犬伏城と犬伏館(十日町市犬伏)
上杉謙信の関東出陣、いわゆる「越山」のルート、上杉軍道における宿城と言われる。
このルートは春日山城を経って、直峰城で一泊、そしてこの犬伏で一泊した後、魚沼、そして三国峠を越えて関東に至ると言われる。
直峰城からは直線で東約20qに位置するが、その間は山地であり、街道を使えば30qの距離はあるだろう。

東側、渋海川越に犬伏の集落を見る。 集落から下を流れる渋海川を見る。比高約40mの崖である。

居館は犬伏の集落自体と言えるだろう。
犬伏館というべきである。

この集落は標高が約200m、南側から東側にかけては崖状であり、渋海川が取り巻くように弧を描いてながれる。
渋海川からの比高は約40mある。
さらに西と北は山であり、集落自体が特段の防御施設も要らず、地形だけで城として成り立つ。
いわゆる「城砦集落」と言えるだろう。

集落西の犬伏城の登城路から見た犬伏集落 犬伏集落のメインストリート

この集落の北西の山全体が犬伏城である。
城は南北朝時代には麓の犬伏の集落にあった居館を守るため、及び緊急時の避難場所として既に存在していたと思われるが小規模なものであったであろう。
今残る巨大な山城は謙信の時代に拡張整備したものであろう。

城の本郭のある城山の山頂(37.1409、138.6464)365.6mまでは犬伏の集落からは比高が約170mある。かなり高い。
城へは集落西端の「松之山街道」の解説板のある場所から登る。
なお、この解説板、江戸時代にここを通っていた街道、松之山街道の説明を書いたものであり、謙信の関東出陣の軍道であったことについての記載はない。

ここから登って行くと墓地があり、さらに進むと尾根に段々状のものが見えてくる。
曲輪であろう。
さらに登ると標高277m地点に城址碑がある。
ここは本郭から南に派生する尾根の中腹である。
尾根には堀切@が見られる。

@城の実質的な入口は堀底道になっている。 A主郭部から南に延びる尾根末端の堀切は松之山街道
 の切通しとして使われている。
B沢を越え、北側の尾根に入ると、広い曲輪がある。
東側は約2.5m、一段高くなっている。

堀底道Aを行き、一度東側の沢に下る。
対岸が主郭部から南東に広がって下る尾根であり、曲輪や堀切群Eが見えて来る。
沢を渡ると広い曲輪Bがある。
ここの標高は297m、犬伏の集落からは約100m高い。
ここは山城の居館の地なのであろうか?東側が一段約2.5m高くなっている。

C Bの曲輪の南端部に虎口がある。
ここから犬伏集落に下る道があったらしい。
D二郭からBの曲輪まで段々に広い曲輪が展開する。 EBの曲輪の西側沢側。腰曲輪がある。

南東端に抉れた部分Cがある。虎口である。
ここから下に下る道があり、沢を越えて犬伏の集落に通じていたようである。
Bから北西側の主郭部を見ると、曲輪D等の曲輪が段々に3つほど重なっているのが見える。

沢側には竪土塁がある。
尾根の最上部がG、Hの遺構部である。
本郭はこの西側、いわば二郭に相当する部分である。

帯曲輪を西に行き、登ると本郭である。
ここから派生する全ての尾根筋に曲輪群が展開する。
かなり巨大な要塞であり、切岸の勾配が鋭く登るのが大変である。
城址は残念ながらそれほど管理された状態ではなく、特に主郭部には藪が多い。
もっとも刈払機を抱えて、比高約170mの急な道を登って来るのはとてもじゃないが、耐えられない。

F 本郭から南に延びる尾根に展開する堀切と曲輪。 G二郭は堀切でいくつかに仕切られる。
 南側に帯曲輪がある。
H二郭の本郭側との間を仕切る土塁と堀
←I本郭内部。標柱と解説板があるが、草が茫々の状態。

築城年代は明らかではないが、南北朝時代に風間信濃守信昭が直峰城を根拠地に活躍しており、犬伏城もその勢力下にあったと考えられる。
しかし新田氏の没落により犬伏城も北朝方の勢力下に入り、観応年間(1350-52)には足利方の原田喜太郎が犬伏城を拠点に南朝方と交戦した。
さらに貞治年間(1362-68)には上杉憲顕の家臣、丸山弾正の居城となり丸山氏が数代に渡って居住したという。
永正4年(1507)年8月2日、守護代長尾為景は守護上杉房能と対立して府中の守護館を急襲、房能は関東に逃れる途上に直峰城に立ち寄ったが為景軍の追撃を受けて松之山に逃れ、八月七日に天水越で自刃した。
時の犬伏城主の丸山左近入道信澄は上杉房能に従っており、房能とともに自刃したという。

謙信の時代になると、大熊朝秀が城代をつとめ、朝秀は城の改修と松之山街道(上杉軍道)の整備をする。
朝秀が反乱を起こし武田のもとに亡命すると、清水采女正が城主となり、謙信の関東出撃の際の中継点として用いられた。

天正6年(1576)謙信が死去すると養子の景勝と三郎景虎が跡目争いを繰り広げた(御館の乱)が勃発する。
犬伏城は景勝方が抑え、上田衆の小森沢政秀らが入り、景虎方を支援する北条氏に備える。
景勝は天正6年6月6日、小森沢、金子二郎左衛門宛の書状で犬伏城にいた毛利名左衛門、萩田與左衛門、長尾筑後守、吉益伯耆守らを「其地(今井城カ)」の備えを固めるために派遣させている。
また天正8年3月27日付の下平蔵人助宛の書状では、大沢の地を北条高広らが乗っ取ったとの知らせに犬伏城の用心に油断なきよう指示している。

この乱においては、犬伏城は直峰城とともに景勝の本拠、坂戸城と春日山城をつなぐ補給路の確保に寄与し、それにより乱で勝利を収めたともいえる。
慶長三年(1598)上杉景勝が会津に移封されると春日山城には堀秀治が入り、犬伏城は堀秀治の支配下に入ったが、慶長15(1610)に堀忠俊が改易されると廃城となった。

大井田城(十日町市)37.1654、138.7878
JR飯山線「魚沼中条駅」の北東に見える標高308.4mの山にある。
山城というと行くのが大変そうであるが、ありがたいことに林道が延び、城址まで車で乗り付けられるのである。
山頂に本郭を置き、その北西側斜面に段々に曲輪を展開@させる古い形式である。

南北朝時代に南朝方の新田氏の一族大井田氏らが拠ったと云われる。
大井田氏の末裔が中条氏とされ、戦国時代も上杉氏の家臣として名前が残るという。

戦国時代の状況は分からないが、戦国時代の特徴である畝状竪堀群があったということと、本郭背後が見事な二重堀切Dが構築されていることから戦国時代も使っていたようである。
畝状竪堀群があるとはいうがちっとも分からない。
城主は中条氏であろうか?

@北側から段々に曲輪が積みあがる。 A主郭直下の曲輪、平坦で広い。 B本郭から西側の二郭を見る。土橋で連結され、
 馬出のような感じである。堀部分が登城路。
C本郭内部、南端部が土壇状になっている。 D本郭の土壇から南を見ると・・定番の二重堀切が! 本郭から望む北下を流れる信濃川、小千谷方面。

信濃川からの比高は約200m、本郭からは信濃川が流れる十日町から小千谷方面が一望である。
ここから信濃川沿いの水運と陸運を監視していたのだろうか。


琵琶懸城(十日町市)

十日町市市街の南西約2q、「北越急行ほくほく線」が信濃川を渡る鉄橋の右岸南側の河岸段丘にある平城、または岡城である。
ここの地名が「城之古」(しろのこし)、そのものズバリの地名である。
河岸段丘の西縁に位置し、西側と南側は段丘の斜面、信濃川の水面からの比高は約15mある。

↑ 西側の信濃川堤防から見た城址。三郭に建つ観音堂が見える。かつては川の分流が流れ、赤い屋根の小屋付近に渡しがあったという。
東側、北側は台地につながるが、台地間とは堀と土塁Aで仕切られる。

城外の台地上には家臣団の屋敷や軍勢の宿泊施設があったのではないかと思われる。
この方面の堀Bは幅が最大15mあり、水堀であったようであり、今も水が溜まっている。
土塁は虎口付近などでは「折れ」がある。

4つの曲輪からなり、東西約150m、南北約200mの城域を持つ。
内部は畑や墓地等になっている。
二郭と本郭間の堀や東郭と二郭間の堀や土塁の一部は失われているが比較的良好に遺構が残存している。
城域内部の堀は仕切り堀といった感じである。

南東縁に本郭をD置き、土塁と堀が北側と東側を覆う。
70m×50mほどの規模があり、土塁の高さは約2m。

その東が40m四方ほどの東郭、さらにその東には丸馬出がある。
本郭へは東郭側の虎口Eから入るが、本郭北西端から堀に降り、二郭に上がる道もあったようである。

本郭の北が二郭、120m×50mの広さであるが、北の三郭側との堀は湮滅している。@
北端の三郭は約100m四方ほどの五角形をした曲輪であり、観音堂が建つ。

城内は広く平坦であり、居館や倉等が存在していたのであろう。
かつては西下を信濃川の分流が流れ、船着き場があり、物資を保管する倉が三郭あたりに存在していたのではないかと思われる。

@本郭北側から見た二郭、三郭。郭間の堀は湮滅している。 A三郭東側の土塁と堀(右側) B 三郭西側の堀には水が溜まっている。
C 本郭(右)北側の堀 D本郭内部と北側を覆う土塁 E東郭から本郭の虎口を見る。土塁と堀間に入口が開く。

築城時期は明らかでないが、平安時代末期仁安2年(1167)に本間義秀による説や南北朝時代に新田一族、羽根川(羽川)氏が築城したとも言われる。
戦国時代前期、上杉氏が守護の頃、家臣の長尾景広が城主となり、数代にわたって続く。

戦国時代後期、上杉謙信が登場してくると関東出陣、いわゆる越山時の宿営地になったと言われる。
通常時は信濃川の渡しや河川水運を管理していたのであろう。

越後の城には珍しい丸馬出が見られることから、天正6年(1578)に起こった御館の乱の際、景勝と講和した武田軍の援軍がここに入っていたともいう。
その時に整備した可能性があると言う。
乱後は、景勝の家臣で勝利に貢献した上田衆の金子氏が城代に任じられたとされる。
金子氏には津南町の今井城も与えられており、信濃境からこの付近までの信濃川流域一帯の統治を任されていたようである。
慶長3年(1598)、景勝が会津に移封された後、廃城になったものと思われる。