干沢城(茅野市宮川)
諏訪盆地から杖突街道(国道152号線)が高遠方面に延びていくが、登り口の西にこの城がある。
杖突街道の諏訪盆地への出口を抑える城である。
それとともに諏訪大社上社前宮を守る城でもある。
諏訪盆地を挟んで北側約2qに諏訪氏の本拠、上原城が位置する。
規模は大きく全長約550mもある大型城郭である。
南から諏訪盆地内に突き出した半島状の尾根先端部が盛り上がった場所が本郭部であり標高は848m(35.9888、138.1366)、北下の国道からの比高は約80mである。
曲輪は主要な曲輪4つからなり、これらが南北に直線的に並ぶ。
北端部と東西の斜面は急である。
東西斜面には帯曲輪が構築される。
諏訪盆地を挟んで北側の山に位置する上原城から見た南側の山にある干沢城。 鉄塔が建つ場所がニ郭。その左手が本郭。 山の左手の道路は杖突街道、国道152号線。高遠からの出口を抑える城であることが分かる。 写真の一番下に写る道路が中央自動車道。 |
本郭@は一番南側に位置し、40×20mの広さ、内部の削平度は良好である。
北に腰曲輪が1つあり、二郭Bであるが、二郭−本郭間の東側斜面に竪堀Aが下る。
二郭は3段構造になっており、鉄塔が建つ。広さは約50m四方である。
二郭から三郭にかけて高度が若干下がって行き、両曲輪間には幅約10mの堀Cがある。
現状は箱堀状であるが、当時は薬研堀だったのでないだろうか?
三郭Dは55×30mと広い。
北下が四郭Eであるが切岸で区画されているだけである。
その北側は急斜面であり、小曲輪がいくつかあるが笹薮に覆われていて分からない。
一方、南端の本郭の南側は一気に高度が約15m下がるが切岸は緩やかである。
切岸の下は自然の堀切(堀底)Fになっている。
南側に配水施設が建つ。
しかし、本郭の切岸、高度差はあっても傾斜が緩いため、これでは防備には不安がある。
このため、配水場の南の尾根に出城である長林砦をG、H置き、背後を防備するが、曲輪、堀切は確認できるが、遺構は今一つメリハリに欠ける。
@本郭内部は平坦で広い。 | A二郭南端部、本郭の入口部から東下に大竪堀が下る。 | Bニ郭は3段からなり鉄塔が建つ。 |
C二郭の北、三郭との間にある堀。箱堀? | D三郭内部は平坦で広い。 | E三郭の北下の四郭。切岸の上が三郭。 |
F本郭の南下の鞍部は堀切状である。 | G長林砦の遺構は今一つ曖昧だった。 | H長林砦の北端部は堀と曲輪が明快だった。 |
上社前宮を守る施設として平安時代には築かれていたようである。
諏訪氏は政祭分離政策を取り、政治は惣領家が、祭祀は大祝(おおほうり)家が担当しており、大祝家が管理する城であった。
文明5年(1483)、諏訪大祝継満は諏訪惣領家を倒し、祭政の両権を握ろうとするが失敗、
高遠に逃れ、文明16年(1494)、小笠原政貞と高遠継宗の支援を得て諏訪に侵入、廃城になっていた西約1.5qに位置する武居城を再興して、干沢城の諏訪惣領家の軍勢と対したことが「守矢満実書留」に残る。
諏訪氏が武田氏に制圧された後も杖突街道の出口を抑える城として使われるとともに城域が広いため、軍勢の集合地、宿営地としても使われていたと思われる。
廃城は江戸時代に入ってからであろう。