伊深城(松本市伊深岡田)36.2874、137.9774
松本城の北約6q、国道143号線を北上すると正面に標高914mの「伊深城山」が見える。
「城山」という名前の通り、この山が伊深城である。


↑南下から見た城址、鉄塔左の森が若宮八幡宮、ここから登り道が延びる。

← 南側、早落城から見た城址。山頂の主郭部の段々が確認できる。
 右下の伊深集落が根小屋地区、少し斜面を登った場所に居館があった。

 下に見える道路が国道254号線、右に進めば丸子方面に行ける。

この山の南下で東方向に国道254号線が分岐し、ここを東に行くと三才山トンネルを過ぎ丸子、上田方面に行ける。
一方、北に国道143号線を進めば、会田、麻績を抜けて長野市方面に通じる。
また、明科、大町、白馬方面にも通じる。
そのような交通の要衝を抑え城である。

城山は麓の集落の標高が約720mなので比高は約190mである。
城には南の麓にある若宮八幡宮(36.2847、137.9786、標高767m)から道が付いているのでここを進めばよい。

しかし、この道、整備されてはいないようであり、倒木が多く、それを乗り越えながら登って行くことになる。
倒木を迂回しようとすると今度は棘のある野バラ等が生えており閉口する。

山頂に近づくと東に派生する尾根に段々状の小曲輪群@が展開する。
しかし、そこは篠竹が密集していて非常に分かりずらい。

そこを過ぎると約60mにわたり広く緩やかな斜面Aとなるが、この斜面には曲輪等はない。
そしてようやく堀切Bである。土橋がある。
そこからが主郭部である。
主郭部は60×40mくらいの広さである。

@主郭部南東尾根の曲輪群だが・・笹薮で分からん! A @の曲輪群と主郭部間の南東尾根には何もない。 B Aの最上部の堀切、ここが主郭部の入口である。

主郭部は数段の平坦地からなる。
曲輪の平坦度は良好であり、曲輪の縁部の各所は石垣で補強されている。

↑ 曲輪の縁は石垣で補強されている。写真は本郭西側縁部の石垣。
本郭の約8m下が二郭Cである。
17m四方の広さがあり、2段構造になっている。
ここは桜が植えられ整備されていたようであるが、倒木等があり、現在ではあまり管理されていないようである。

二郭を西側に回り込んで登ると本郭Dである。
30×15mの南北に長い楕円形をしており、北端に土壇があり、曲輪内部は2段になっている。
曲輪の縁は石垣が回っている。
土壇の背後を覗き込むと、北側下におなじみの巨大堀切E、Fである。

C本郭下の二郭は広い。おりから4月、桜が満開。 D本郭内部は2段構造、北側に土壇がある。 E本郭土壇から覗き込んだお馴染みの背後の大堀切。

深さは約7m、二重堀切になっており、20m近い幅がある。まるで谷である。
さて、この二重堀切に降りようとするがちゃんとした道がない。
東側に二郭から行く道があったようだが、消失している。

しょうがないから西から北に回り込んで向かうが、途中に竪堀があってここを通過するのが怖いこと。
400年以上も前の竪堀、今だに機能は現役なのである。

堀底から見上げる本郭は迫力ものGである。
この堀切の先は北に尾根続き、少しづつに下り、4本の堀切Hがあるが、藪が酷く十分に確認できない。

F 本郭北下の堀切は二重堀切になっている。 G 二重堀切越しに見上げた本郭の切岸。
 石垣で覆われていたようである。
写真では迫力が出ない。
H北に続く尾根筋にはまだ堀切が続くが、藪でよく分からない。

一方、主各部から南西にも尾根が延びる。
曲輪等はないが二重堀切がある。
その先に緩やかなピークがあるが、山頂部は不整地である。
ここも物見として使っていたのだろう。

小笠原氏家臣の後庁氏が城主だったという。
天文19年(1551)、武田氏の攻撃で没落、その後、武田氏家臣小宮山織部が城主となるが武田氏没落後は真田昌幸に属し上田城に入ったという。
城は松本を奪還した小笠原貞慶の持ち城となった。
廃城は江戸時代初頭であろう。
(宮坂武男:信濃の山城と館を参考にした。)

早落城(松本市岡田)36.2778、137.9853
「早落」・・・酷い名前である。
あっという間に落城?というような縁起でもないような名前である。
しかし、実際、天文19年(1551)武田氏の攻撃であっという間に落城したのでこの名が付いたともいう。
冗談かと思ったが、どうもそうでもないようである。

多分、落城というより攻撃を受け、パニック状態になり城兵が逃亡し、放棄状態となり、自落したということなのだろう。
一応、「はやおろし」と読むのだそうである。


↑ 北側、伊深城直下の若宮八幡宮から見た早落城。

← 西側県道284号線から見た城址。南端部は桜が咲いている。南側から登れば早く落とせる。

伊深城の南約1.5q、県道284号線の東の南北に細長い尾根状の山が城址である。
東下を女鳥羽川が流れる。
標高は775m、西側は急斜面である。
女鳥羽川が標高690mなので比高は85mある。

山の北端部、住吉神社付近からも登れるが、洞集落の中を通り、城址のある山の南端の鞍部(位置は36.2759、137.9859)を通る道脇にに車を止めて、ここから山を北に向かえば、5分程度で本郭である。
ここの標高は735mなので最高位置の本郭までは比高約40mである。このルートが一番効率的である。

城は典型的な直線連郭式であり、南北に細長い山を7本の堀切でこれでもか、これでもか、という位しつこく堀で分断している構造である。
各曲輪の幅は10m程度に過ぎない。
全長は約300mである。

それほどの兵も置けず、南方向は尾根も広く緩やかであり、この方面から攻撃されれば弱いと思われる。
松本の北を守る城であり、浅間温泉の地にあった赤沢氏館(本郷小学校の地)の館主、赤沢氏の城だったらしい。
(宮坂武男:信濃の山城と館を参考にした。)

@本郭南側の堀切 A山の最高箇所が本郭なのだが狭いうえに藪である。 B本郭北側の堀切。
C南から4本目の堀切。 D6本目の堀切の先に細長い曲輪が展開する。 E最北端7本目の堀切。ここから北は下り尾根に曲輪が展開。
←早落城から見た南西方面、梓川上流方向。
 左側が松本市街地。
松本城天守閣が見えるはずだが、高いビルに遮られて見えない。

右から延びる尾根が犬甘(いぬかい)城。
さらに上の右から延びる尾根に西牧城がある。
その左側の山に波田山城がある。


茶臼山城(松本市浅間温泉)36.2671、137.9875
浅間温泉の北の山にある茶臼山配水池の南側のこんもりとした岡が城址である。
早落城の南約1qに位置し、標高は726m、女鳥羽川からの比高は約75mである。
麓からは県道454号線が北東の三才山方面に延びており、車で行ける。
この岡、周囲より約7m高く、直径は約40mである。

周囲に堀があったようであるが、かなり昔に湮滅したという。

付近は公園になっており岡の上は平坦で展望台になっている。
ここからは松本市街が一望である。
西の女鳥羽川が流れる低地を挟んで西側には犬甘(いぬかい)城が見える。
かつても同じ風景が望まれ、規模からしても物見台である。

解説板があるが、それがなければとても城とは思えないくらいである。
麓に館を構えていた小笠原氏家臣、赤沢氏の城であり、初期には詰めの城だったと思われる。
戦国期は北に位置する稲倉城の支城となっていたと言う。
(宮坂武男:信濃の山城と館を参考にした。)