桑原城(諏訪市四賀桑原)
高鳥屋城、水晶城の別名があり、長野県指定史跡になっている。
戦国大名、諏訪氏が滅亡した城である。

諏訪氏の本城は上原城であり、その支城として築城され、家臣が城代となっていたと思われる。
天文11年(1542)武田晴信(信玄)が諏訪に攻め入り、当主、諏訪頼重は本城の上原城に籠城するが、上原城を支えきれず、この桑原城に逃れ籠城した。
しかし、城を離れ城下の検分に行ったのを、家臣は殿が逃亡したと誤解し、多くが逃亡してし、ほとんど家臣がいなくなってしまい、降伏せざるを得なくなった。
そして、弟の大祝諏訪頼高らとともに甲斐府中に連行され、頼高と共に東光寺で自刃させられ、ここに戦国大名諏訪氏は滅亡、 桑原城、上原城とともに諏訪氏の領土は武田氏のものになった。
この諏訪頼重、評価は低い。
家を滅亡させてしまったので仕方ない面もあるが、武将としてはそれほど無能だった訳でもないと思われる。
ごく普通だったのかもしれない。しかし、何しろ、相手が悪かった。1枚も2枚も上手である。

その後、桑原城がどうなったかは分からないが、遺構がそれほど風化しておらず、上原城がそのまま使われているので、ここも管理されていたのではないかと思われる。

高島城から見た桑原城 左も写真と逆に桑原城から見た諏訪湖と高島城

桑原城は標高981m(諏訪湖湖面からは比高約210m)の山頂に本郭を置く山城である。
諏訪市役所の南東約2qの山にある。

結構高い山ではあるが、霧ヶ峰農場方面に向かう県道424号線で比高を稼ぎ、途中、脇から鉄塔保守用の林道兼登城道が東の山中に延び、それを利用すれば城の背後、標高930mの水場まで車で行けるのである。
そこから尾根に上がり、堀切@、腰曲輪を経由して東郭Aに登ればよいのである。
簡単なものである。
その他、登る道は幾つかあるが、こちらは延々と尾根を歩かなければならない。

@北に続く尾根から登って行くとこの堀切がお出迎え。 A本郭(右手)東下の東郭。 B東郭にある土壇、首塚というが?
C本郭(右)と二郭間の虎口を兼ねた堀切 D二郭内部、遠く諏訪湖が望まれる。 E本郭内部、周囲を低く土塁が覆う。上原城も見える。

東郭Aは標高970m、ここから南側に回り込み、本郭と二郭間の虎口を兼ねた堀切Cに入る。
深さ6m、幅17mの堀切の西側が二郭Dである。
ここの標高は976m、中央部に浅い堀がある。
二郭の西端からは北西側に高島城が見え、その向こうに諏訪湖が一望できる。
本郭Eは25m×33mでほぼ長方形、土塁が覆う。
東南方向に上原城が見える。

井森城(諏訪市武津)

諏訪市役所の南東約1qの山にある。

高島城から望む城址 @館跡?の御天上は畑と草原になっている。

870mの場所にある本城と南西約100mの標高821mの場所にある居館跡?の「御天上」と呼ばれる平坦地からなる。
御天上は90m×50mの広い平坦地で二段からなる。
現在は畑と草原になっている。
ここからは諏訪湖方面が一望である。しかし、茅野方面は見えない。

そこから北東側に登って行くと井森城である。

山頂部の径30mの主郭の周囲に高さ約2mをおいて段々の帯曲輪が3段ほど巡らすだけである。
その帯曲輪も主郭側は明瞭であるが、御天上側に行けば不明瞭になる。
どこかで畑跡と複合しているような気もする。
背後、北東側の山に続く部分にはセオリー通りなら堀切があるはずであるが、平坦地しかない。
堀切を埋めた形跡もない。

A本郭(左)南下の帯曲輪。 B本郭内部、平坦・・ただ、それだけ。
C本郭西下の帯曲輪、しっかり造られている。 D本郭背後は普通は堀切なのだが・・・

全体に非常に曖昧な感じの城であり、古い感じがする。
戦国後期には使っていなかったのではないだろうか。
伝承等は確認できない。

餓鬼山狼煙台(諏訪市武津)
井森城の南約200mの標高831mの餓鬼山にある。
井森城は少し奥に位置し、餓鬼山が陰になり、南方面の眺望が限られるが、餓鬼山は諏訪盆地に突き出た感じであり、盆地一帯から見え、狼煙台としては非常に良い立地にある。

↑井森城御天上から見た狼煙台、この山があるため井森城から茅野方面が見えないのである。
典型的な狼煙台であり、100m×50mの規模、径5mほどの狼煙台があり、周囲に帯曲輪が展開させる。

山の東側10m下に50m×30mの平坦地があり、そこに鎌倉古道が通っていたとの伝承がある。
その場所の東側の山にも段々が重なるが、これは桑畑の跡という。
狼煙台の曲輪とされる場所も桑畑に利用されていたらしい。

@狼煙台背後の平坦地、ここに鎌倉道が通っていたとか? A@から狼煙台を見る。直下に帯曲輪が1つある。
Bこれが狼煙台、ただの土壇であるけど C狼煙台の土壇から北に土塁が延びる。


高島古城(諏訪市上諏訪桜ケ丘)
別名、茶臼山城ともいう。
なお、この城も高島城というが、その名前は諏訪湖の湖畔にある高島城に引き継がれているので、区別するため便宜上、「高島古城」と呼ぶ。
JR中央線「上諏訪駅」から、諏訪湖の反対側、東に見える丘、茶臼山が城址である。
標高は850m、諏訪湖の湖面(759m)からは比高約90mある。

↑高島城から見た城址
しかし、この丘、一面、家などが建ってしまい。遺構はない。

この「茶臼山」、城跡というより、旧石器時代の遺跡としての方が有名かもしれない。
岩宿で旧石器が確認された後、この茶臼山で和田峠産の黒曜石を使ったナイフ形石器が確認され、旧石器時代の存在を確定したからである。

その丘に行ってみるが、主郭部は市営住宅及び配水場となっており、解説板があるだけである。
切通しのような道があるが、堀跡なのだろうか?
丘は北西から南東にかけて細長く、西側は諏訪市街地にかけて崖状であり、東側は谷である。
規模は約300m×150mである。
段郭主体の城だったようである。

西側の配水池が二郭だったという。 丘の最高部が本郭だが、市営住宅が建ち遺構はない。

諏訪氏の城として古くからあったが、歴史に登場してくるのは諏訪地方が武田氏の手に落ち、その支配拠点になった時である。
始めは上原城が支配拠点だったが、天文18年(1549年)正月には長坂虎房が諏訪地方の管理者になると、この高島古城へ入ったという。
『高白斎記』によれば、山本勘助が改修したという。

以後、高島古城の城代は虎房の後に吉田信生、市川昌房が務め、天正3年(1575)長篠の戦いで昌房が戦死すると、今福昌和が務める。
その間、高島古城が武田氏の諏配支配の拠点となった。
天正10年(1582)武田氏が滅亡すると、甲斐国と信濃諏訪郡は織田氏の家臣河尻秀隆が領し、諏訪郡には秀隆の家臣弓削重蔵が配置された。
同年6月の本能寺の変で信長が死ぬと、織田氏は撤退し、「天正壬午の乱」が勃発、その混乱に乗じ、諏訪郡は諏訪頼忠が支配する。
彼は平城の金子城(諏訪市中洲)を整備し、諏訪統治の拠点とする。
天正18年(1590)に諏訪頼忠は武蔵国奈良梨に転封となり、代わって日根野高吉が、高島古城に入城する。
日根野は文禄元年(1592)から慶長3年(1598)にかけて、諏訪湖畔村に現在の高島城を築き、移転し、この高島古城は廃城となった。

天神山城(諏訪市湯の脇)
高島古城から北西に延びる尾根を下って行ったその末端部にある。
尾根と言っても周囲は急坂で狭い。
そこを天神山といい、高島古城に登る道の物見を兼ねた関所城だったようである。

明確な遺構は確認できない。
しかし、この狭い場所に家が何軒も建てられているものである。
おまけに道も急カーブしている上、急坂、おまけに狭い。
対向車が来るとヤバイ!冬場、よくこんな怖いところに住めるものだ。

高島城(諏訪市上諏訪)
小学生の頃、親父と妹とここに来た。その時の写真がある。
それ以来の訪問だった。
何度もこの近くには来ているのだが、近世城郭には興味もなく、しかも復興天守じゃ・・ということでずうっとパスし続けていた。
今回、ちょっと時間があったので立ち寄った。
この諏訪盆地周辺には多くの城があるが、一般的には諏訪の城と言えばこの城であろう。

戦国時代の城ではなく、近世城郭である。
形式は連郭式である。
山国の信州では水城は珍しいがないことはない。
大町市の森城とか野尻湖にあった枇杷島城も水城と言えよう。

↑桑原城から見た高島城と諏訪湖、復興天守は木の陰になっている。

かつては諏訪湖に突き出した水城で「諏訪の浮城」と呼ばれていたが、江戸時代初めに諏訪湖の干拓が行われ、水城の面影は失われた。
浮城の異名を持っていたことから日本三大湖城の一つに数えられている。
金子城を本拠としていた諏訪頼忠は天正18年(1590)に武蔵国奈良梨に転封となり、代わって日根野高吉が、茶臼山にあった高島古城に入城する。

日根野は文禄元年(1592)から慶長3年(1598)にかけて、現在の地である諏訪湖畔に新城を築いた。
この場所には湖内漁業に従事する漁村があったが、それを移転させて築城したという。
戦闘用城郭ではなく、領主の権威を示すことと、藩経営を考慮しての築城である。
わざわざ湖畔に城を築いたのは街道を通し、城下町、宿場を造り、経済的利益を得ようとしたためであろう。

城は見せる城を意識し、織豊系の城を想定していたため、総石垣とした。
しかし、湖畔は地盤が軟弱であり、木材を筏状に組み、その上に石を積むなどの技術が用いられた。

それでも石垣が傷みやすく、度々補修工事を加える必要があったという。
7年間の短期間で築城したため、かなり無理をしたらしく、地元では「過酷な労役に苦しんだ」「石材を確保するため、金子城の石材は全て持ち出したほか、墓石、石仏も用いられた(転用石)」などの伝承が残る。

元された本丸冠木門 復元隅櫓 諏訪湖側に二の丸、三の丸が並ぶが今は住宅等が建つ。
高島公園越しに見た復元天守 南の丸は諏訪市役所になっている。

城は8棟の櫓、6棟の門、3重の天守などが建てられたが、慶長6年(1601)、日根野氏は下野国壬生に転封となる。
その後に、諏訪頼水が2万7千石で諏訪に復帰する。
ちゃっかり新城を手に入れた訳だ。
そして高島藩として、明治維新まで続いた。

現在、諏訪市役所になっている南の丸は、寛永3年(1626)に徳川家康六男の松平忠輝を預かることとなり、増設した場所である。
ここを幽閉場所とした。以降も南の丸は、幕府から預かった吉良義周などの流人の監禁場所として使用された。
使われなくなった後は薬草などの栽培場所となったとされている。

明治4年(1871)廃藩置県により高島県となり、城は県庁舎として利用され、明治8年(1875)天守閣等、ほとんどの建物が破却され、石垣と堀のみとなった。
明治9年(1876)高島公園として一般に開放された。
現在は二の丸、三の丸の跡地は宅地等になり、本丸部分のみが公園になっている。
昭和45年(1970)には天守、櫓、門、塀が復元された。
復元天守は鉄筋コンクリート造りで、可能な限り元の天守の形を踏襲している。
当時の天守は独立式望楼型3重5階で、初重を入母屋の大屋根とし2重の望楼がのせられた形状。
2重目の東西面に入母屋破風出窓、3重目には南北面に華頭窓をもつ切妻破風出窓と東西面に外高欄縁が設けられ、各所に華頭窓が用いられ、屋根は瓦葺ではなく檜の薄い板を葺く柿葺であったという。
現在の復興天守の屋根は銅板葺かで、内部は資料館となっている。
(WIKIPEDIA等を参考にした。)