真山城(中野市間山)36.7067、138.3825
盟友、らんまる氏の同行を得て2025年4月5日に攻略した。
長野電鉄中野市駅の南南東約4.5q、中野市の南東端にあたる間山地区にある。
この地区に日帰り温泉「ぽんぽこの湯」(36.7098、138.3863)があるが、その西に見える山が城址である。
山頂の標高は692mである。

↑ぽんぽこの湯から見た城址、比高約150m。左のピークが本郭、右に延びる尾根が北尾根曲輪群
ぽんぽこの湯からはすぐ手の届きそうな山なのだが、ここに行くのは厄介である。
だいたい道がないのである。

おそらく大手は北端の山神社の祠(36.7117、138.3807)裏から北尾根を登るルートと思われるが、ここからの比高は230mもある。
水平距離も約600mある。
しかも、結構藪化している。
でも、神社のすぐ上が段々状になっており、ここから曲輪が展開している。
電気柵があり、そこの扉を開け登って行くことになる。
←北尾根先端の山神社(右の建物)ここが大手らしい。すぐ腰曲輪が展開する。
もう1つのルートはぽんぽこの湯からである。
この標高が542m、比高は約150m。
山神社の祠から登るよりは比高は稼げる。
しかし、明確な道はない。
しかも、深い沢がその間にある。

ぽんぽこの湯から登るには西側の沢沿いの道に下り、南に向かうと沢を越える橋があり、ここの電気柵を突破、さらに南に行き、城址北尾根に取りつくか、その南側のU字形の緩い沢を上がる。
36.7067、138.3853の位置である。水平距離は約250m、比高約130mを登れば城址である。
しかし、このルートもきつい。
信州のごつい山城、甘くはない。
今回、このぽんぽこの湯からのルートで登った。

城は山頂の主郭から東西南北、4つの尾根十文字形に張り出し、4つの尾根に曲輪が展開する。
南側から派生する尾根のピークが主郭なのだが、南側の鞍部、南尾根曲輪群からは比高が約40mあり、ほぼ独立した山に城がある感じである。

4本の尾根のうち、もっとも長い北尾根に曲輪が濃密である。
ほぼ自然の山であるが、藪はきつくない。
高い木が多く、日光を遮っているため下草が少なく、すっきりしていて比較的歩きやすい。
藪がきついのはどちらかというと麓に近い部分である。

南尾根は南側の山との鞍部に展開し、堀切は@、Aの2本に過ぎない。
堀切@の南は登りとなり、その先、標高899mの場所(36.6995、138.3809)に坪井城がある。

@南尾根最南端の堀切。西側に片竪堀が下る。 A南尾根の本郭直下の堀切。 B本郭(左)東下の堀切、深さ約6m。
C本郭内部 D Bの東側の堀切、ここから東尾根曲輪群が展開する。 E本郭周囲には大きな石があり、切岸は石積みだったようだ。

主郭部までの切岸は急こう配である。
主郭Cは25×7mの広さ、東側に低い土塁があり、その東に深さ約6mの堀切Bがあり、曲輪を介し、堀切Dがあり、段々状の曲輪が続く東尾根曲輪群となる。
一方、主郭の西下約3mに腰曲輪があり、西下に西尾根曲輪群が続く。
この腰曲輪からは南に竪堀が下る。主郭側切岸と腰曲輪の切岸には石が見られE、石積みであったようである。腰曲輪から約6m下に堀切があり、ここから北に北尾根曲輪群が展開するが、しばらくは何の遺構もない。
遺構が現れるのは、主郭より比高60m下の標高630m付近からである。

この付近から尾根の勾配は緩くなり、曲輪が展開するが、どの曲輪の切岸にも石が見られ、石で土留めされていたようである。
標高624m付近には大きく抉れたような窪みFがあり、西側が開口する。どうやら竪穴式の建物があったような気がするのだが。

北に下って行くと堀切があるが、ここにも石による土留めが見られる。
標高600m付近では尾根はフラットになりG、堀切Hが北尾根曲輪群の末端となる。
この場所は主郭から水平距離約330m、比高約90mである。
ここをにしばらく遺構はなく、山神社の南側、標高500m付近に大手曲輪と考えられる曲輪が見られるようになる。

F北尾根にある片堀切のような遺構、竪穴式建物があった? G北尾根は広く傾斜は緩やかである。 H北尾根曲輪群末端の堀切。切岸は石積みである。

真山氏の城と言われるが、高梨氏一族という説と諏訪氏の一族という説があるが、おそらく前者と思われる。
高梨氏は戦国期は小館や鴨ヶ嶽城のある現在の中野市中心部に移るが初期はこの間山地区に本拠を設けていたらしい。
そこを守る城だったと思われる。
弘治3年(1557)武田氏により高梨氏は越後に追われ、城は武田氏に従う伊藤右京亮が城主となるが、武田氏が滅亡し、上杉領となると伊藤氏は帰農したと言われる。
戦国時代街道は千曲川沿いの低地ではなく、城の西側の谷を通り、間山峠を越え、高山に下りたといい、川中島に進軍する上杉軍はこのルートを通ったという。
こんな山道を通るのは今では信じられないが、当時としては重要な街道であり、真山城はこの街道の西側に位置する小曽崖城とともにこの街道を抑える役目があったと思われる。
(宮坂武男「信濃の山城と館」を参考)

間山館(候補地)
(中野市間山)36.7144、138.3836

北信濃の国人領主高梨氏は中野の小館に住み、鴨ヶ嶽城を詰めの城にしたが、それは永正年間(1504-20)のことである。
それまでは南の間山に長い間、居住しており、木曽義仲に従い活躍し、南北朝時代は北朝側について勢力を拡大、さらに越後長尾氏と提携し、中野氏、市河氏が支配していた中野を制圧して本拠を移した。

で、課題はそれ以前、間山のどこに居館を構えていたかである。
いくつか、候補はあるが、実際、どこだったか確定的な場所が分からないのだ。
ここで紹介する場所もその1つである。場所はぽんぽこの湯の北西700m、山神社の碑がある場所の東側の台地上である。遺構などは確認できない。