仙当城(長野県栄村大字堺)36.9643、138.5429
千曲川が長野県から新潟県に入る県境の村、栄村にある。
それほど大規模な城ではないが、城域の半分が堀というバケモノのような城であり、城マニアの中では評判の城である。
この城、熊が出るというので近くを通ったが、一人で行く気にならず敬遠していた。
ようやく2025年5月10日、「らんまる」殿の協力を得て攻略できた。
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この城の読み、「せっと」または「せんとう」という。地元は後者だそうである。
熊が出るというのでかなり奥地にあるのかと想像していたが、JR飯山線横倉駅の南南西約1.5qの標高454mの山にあり、かなり里に近い場所にあったのは意外であった。
二ノ入沢と大巻川に挟まれた南から北に延びた尾根にあり、北にある月岡神社からの比高は約170mである。
城に行くには車なら月岡神社に置いて、尾根北端から延びる遊歩道を行けばよい。
なお、この遊歩道は古道を利用したもので、その道が城内を通り、南に延びていく。
この城は関所城の一面も持つのである。
尾根先端からつづら折れの道を登って行くと、尾根平坦部に出る。
この尾根が既に城域であり、堀切@が2本確認できる。道も結構広いA。
| B曲輪W、曲輪内を古道が通り南側の横堀に下って行く。 | C曲輪Wの東端、北に竪堀が下る。 | D本郭と曲輪W南下の長大な堀、残雪が氷河のようである。 |
| E本郭に繋がる土橋、北側(左)に竪堀が2本下る。 | F本郭内部は平坦、低い土塁が南側を中心に覆う。 | G本郭から南東側の曲輪Uを土橋(右)が結び、東下 に堀底竪土塁を持つ巨大な竪堀が下る。 |
ここを過ぎると登りになりWの曲輪Bである。40×21mの広さ、東端に大きな竪堀Cが北に下る。
その南側には長さ約180mある巨大な横堀状の長大な竪堀Dがあり、Wの中を通る古道はこの堀を横切り、城の南側を通る。
この竪堀はJ型にカーブしており、曲輪Vの西側部分では障子堀Hだったように見える。
一方、曲輪Wから土橋Eが本郭Tに延び、北側に竪堀が2本下る。
しかし、土橋は本郭の切岸で行き止まりとなる。
本郭には梯子で登ったか、北に迂回し、曲輪UMを通り、本郭の東側の曲輪を経て入ったと思われる。
本郭東下の曲輪は曲輪U側に土塁と虎口を持ち、竪堀が東に下る。
本郭Fは35×45mの広さ。南から西を低い土塁が覆う。本郭からは南に土橋Gが延びる。
土橋は約18mの長さがあり、東に巨大な竪堀が下る。
| H Dの堀の最上部、障子掘のような凸凹がある。 水溜め? |
I Hの場所の南側に土橋があり、その南で堀がカーブする。 | J Iの東側、曲輪Vの南を覆う横堀。 |
| K曲輪Vの南の土橋、ここが城の末端。 ここから先に古道が延びる。 |
L曲輪Uから東に下る竪堀。 この下に畝状竪堀群がある。 |
M本郭から見下ろした曲輪U、切岸の高さは約5mある。 |
堀底には竪土塁がある。
土橋を渡った場所が曲輪V、40×28mの広さ、本郭より若干高い。
東に竪堀が下り、南側は土塁が覆い土橋がある。
土橋の南に迂回した古道が合流し、南Kに延びて行くが、平坦で広い道である。
ここを行くと雨引城方面に通じると思われる。。
一方、最南端の土橋からは西に横堀Jが曲輪Vの南側を覆い、さらに2つに分岐Iして西下に下る。
一方、本郭北下約5mに曲輪UMがある。本郭からは東下の帯曲輪に下り、土塁間の虎口から通じる。
その虎口と曲輪Uの間から東に竪堀Lが下り、その下に畝状竪堀群がある。
この城はこの地の土豪市河氏の居館が箕作にあった頃、その詰めの城として築城されたと言われる。おそらく当時は簡素な城だったのであろう。
市河氏は戦国後期、武田氏に下る。その調整をしたのが「山本勘助」と言われる。
市川氏は、その後、木島平に拠点を移し、この地は上杉氏が支配する。
その頃、仙当城が拡張整備されと思われる。
御館の乱の頃、北条氏の依頼で上杉景虎を支援する武田勝頼の越後への千曲川ルートでの侵攻に備え、今井城、赤沢城、雨引城、城坂城とともに整備したものと推定される。
武田氏が滅亡すると市河氏は上杉氏に従属し、この地も再び領したようであり、市河氏が再度手を入れた可能性もある。
廃城は市河氏が上杉に同行して会津に去った時であろう。