武居城(諏訪市大字中洲)
戦国時代諏訪を領した諏訪氏の本城、上原城から諏訪盆地を挟んで南の山にある。
諏訪大社上社本宮の南東に位置する。
本郭にある解説板によると『諏訪大社上社本宮の守りの城として元徳元年(1330)、諏訪五郎時重が鎌倉幕府最後の執権北条高時の婿となり、山裾の武居平に居館を置き、背後に武居城を築いた。
ちなみに前宮の守りが干沢城である。


北の上原城から諏訪盆地越しに見た南の山の武居城。
下の平坦部が武居平、富士山型の山の頂上部が主郭部。
写真最下部の川は宮川。

しかし、正慶2年(1333)時重は鎌倉で高時とともに自害する。
その後の城主等は不明であるが、文明5年(1483)、諏訪大祝継満は諏訪惣領家を倒し、祭政の両権を握ろうとするが失敗、高遠に逃れる。
文明16年(1494)、小笠原政貞と高遠継宗の支援を得て諏訪に侵入、廃城になっていた武居城を再興して、干沢城の諏訪惣領家の軍勢と対したことが「守矢満実書留」に残る。

天文年間になると諏訪頼重の家臣篠原与三郎が上代となり、武田氏時代は諏訪大祝家が預かった。
武田氏が滅亡し、織田信長が本能寺の変で倒れ、織田軍が撤退し、諏訪が無人地帯となると、天正10年(1582)、潜んでいた諏訪頼忠が旧領を回復、その後は使用されなくなった。』と書かれる。

@山の中腹にある武居平は今は畑になっている。 A竪土塁状の尾根の末端部の堀切、右が通路兼用の横堀E B竪土塁状の尾根の上部から曲輪が展開する。
C本郭は公園化している。 D本郭背後は土橋状の尾根が南の山地側に続く。 E主郭部から東下に横堀状の竪堀が下るが、単なる登城路?

武居平から城のある山を登って行くが、途中までは今一つ、遺構ははっきりしない。
平場はあるのだが、非常に曖昧な感じである。
メリハリが効いた遺構は主郭部とその周辺部に限られる。
本郭Cには東屋が建ち、花壇があり公園化しているが、来る人はどれほどいるのか?一般の人が来るのには奥過ぎる場所である。
そこから北側、東側の斜面に段々状に曲輪が展開するが、段々で仕切られているだけ。
東に下る尾根は竪土塁状になっているが、明確な曲輪は主郭近くの上部のみB。末端部に堀切が1つAある。

本郭の西下、東下は自然地形であるが抉られた感じであり、巨大な堀切、竪堀のようである。
南側は土橋状に尾根が南の山中に続いて行く。
本郭の東下を東の林道まで下りて行く道があり、長大な横堀といった感じである。
その道の北側の尾根が竪土塁のようになっているが、尾根上には明確な曲輪はない。
道の末端部にはその尾根を断ち切る堀切がある。