上原城(茅野市ちの)
戦国時代、諏訪を支配した諏訪氏の本城である。

永明寺山(1119.6)の裾野の西端部が盛り上がった場所にあり、標高は978.7m、比高は200m以上もある。
でも、麓から永明寺山公園まで舗装された道路が延び、車で城北側の堀切跡@まで行くことができる。
比高200m以上もある一級の山城に車で直接乗り付けるなんて、感激の極みである。
まさにこれこそ望んで止まない「どこでもドア」、そのものである。
さらに、城も素晴らしい。凄く得した気分になる。

↑南側、武居城から見た上原城。遠く八ヶ岳が見える。その山麓部が縄文の里、国宝の土偶が出土した遺跡群がある。

城はそれほど大きなものではなく、直径約150mの規模に過ぎないが、切岸、堀等、メリハリが効いて素晴らしい。
最高箇所の本郭Fは約30m四方の広さで意外と小さい。
南側以外を低い土塁が覆う。
その南東下に二郭Eがあり、ここに物見岩がある。
二郭から本郭周囲を覆うように帯曲輪Hが北側以外を覆う。
さらに南東下が三郭Dであり神社社殿がある。

一方、本郭の北側は深さ約13mの大堀切Bになっている。
さらにその北側にも曲輪Gがあるが、不整地であり、緩やかな傾斜を持つ小山に過ぎない。
その北側に堀切があるが、林道が延び、埋められて駐車場@になっている。
しかし、斜面部の竪堀Aは健在である。

@北端の堀切は埋められて駐車場になっている。
  車でここまで楽々来ることができる。
A @の堀切は斜面部では竪堀となり明瞭に現存する。 B 本郭から見下ろした北下の堀切、深さ約13m。
C Bの堀は東斜面を竪土塁を伴い、
  2つに分岐した竪堀となって下る。
D 三郭には金毘羅神社が建つ。 E 三郭の一つ上の二郭には巨岩「物見岩」がある。

主郭部の東側斜面は急で竪堀Cで防御されるが、西側下には曲輪が重なる。
その中で最大のものが理昌院平Iという曲輪である。

一方、山の中腹部に板垣平といわれる120m×80mの平坦地がある。
ここが諏訪氏の居館跡というが、諏訪氏を滅ぼした後、武田氏が城代とした板垣信方がいた場所といい、その名を取っている。
武田氏時代の城代がいた場所もここであり、周囲は段々状になっている。
ここから山麓部にかけて城下町が形成されていたようである。

諏訪氏の本城ではあるが、諏訪氏滅亡後は武田氏が信濃侵略の前線基地として使ったため、ほとんどの遺構は武田氏時代のものであろう。

F 本郭内部は意外と狭い。周囲を低い土塁が覆う。 G 本郭北の曲輪はただの丘?不整地状。
H本郭西下の二郭から延びる帯曲輪。 I Hの曲輪のさらに西下にある理昌院平。

築城時期は定かではないが、室町時代の文正元年(1466)頃、諏訪信満が中腹に政庁を兼ねた居館を建て、諏訪地方を統治し城下町を造り、諏訪の政治経済の中心地にしたというが、その背後の防備及び詰めの城として居館と並行して造られたと思われる。
その居館の地が別名「板垣平」とか「板垣城」と言われる場所である。
←諏訪氏の居館があった中腹にある板垣平。ここから裾野にかけて城下町があったという。
しかし、天文11年(1542)、武田信玄(当時は晴信)と諏訪氏を離反した高遠頼継により、当主諏訪頼重が殺され、諏訪地方は武田領となり、郡代として板垣信方が赴任する。
板垣信方は武田氏の信濃侵略の主担当者として活動するが、天文17年(1548)2月、村上氏との上田原の戦いにおいて戦死する。
その死後、上原城には弟の室住玄蕃充虎登が派遣されるが、同年8月には長坂虎房(光堅)が配置される。

天文18年(1549年)には上原城に代わり高島城(茶臼山城、諏訪市高島)が築城され、虎房は高島城へ移り、諏訪郡の政治的拠点は高島城に移転された。
しかし、軍事拠点としての上原城は機能しており、天正10年(1582)3月の織田・徳川連合軍による武田領侵攻(甲州征伐)時は武田勝頼が上原城に入り指揮を執る。
ところが、戦線は崩壊し逃亡塀が続出、新府城に撤退、さらに岩殿城を目指すが、小山田信茂の裏切りに会い滅亡する。
その後、廃城になったと思われる。
上原の城下町は政庁移転後も存続しているが、江戸時代には諏訪高島城が築城され新城下町が整備されると、上原城の町宿も移転され、完全にその機能を失う。

諏訪氏とは
戦国大名の多くが皇室や公家の一族が国司や荘園管理者として地方に赴任し土着したことを起源にしている説が見られる。
この辺は詐称が多く、先祖をともかく高貴な者に結びつけたがることが多かったようであり、真偽不明、ほとんどは捏造ではないかと思われる。
徳川氏などはその最たるものと思われ、ご丁寧に先祖を源氏とするため、新田氏に関わり捏造さえしている。
実際は現地採用の国主等の家臣が多かったのではないかと思われる。
確実に先祖が追えそうなのは武田氏、佐竹氏くらいだろう。

その中で諏訪氏は神官(最高位の神官を大祝(おおほうり)という。)を代々務めてきた一族が軍事化、武家化した比較的珍しいルーツを持つ戦国大名である。
もっとも、寺社が武装化し僧兵などを擁していた例もあり、それらの統率者が武家になった例もある。
しかし、戦国大名レベルまでなった例は少ないと思われる。
鹿島神社の神官であった鹿島氏も武家でもあったので似た点がある。ただし、鹿島氏は大掾一族なのでルーツは明確である。

諏訪氏が戦国大名化できた背景には全国に多くの末社を擁する諏訪大社の上がり(上納金)の力が大きいと思われる。
そもそも諏訪氏(神氏、神人部氏ともいう。)がどうして大祝になったのかは、分からない。
出自については諸説あり、大神氏の同族または金刺氏の支流とも考えられている。
一説では洲羽国造を務めていた氏族ともされている。

家伝では諏訪大社の祭神・建御名方神(諏訪明神)あるいはその神に選定された童男に始まるという。
後世には桓武天皇を祖とするとも清和源氏の源満快を祖とするとも称したこともあるがこれは怪しい。
上社大祝を務めた諏訪氏(神氏)の由来については、共に大国主神の後裔とされる三輪氏の同族とする説と、欽明朝や推古朝の頃から平安時代初期に信濃国地方政治で活動して後に下社大祝家となった金刺氏の分家とする説がある。
ともかく、祭神の血筋を称する特異な家系といえよう。

諏訪氏は武士と神官双方の性格を持つが、かなり古い時期から武士としての側面を示しており、源義家が後三年の役に介入すると、大祝為信の子である神太為仲(諏訪為仲)が源氏軍に加わっている。
源平合戦では頼朝につき、御家人となり源氏、執権北条氏の御内人として名が見える。諏訪大社も軍神として鎌倉幕府の崇拝を受け、この頃、全国に広まったようである。
鎌倉幕府滅亡時には諏訪一族の者も多く戦士しているが、北条時行の蜂起(中先代の乱)をサポートしている。(実際は北朝方に組みした隣接の小笠原氏への対抗であろう。)
その後、南朝方の武将、足利将軍家の奉公衆を務め、ごく一般的国人領主として活動している。

その一方、諏訪大社の大祝として、自らを祭神として祭祀を取り仕切る絶対的な地位を有し、信濃国一宮として朝廷からも重んじられている。
代々の諏訪氏当主は安芸守などの受領名を称したが、大祝の身体をもって諏訪明神の神体とされることで正一位の神階を有し、高い権威を誇示した。
大祝はかつて上社前宮の境内にある神殿(ごうどの)と呼ばれる館「宮田渡大祝邸」(諏訪市中洲)に住んでいた。
その居館の周辺は神原(ごうばら)と尊称され、代々の大祝職位式のほか多くの祭事が行われた。大祝は祭政両権を有したことから、ここが諏訪地方の政治の中心地でもあった。

室町時代になると諏訪氏が惣領家と大祝家とに分かれ、政治(統治)と祭祀に役目が分かれ、政治の中心地は惣領家の居城である上原城に移った。
大祝の屋敷も後に上社本宮の近くにある宮田渡(みやたど、現・諏訪市中洲神宮寺)に移転したが、祭事は引き続き前宮に行われていた。
室町時代、諏訪大社に関わり、上社の諏訪氏が南朝方に帰属し続けたのに対し、下社の金刺氏は北朝方に属して上社と下社が分裂し、この争いは戦国時代まで続く。
応安5年(1372)、諏訪頼貞が北朝に服属し、大祝職は頼継の弟である信嗣が継承し、頼継の子信員は高遠諏訪氏となる。
室町時代の応永4年(1397)10月に諏訪有継が大祝となるが、4年後に下位すると、文明16年(1484年)12月には頼満が大祝職となるまで惣領家が大祝職に就くことが途絶える。
さらに文安6年(1449)には諏訪氏と下社金刺氏との抗争が発生、これに信濃守護小笠原政康が介入、政康は金刺氏を支援。これに対して諏訪惣領家は政康と小笠原家惣領職を争う松尾小笠原氏と結び、諏訪大祝家との対立も激化する。
康正2年(1456)、諏訪惣領家の信満と諏訪大祝家の頼満兄弟が衝突、この乱後、信満は居館を上原に移転する。

大祝家では頼満の子継満が大祝職に就き、義兄にあたる高遠継宗や松尾小笠原氏と結ぶ。継満は、文明11年(1479)に府中小笠原氏が松尾小笠原氏を攻めると、一時的に大祝職を辞して松尾小笠原氏後援のために出陣し、帰還後に再び大祝となる。
これに対し、諏訪惣領家では信満の子・政満が府中小笠原氏と和睦してこれに対抗した。
文明15年(1483)正月8日には継満が政満とその子若宮丸、政満弟の原田小太郎らを神殿に招いて酒宴を催し、その場で暗殺するクーデターが発生。
この事件により諏訪一族は反抗に出て、継満を干沢城(茅野市宮川)へ追い込み、さらに高遠へ追放する。
また、継満父の頼満は戦死し、下社金刺氏も駆逐された。
継満のクーデターの生き残り、政満の次男・法師丸(頼満)は文明16年(1484)12月に諏訪惣領家を継承し、さらに大祝職につき諏訪郡を統一し、大祝家を滅ぼし惣領家が大祝をも務め祭政一致の下、武力と権威を強める。

戦国時代になると、隣国の甲斐国守護・武田氏と争いが活発化する。
甲斐守護・武田信昌は寛正5年(1464)4月に守護代跡部氏に対抗するため諏訪信満に援軍派遣を要請、諏訪満有の三男・光有らが諏訪一族を派遣、跡部氏を滅亡させ、さらに寛正6年(1465)12月、跡部氏の残党討伐のため再び軍勢を派遣している。
その後、甲斐国では信縄の子・信虎が甲斐国を統一、信濃へ侵略の手を伸ばし、享禄元年(1528)8月信虎は諏訪への出兵を行うが諏訪頼満・頼隆父子により撃退される。
天文4年(1535)9月武田氏と和睦、天文9年(1540)11月29日には信虎三女・禰々が諏訪頼重に嫁して同盟関係が強化される。
天文10年(1541)6月信虎が嫡男・晴信(信玄)より駿河へ追放されるクーデターが発生する。
天文11年(1542)7月2日には晴信が高遠城主の高遠頼継と結んで、頼重の本拠である上原城を攻める。
頼重は桑原城へ敗走するが7月4日に降伏し、甲府へ護送され7月21日に甲府の東光寺で自害させられ、戦国大名としての諏訪氏は滅亡する。

その後、諏訪地方は武田氏の領土化されたが、大祝は諏訪氏が継承し頼重の弟頼高、満隣の子頼忠が諏訪大祝となっている。
武田氏は征服した信濃名族の名跡を一族に継承させる方策を行っているが、諏訪氏は頼重の娘諏訪御料人が信玄の側室となって、天文15年(1546)に産んだ四男四郎(武田勝頼)を諏訪氏の通字である「頼」字を冠し、永禄5年(1562)に諏訪氏を継がせて高遠城に配置している。
(しかし、勝頼が継承したのは従来諏訪惣領家ではなく高遠諏訪氏だったという。)
天正10年(1582)3月、織田・徳川連合軍の侵攻により武田氏は滅亡する。
諏訪は大混乱に陥る。さらに本能寺の変で織田信長が討たれ、天正壬午の乱が発生する。
この混乱に乗じて隠れていた諏訪頼忠が蜂起し、旧領を回復したという。(木曾義昌の支援を受けたともいう。)頼忠は徳川家康と相模後北条氏との争いでは、はじめ徳川方、のち後北条方に転じた。
頼忠により諏訪氏は再興され、頼忠の子頼水が関ヶ原の戦いでの功によって大名となり高島藩を立て明治維新まで続く。
ともかく波乱に満ちた一族である。一度、ほぼ滅亡して復活したのは小笠原氏と同じだけど。
ともかく、結果だけを見れば「幸運」な一族と言えるだろう。(Wikipediaを参考にした。)

ところで、信州一帯は武田嫌いである。
特に佐久地方などはその最たるもので、大河ドラマに武田モノが取り上げられても一切無視という徹底ぶりである。
川中島一帯でも悪いことをすると「信玄が来るぞ」と脅されたそうである。
ちゃんばらごっこというか、合戦ごっこをすれば、じゃんけんで負けた方が武田軍を演じ、最後は負けなければならないというのがルールだったそうである。
それでいて武田勝頼にはどこか同情的である。
この諏訪地方は果たしてどうなのだろうか?


鬼場城(茅野市米沢)
JR茅野駅の東約2q、国道152号線、通称「メルヘン街道」沿い、北側の台地上(山の裾野に近い末端部の斜面)に城山団地がある。
名前の通り、城山団地の「城」はこの鬼場城から来ている。


北から見た鬼場城 鉄塔が立っているところが二郭。

城は永明寺山(1119.6)の南東の末端部にあたり、標高は905m、比高は約75m、位置は36.0049、138.1734,同じ山系の西側に位置する諏訪氏の本拠、上原城を守る支城の1つであり、両城間は約2.5qの距離にあり、山道で連絡していたという。。
城山団地の東の末端が少し盛り上がった場所が城址であり、鉄塔が建っているのが見えるがそこが二郭である。

城の東下を上川が流れ、城からは永明寺山のある北西側以外の270度方向が良く見える。特に東には八ヶ岳が見え、絶景である。
八ヶ岳の西側の裾野が眼下に広がる。その裾野には尖石遺跡があり、ここは縄文中期文化のメッカである。

城へは城山団地北側の北の埴原田方面に通じる道の鞍部(887)から遊歩道が南に延び、そこを進むと到達する。
この遊歩道を進むと広い緩斜面がある。
ここは城域外であるが、軍勢の駐屯場所、宿営地に使っていたのではないだろうか。
@西端の横堀。堀の幅は狭い。 A本郭西側の堀切
B本郭 周囲3方を土塁が覆う。 C 二郭には鉄塔が立つ。笹藪が凄い。

その先にこの広い緩斜面を横断するように横堀@があるが、規模は小さく、道のようにしか見えない。
横堀に沿って主郭側に高さ約1.5mの土塁があり、土塁の内側、主郭側にも堀がある。
これは塹壕であろう。
おそらく土塁上に柵列があり、主郭側の塹壕から遮蔽しながら弓を射ることを想定したものではないだろうか?

この横堀を過ぎると城域である。
まず、小さな堀切があり、さらに深さ約3mの比較的明瞭な堀切Aがあり、本郭Bとなる。
本郭Bは26×15mの広さで背後、北側の堀切側がU字形に土塁が覆う。
南側に鉄塔が建つが、そこが二郭Cである。
本郭との間には曲輪と堀がある。
この方面や周囲は笹薮であり、曲輪や堀が確認しにくい。
二郭の周囲斜面にも数段の帯曲輪がある。

主郭部は非常にコンパクトであり、収容できる人員は多くても100名がいいところだろう。
そこそこの防御力を持つ物見の砦、狼煙台と言った感じである。
諏訪氏の一族、矢ヶ崎氏の城と言われ、天文年間(1532-54)矢ヶ崎和泉守がこの城によって武田晴信に従ったという。
諏訪氏が滅亡した後の城主等は不明であるが、上原城の支城として大門峠方面からの狼煙リレーの中継や軍勢の宿営地として使われたのではないかと思われる。

埴原田城(茅野市米沢)
「はいはらだ」と読む。鬼場城の北約1.5qに位置し、県道192号線「ビーナスライン」沿いにある「イオンタウン茅野」の北西側に見える山にある。
この城も鬼場城同様、永明寺山系の東の末端にあたり諏訪氏の本拠、上原城を守る支城の1つである。


埴原田の集落から見た埴原田城

城址の標高は889.7m、比高は約45m、位置は36.0159、138.1722である。城へは麓付近にある埴原田集落より少し高台にある「観音堂」@の裏を上がれば到達する。

山続きの北西側以外は曲輪を輪郭状に配置する構造であり、曲輪間は切岸で仕切る構造である。

麓近くの切岸は鋭く、高さがあるが、本郭付近の主郭部の切岸は低い。
曲輪は広く、居住性を持つ。

最高箇所の本郭直下約3m低く曲輪Bがあり、東西に低い土塁を持つ。
本郭Cは23m四方の広さで北西端部が土壇状となり、明神社の祠と埴原田小太郎の碑が立つ。
本郭の背後に堀切Eがあるが、鋭さはなくだらだらした感じである。
その先のもう1本の堀切Dは若干鋭いが、ここも埋没した感じである。

@城への入口、観音堂。この裏を登る。 A主郭部付近は段郭が重なる構造。 B本郭直下の曲輪は低い土塁を持つ。
C本郭北側は土壇状になり埴原田小太郎の碑が立つ。 D北西端の堀切 E本郭背後の堀切底から見た本郭の切岸。だらだら!

その先には平坦地はあるが、遺構は曖昧で山に続いていく。
この方面は避難路であろう。

居住性を有し居館を兼ねた城と考えられるが、防御性は劣る。
曲輪も広く、収容できる人員も多そうであり、軍勢の駐屯地、住民の一時避難場所としても使われたのではないかと思われる。
文明年間(1469-86)の史料に諏訪政満の弟、埴原田小太郎が城主と出てくる。
彼は大祝継満のクーデターで政満とともに殺害されたという。
その後、埴原田を誰が継承したのかは不明である。