大熊城(諏訪市湖南)
諏訪湖南岸、諏訪西中の東に見える北に突き出た標高は811mの丘36.0046、138.1046が城址である。
丘の北端に立つと諏訪湖を含めた諏訪盆地一帯が一望である。

北下を通る県道16号線からは比高約50mであるが、切岸は急こう配で鋭い。
南側の山に続く部分を中央道が分断し、南側の遺構は湮滅している。
丘の頂上付近直下を林道が半周して通り、さらに中央道をまたぐ「城山橋」を通り南側の山中に延びていく。
この林道の途中、中央道にかかる幅が広い城山橋上に十分に車が置ける。
車で城址まで乗り付けるありがたい城である。
・・であるが、城郭遺構は耕地化でかなり曖昧になっているため、遺構に気付かず城中心部を通り過ぎ、城山橋を渡り既に城域外である中央道の南側の丘をウロチョロしてしまった。

@本郭の土壇を南側の二郭から見る。 A本郭から見たニ郭、手前の農道が堀跡 B本郭(左)西側の堀、本来は7mの深さがあったという。
C二郭南側は中央道となり湮滅。城山橋がかかる。
橋の南側に遺構が一部残る。
D城址北端部は急傾斜。西方に遠く諏訪湖が見える。

本郭@は28×40mの広さであり畑になっている。
南側に高さ2mの土壇がある。
土壇上には伊勢宮が祀られる。

本郭の南から西側を横堀が回り、北側は竪堀となって丘を下る。
横堀Bは明瞭であるが、深さは3mほどしかない。
しかし、これは埋められたものであり、発掘の結果、7mの深さがあったという。
堀の西側には曲輪が2段あるが内部は畑である。
本郭の南に堀を介して25m四方の広さの二郭Aがあり、土塁が残る。

この土塁の南側には堀切があり、山続き部分を遮断する堀切があったが、中央道の車道となって湮滅している。
堀部は虎口のようになっている。
斜面部には竪堀と帯曲輪が確認できる。

諏訪一族千野(ちの)氏の城であり、武田氏が諏訪を支配した時も千野氏の城であったらしい。
武田氏が滅亡し、さらに本能寺の変で信長が死ぬと千野氏は諏訪氏復活の中心として活躍し、高島藩の重臣となって続く。

金子城(諏訪市大字中洲)
諏訪南中と湖南小学校のちょうど中間、宮川が大きく南側にカーブした下金子公民館のある一帯が城址である。
大熊城の里城のような位置関係にあり、大熊城の北東約700mにある。

一辺約300mの方形をしていたと思われ、宮川が水堀の役目を果たす。
かつては宮川は「きみいち保育園」の南東側に突き出たように蛇行しており、そこも城域であったが、現在は川の流れが変更され、この部分は真っ直ぐに修正されている。
完全な平城であり、城址一帯は宅地化し、遺構は確認できない。
道路跡が堀跡らしいが・・・。

@宮川橋から見た本郭(家が建つ場所) A宮川、溢れたら?

諏訪氏重臣で一族の千野(ちの)氏の城であり、武田氏の侵略を受ける前から、平時は平城であるここを政庁として使っていたという。
諏訪氏復活後、ここを政庁とにしようと整備する考えだったようだが、高島城を築城することとなり廃城になったという。

領内統治のための城としては平城が便利であるが、当時は宮川の湿地帯の中にあり、それなりの要害性はあったのではないかと推定されるが、一方では治水を行ったとしても宮川の氾濫というリスクがある。
これに対して高島城は諏訪湖の中に浮かぶ島のような場所であり、洪水の影響は少ないと思われる。
そのような違い、差で近世城郭への道が閉ざされたのかもしれない。
高島城築城のため、金子城の石材や建材が使われ廃城になったという。