亀山城(松本市梓川北条) 36.2174、137.8400
上高地への入り口、梓川の北側、旧梓川村に「城山」(946)にある。
山の名前が示すようにそこが西牧城である。
別名、北条城とも言う。
↑東側、西牧氏の居館があった「於田屋館」跡付近から見た亀山城
城山の南の山麓に金松寺があり、その北の山が西牧城の支城の亀山城である。
亀山城から尾根を登って行くと西牧城である。
西牧氏の平時の居館、「於田屋館」は金松寺の東側にあったといい(耕地整理等で湮滅)亀山城は緊急時に西牧城に避難する際の中継所でもある。
金松寺からまず亀山城に向かうが、電気柵を開けて入る。
道は山の西側斜面に付いてはいるのだが、里に近い部分が分からなくなっている。
ともかく、適当に寺の北の山に登れば、すぐに亀山城である。
この名前、上から見れば亀に似ているからだとか?
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B二郭内部、西側に土塁がある。 | C 城北端の堀切。ここを過ぎると西牧城へ通じる。 |
主郭部の標高は806m、金松寺が770mなので比高は36mである。
2つの曲輪からなり、南側が本郭@、72×37mの広さがあり、曲輪内は平坦、部分的に土塁があり、土塁の痕跡も見られる。
本来は北側の二郭側以外の3方向をを土塁が覆っていたようである。
1.5mの段差Aをおいて北側が二郭である。
34m×26mの広さがあり、曲輪内は非常にきれいである。
西側を土塁Bが覆う。
おそらく西下の道が登城路だったのだろう。
二郭の北側に緩い斜面があり、その北に堀切Cがある。
なお、西側のみ二重堀切構造である。
この先、北側は尾根が登りとなり、約800m進めば西牧城である。
亀山城からの比高は約140mある。
西牧城(松本市梓川北条) 36.2231、137.8401
亀山城から北の尾根を西牧城に向かうと横堀や平場があるが、堀以外はほとんど自然地形である。
尾根は藪化してきており、満足な道もない。
この800mの藪の中の登りは結構時間がかかるし、疲れる。
それに「熊」が出るらしいのである。
これが一番疲れる要因である。
↑ 東側、西牧氏の居館があった「於田屋館」跡付近から見た西牧城、写真左端側に亀山城がある。
山麓のこの付近は西牧氏が経営する牧場があったと思われる。
西牧城へ向かう尾根を登って行くと、途中、標高838m、36.2195、137.8410地点に東西2本の竪堀I、Jに囲まれた部分が現れる。 非常に変わった構造であるが、城郭遺構と思われる。 登って来た尾根はけっこう広く、勾配も緩やかであるが、ここで尾根上の通路が狭まり、通路が一気に狭まる。 西牧城の木戸があった場所なのだろうか? 東西両方の堀とも幅は約5m、下側では斜面側に下って行く。 東側の堀の途中には堀底に石垣があるが、これは何だろうか? |
I尾根西側を南に下る竪堀 | J尾根東側を南に下る竪堀 | K東側の堀の底には石垣があるが・・これは何だろ? |
北に続く尾根をトボトボ登って行くと横堀@が現れる。
ここからが西牧城の城域である。
しかし、その先は緩やかな斜面Aが続くだけである。
この配置は伊深城と似る。
そして堀切Bが登場、ここから主郭部である。
南西下の帯曲輪から入った本郭C、40×25mの広さがあり、整地は良好、全周土塁Dが覆う。
西下を覗くと定番の大堀切Eである。
深さは約8mか、降りるのが怖い。
その西側が二郭F、ここは小さい。さらに西側に堀切Gがある。
一方、本郭の北東側にも大堀切がある。
西側の堀切と同規模か。
その先、北東の尾根と一段、東に下がった尾根にも曲輪が展開するが、工事量が主郭部に比べると小さくメリハリに欠ける。
ここを下ると若宮八幡宮方面に着く。こちら側が搦手であろう。
@ 南尾根を分断する横堀状堀切。ここからが城域である。 | A @を過ぎても主郭部までの間は緩斜面が続くだけ。 | B Aの北、ようやく堀切が現れる。ここからが主郭部である。 |
C本郭内部、全周を土塁が覆う。 | D本郭内部は広く平坦である。 | E本郭西下には定番の大堀切がある。 |
F Eの堀切の西側が二郭となる。 | G 二郭の西側の堀切 |
城主は滋野氏の流れを組む西牧氏という。
真田氏とは同じ系列である。
馬の生育を本業とし牧場を経営しており、それが西牧という姓の由来という。
もともと牧畜のノウハウを有した一族である。
鎌倉時代にここに住むようになり、武家ではあるが、牧場を経営して生計を立てていたようである。
西牧氏は南北朝時代は諏訪氏とともに南朝側につき小笠原氏とも戦ったが、後に小笠原氏に従属する。
武田氏の侵略の手が延びるとその下に属する。
しかし、武田氏が滅び、小笠原貞慶が松本地方を回復すると、父、小笠原長時を裏切り没落させた一族として復讐に燃える貞慶により血祭に上げられてしまう。
(宮坂武男:信濃の山城と館を参考にした。)