有賀城(諏訪市大字豊田)
諏訪湖の南岸、諏訪からから山を越え辰野町方面に通じる県道50号線を登って行くと江音寺という立派な寺がある。
この寺の南の標高927mの「城山」36.0170、138.0807が城址である。

寺の南西端、諏訪氏家老千野家墓地裏から登る道があり、県道50号線を西下に見ながら山を登って行く。
寺からの比高は107m、結構が急坂でだらだら続くしんどい道である。
この坂の東側、南から江音寺に下る尾根に小さな曲輪が展開しているのが見える。
これらの曲輪群が明瞭になるのは尾根が若干東側に湾曲する地点からである。
ここにはUからXの4つの曲輪@〜Bが展開し、幅約15m、本郭からの深さ約7mの大きな堀切Cを介して本郭Dとなる。
この堀切Cは北下の江音寺まで竪堀となって下る。

最上部の二郭(U)Bは15×8mの広さがあり、東側以外を高さ約2mの土塁がコの字形に覆う。
一方、二郭(U)から五郭(X)までの西側斜面部を通路を兼ねた横堀が下り、本郭(T)と二郭(U)間の堀切と合流し、竪堀となって下るとともにさらに本郭の西側を回るH。
本郭CDは他の曲輪から独立しており、25×20mの広さ、北側以外を高さ約4mの土壇が覆う。
標高は927m、江音寺からは比高110mほどである。
なお、諏訪湖の湖面の標高は759mである。

この土壇の南側は深さ約8mの巨大な堀切Fである。
土壇は堀を深くするためでもある。
この堀切の南側は尾根が高くなって行き、堀切Gが2本存在する。
この方面は南の山中への退避ルートでもあろう。

@五郭(X)、ここから曲輪が平坦で広くなる。 A四郭(W)、二郭(U)まで段々状に曲輪が重なる。  B二郭(U)は3方を土塁が囲む。
C二郭(U)(左)と本郭間の堀切、先は竪堀となり寺まで下る。 D本郭内部、南側に土壇がある。 E本郭の土壇から見た本郭内部、結構狭い。
F本郭南側の堀切、深さ約8m。 G Fの堀切の南の尾根は2本の堀切で遮断される。 H Cの堀切は本郭西下で横堀と合流、さらに竪堀が下る。


↑ 本郭から見下ろした北西側に広がる諏訪湖、湖からの比高は約170m。街は下諏訪町。

辰野方面から諏訪に入る街道の出口部を抑える城である。
諏訪一族、有賀氏の城であるが、諏訪氏が武田氏に滅ぼされると武田氏に従うが、武田氏の反抗して滅亡、有賀城には原美濃守虎胤が入り、次いで千野(ちの)氏が入る。
武田氏が滅亡し、諏訪氏が復活すると千野氏は諏訪氏に従い一時関東に移封されるが、慶長6年(1601)諏訪氏が諏訪に復帰するに伴い、この地に帰る。
江音寺の地が有賀氏、千野氏の平時の居館という。