもう1本の横堀がある。

城主は上田長尾家臣の栗林氏である。
信濃出身で享禄年間(1528−32)に上田長尾氏の家臣になったという。
信玄に追われて越後に信濃の多くの武家が逃れる前の頃である。

栗林氏は御館の乱の時、当主政頼が坂戸城の城代となって、北条氏の攻撃を阻止し上杉景勝勝利に貢献する。
御館の乱の時、天正6年(1578)9月、上杉景虎支援のため、北条氏照率いる北条勢が越後に侵入し、荒戸城を落とし、樺野沢城を占領、ここを拠点に景勝方の坂戸城を攻撃する。

しかし、北条勢は坂戸城を攻略できず関東に撤退、翌天正7年2月、樺野沢城は景勝方の逆襲を受けて本郭を残して陥落、城兵は降伏する。
北条氏にとって、また上杉景虎にとって不幸だったのは、関東から越後に入った地が上杉景勝の本拠地だったことであろう。

当然、抵抗は頑強を極め、坂戸城の上田衆は地理にも明るい。
しかも坂戸城は堅城であり、ここを突破するのは至難の業である。

もしここが栃尾等、上杉景虎に味方する地だったら、織田氏の甲斐侵攻のように一気に越後全体を制圧でき、景虎が勝利した可能性もあろう。

この城には横堀がけっこう存在するが、横堀は北条氏が占拠していた頃、整備したものではないかと言われている。
この戦いの以後、上杉景勝の家臣が在城し、会津移封時に廃城になった。
(「甲信越の名城を歩く 新潟編」を参考にした。)

坂戸城(南魚沼市六日町)
南魚沼市(六日町)市街東を流れる魚野川の東の標高633.7mの坂戸山山頂付近に曲輪群を展開させる険しい山城。
城のある坂戸山は比高が470m、六日町盆地を流れる魚野川と三国川の合流点に向かって南東側から半島状に突出しており、北、東、西の三方は急勾配。
西の山麓に城主の居館跡と家臣団の屋敷跡がある。

居館は東西110m、南北80mの広さで、その周囲は高さ2mの石垣で補強した土塁がめぐる。
その西側、魚野川との間には「埋田」と称される堀跡が残っている。

その居館跡から主郭部に登るのであるが、この道は水平距離は短いものの、勾配はきつい。
この道を登って行くと、40、50分で「桃の木平」という平坦地に出る。
ここは山上居館跡という。ここの標高は540m、東西30m、南北120mの細長い空間であり、東側は主郭部と主水郭間の尾根が高さ30mほどに聳える。
ここから主郭部まではさらに高度差で90mほど登る。

途中に井戸があり、小さな平坦地(曲輪)がいくつも見られる。水はあまり苦労しなかったようである。
主郭部は北に30m四方の曲輪があり、高さ5mを経て長さ50mほどの2段の曲輪(広瀬曲輪)があり、本郭周囲で帯曲輪となる。
さらに1段上高さ4m上の曲輪が本郭である。

長さ40m、幅20mほどか。南端に土壇があり、天正14年(1586年)、直江兼続の勧請によるとの伝承をもつ富士権現が祀られている。
おそらくここには井楼櫓か何かが建っていたものと思われる。

主郭部の南東500m、標高631m地点に大城、小城という「詰の城」がある。
それまでの間、標高600mの尾根状の鞍部を通るが、それまでの間、主郭部背後から尾根筋に何本かの堀切があり、中には岩盤をくり抜いたものもある。
この大城、小城は長さ200m以上あり、大城には土塁を持つ広い平坦地がある。
ここは、詰の城というより、主郭部の背後を守る砦であろう。

主郭部から「桃の木平」の東の主水郭を結ぶ細尾根を通るとここにも大きな堀切があり、それを越えると主水郭である。
主郭から400mの距離があり、標高は570m、ここが「二郭」「三郭」に相当する郭である。
5段程度に幅30〜40mくらいの幅の広い曲輪が250m程度に渡って展開する。

ここはかなりの面積があり、蔵か何かが置かれていたのか、または、住民の避難場所であったのかもしれない。
なお、主郭から南西に延びる「薬師尾根」の中腹には「中屋敷」または「西郭」と呼ばれる東西40m、南北50mの平坦地がある。

この付近から山麓にかけての斜面には100基以上の畝状竪堀が築かれているという。

上杉景勝と直江兼続が生れた地として有名であり、当然、この2人も城に立っているはずである。
城がいつごろ築かれたか不明であるが、中世には上田荘という荘園があり、鎌倉時代は新田氏一族が支配しており、すでにそのころ、坂戸山に避難用の城が築かれていたものとも思われる。
しかし、南北朝時代の騒乱で南朝の主力であった新田氏は没落。

越後は北朝方、上杉氏の支配となる。
ここ坂戸には文和年間(1352-1355)上杉憲顕が越後守護になった時、家臣長尾高景の一族が入り拠点とする。
この一族が後に上杉景勝が出る上田長尾氏である。
そして、上田長尾氏は坂戸城を本格的な戦国城郭に整備した。

上田長尾氏は守護代の府中長尾氏と並ぶ格式を持ち、越後ではナンバー2の半独立的な存在で、坂戸は越後と関東を結ぶ、交通の要衝、また、魚野川の河川交通の要衝、さらに魚沼の穀倉地帯を擁する経済上の要衝として重要な地を支配していた。

戦国時代、上田長尾氏は守護代府中長尾氏に対して半独立性立場はあったものの、長尾景虎(上杉謙信)が越後国主となると、上田長尾氏の長尾政景との対立が激化。
ついに天文20年(1551)上杉謙信に坂戸城を包囲され、臣下となる。

そして、永禄7年(1564)、付近の野尻池にて琵琶嶋城主宇佐美定満(下平吉長とも)との舟遊び中に定満とともに謎の死を遂げている。
この死については上杉謙信による暗殺説もあり、今も論議の的となっている。

麓の居館跡 @山上居館「桃の木平」 A主郭最初の曲輪 B本郭直下の広瀬曲輪
C本郭の櫓台に建つ富士権現 D小城から見た主郭部 E 本郭から見た大城と小城 F 大城の虎口
G平坦な大城内部 H主水郭の段々になっている曲輪 I主水郭北端の広い曲輪 本郭から見た六日町市街

しかし、政景の子、景勝は謙信の養子となり、やがて御館の乱を制し、越後国主になるが、それには樋口与六兼続(のちの直江兼続)以下の直属の「上田衆」が大きな力となった。
このころ、景勝は春日山城におり、坂戸は家臣が城代を勤めていたが、景勝の最大の支援母体であった。

御館の乱でも北条氏の景虎支援軍が越後に侵攻するが、坂戸城で阻止される。
この城、まともな攻撃では落とせる訳がない。
この城に篭られ、それを無視して侵攻することは後方が遮断される恐れがあるため、不可能であろう。

また、天正10年(1582)上野国から滝川一益の軍勢が侵入するがやはり坂戸城で阻止されている。
慶長3年(1598)、上杉景勝は会津に転封となり、越後には堀秀治が入り、坂戸城には、秀治の家臣堀直寄が入るが、慶長15年(1610)堀直寄が飯山に去り、坂戸城は廃城となる。
この間、12年で坂戸城の山上部はほとんど使われなかったと思われる。

堀直寄は山麓の居館部付近を中心に近世城郭に整備したという。
したがって、山麓の居館跡付近の遺構はかなり改変を受けており、山麓の居館跡も完全に上杉氏時代のものとは言い切れないようである。