荒戸城(湯沢町)36.9074、138.7922
小さい城であるが、非常に評判が高い城であり、戦国時代の城館を扱った本では新潟の城としては春日山城の次くらいに取り上げられることが多い。
歴史的にも「御館の乱」に登場し、ここで攻防戦が演じられ重要な役割を演じたとされる歴戦の城でもある。

場所は上越新幹線湯沢駅の南南東約4q、国道17号線の芝原峠直下、芝原トンネル真上の山である。
城にはトンネルの北出口脇から登る旧道を登れば、登り口であり、駐車ができる。
そこから5分程度歩けば城址である。
城のある山の標高は793m、湯沢の町からは約430mの比高である。

↑北側、国道17号線から見た荒戸城
三国街道芝原峠を抑える関所城であり、ここを突破すれば魚沼地方に侵攻できる要衝である。
城は上田長尾氏によって築かれ、古くから存在していたと思われるが、その重要性が増したのは謙信死後、勃発した跡目相続を巡る越後の内乱、「御館の乱」の時である。
当事者の一人、上杉景虎は北条氏からの養子であり、当然、北条氏が支援する。
その場合、援軍は三国街道、芝原峠を越えて越後にやってくる。

当時、魚沼地方はもう一方の当事者、上杉景勝の本土、出身地である。
当然ながらその防衛拠点としてこの荒戸城を重視する。
そのような経緯で荒戸城は上杉景勝により戦闘用城郭に整備されたものであろう。

さらにここを占領した北条氏が侵攻拠点として手を入れており、上杉、北条双方の築城技術が盛り込まれいる。
それも戦国末期の高度化した技術が適用され、集大成ともいえる要素が盛り込まれていると言われる。

しかし、城としては意外に小さく、直径は約150mに過ぎなく、曲輪も3つしかない。
でも、その切岸の鋭さ、メリハリは素晴らしい。
実戦を経験した城だけが持つ雰囲気と迫力がある。
北から延びる登城路を登って行くとそこは緩斜面、曲輪や堀があってもいいような感じだが、何もない。
この尾根筋の防衛は放棄されている。
ここを登れば容易に城域まで接近できる。
守備範囲を広げても守る兵が分散するだけでありそれを懸念したためであろう。
実際にはこの緩い尾根筋には逆茂木が並べられていたのであろう。

ともかく、登城路を登るといきなり馬出@に出る。
その手前には堀があり、堀底は西側の大竪堀Gに通じる。
馬出の南側にも堀Aがある。
ここからは本郭が迫力で迫る。この馬出、角型であり、どことなく北条氏の築城技術によるような気もするが?

馬出南側の土橋を越えると二郭Bである。
幅は約30m、本郭の東側を覆う帯曲輪と言った感じである。
大竪堀越に三郭が見えるが、二郭からは直接、連絡はできない。
南に堀切Hがあり、その南の帯曲輪とは遮断される。
その南端に堀切があり、南側に続く尾根と遮断される。

@馬出北側から見た馬出、その上に二郭、本郭が見える。 A馬出東側の竪堀 B二郭、左上に三郭が見えるが間に大竪堀がある。

本郭Cは二郭から約7mの高さがあり、東側、南側を土塁が覆う。
南端には櫓があったようである。直径約50mの広さである。

南西側に虎口があり、本郭を巻きながら坂道が西側の三郭に下る。
坂道の下には堀Dがある。
三郭EはL形をしており幅は約30m。

C本郭内部、東と南を土塁が覆う。 D本郭(手前)と三郭の間に堀がある。 E三郭の虎口から見た三郭と本郭の切岸

西下に馬出があり、横堀が覆う。
この横堀Fは三郭の周囲を覆い大堀切Gに合流する。
横堀の底には凹凸があり、障子堀になっていたというが、よく分からなかった。
障子堀ならここを占領した北条氏による改修か?
この三郭がある西側方面が攻撃を受ける想定方向のようであり、二郭側の馬出は逆襲攻撃を想定した出撃用ともいうが・・・果たして?

F三郭の周囲を横堀が覆う。障子堀というが? G大竪堀。正面が本郭、右が三郭、左が馬出と二郭 H本郭東下の帯曲輪を分断する竪堀

天正6年(1578)3月、謙信が死に「御館の乱」が勃発すると、6月に景勝は地元上田衆の登坂安忠らに荒戸城の整備を命じる。
9月になると北条氏の軍勢が越後に侵入し、樺野沢城を拠点に景勝の本拠、坂戸城を攻撃しているのでこの時、荒戸城は攻略されたようである。
しかし、北条勢は坂戸城を攻略できず関東に撤退、樺野沢城は景勝の攻撃を受けて降伏、荒戸城も奪還され、再整備される。

天正8年(1580)3月、越後各地の景虎方に呼応して北条氏が越後に再侵攻、
この時、荒戸城で攻防戦があり、北条氏が城を落とし、城将の樋口某が討ち死にしたという。
しかし、荒戸城で時間を費やした北条勢はすぐに撤退を余儀なくされ、荒戸城は再度、景勝方に奪還される。
以後、城の整備が続けられるが、越後が景勝により平定されたころに廃城となったようである。

しかし、これで終わった訳ではなさそうであり、慶長3年(1598)の景勝の会津移封後に起こった越後一揆で一揆勢が荒戸城を再興し、坂戸城の攻撃拠点としたようである。
(「甲信越の名城を歩く 新潟編」を参考にした。)