岩原城(安曇野市堀金岩原)36.3094、137.8311
安曇野こと松本地方には気合の入った戦国の山城が多いがこの岩原城もその1つである。
こんなに評判高い戦国城郭が多いのは、この地が武田氏が小笠原氏を侵略した現場だからである。
城が命を守る施設であるため、気合いが入る。当然ながら城は堅固なものになる。
城は古城山(953)にあり、東の山麓は「国営 アルプスあずみの公園」になっている。
この公園、北と南のエリアからなるが、その2つのエリアの間にある西側の山に入る道を進む。
「堀金霊園」36.3083、137.8374(標高716m)を目指せばよいのである。
↑ 東の山麓から見た岩原城(中央部のフラットな部分)、右の雪山は常念岳
そこに墓参り客用の広い駐車場がある。
城への登り口は林道をさらに進んだ場所にあり、そこまで車で行ける。
駐車ができるスペースもある。
・・と、その前に堀金霊園の西側に石垣が見えるのである。
城の石垣とそっくりである。
この石垣、ここにあった「常楽寺」36.3087、137.8367というお寺のものという。
この寺、明治初期の廃仏毀釈で廃寺にされてしまったという。
とは言え、城そっくりの見事な石垣である。
おそらく、もともとはここが岩原城の麓居館であり、岩原城の廃城後に寺が置かれたものと思われる。
↑安楽寺跡の石垣、やはり城郭に見えてしまうのだが・・・
さて、岩原城であるが、林道を少し登った36.3087、137.8342、標高779m地点から山道を行く。
山頂までは直線距離で約350mであるが、比高は約174mある。
この道、ジグザグに折れ、地形が複雑なので結構きつい。
それでも地元が結構整備していてくれている。
この道の整備はさぞ大変だろう。感謝しかない。
山道の途中に平坦地@があるが、これは斜面に段々と重なる腰曲輪である。
尾根に出ると若干傾斜は緩やかになるが、尾根の北側を覗くと、大きな堀切Aがある。
斜面部は竪堀となって下る。
この堀切より北東側に延びる尾根にも曲輪群があり、北下の山神社方面に下れる。(その道は現在、消失してしまったと麓の人が言っていた。)
山頂部に向かうと小さい曲輪Bが何段にも重なる。10か11位ある。
@遊歩道途中の平坦地は斜面部の曲輪の一部である。 | A尾根上に出ると北下に深い堀切がある。 | B主郭部に続く尾根を登って行くと小曲輪が連続する。 |
そして堀切Cがあり、その南西側が主郭部である。
主郭部は3つの曲輪からなり、本郭の約7m東下の曲輪Dを経由して本郭南側の帯曲輪を経て本郭Eに入る。
本郭は22×14mの広さ、西側に土壇がある。
C主郭部東下の堀切、ここからが主郭部である。 | D本郭東下の曲輪から見た本郭。 | E本郭には解説板が立ち、眺望は抜群である。 |
本郭からは安曇野が一望である。
目を北西に転じれば常念岳がそびえ立つ。絶景である。
↑ 本郭から見た北東側、安曇野市方面 ←本郭から見た北西に聳える常念岳(左)と大天井岳とその奥に燕岳(右) |
本郭の土塁の後ろは深さ10m以上、幅約20mある大堀切Fである。
この堀底に降りるのがまた大変である。
堀切の先にはさらに3本の堀切Gが複雑に配置され、その先、南西側は一転してフラットな緩い斜面Hが100mほど続く。
ここまでは急斜面ばかり、いきなり平坦な場所が現れるのは意外な感じである。
F本郭背後の大堀切、ここまで降りるのが・・・ | G Fの背後には堀切が連続する。 | H Gの堀切群の南側には緩やかな平坦地が広がる。 |
そしてその末端のピーク上が曲輪Iになっており、南下に2本の堀切Jを配置する。
末端の堀Kは深さが約5m、ここが城の南端である。
I南端のピーク上、良好に削平されている。 | J Iのピークの南下の堀切。 | K城最南端の堀切 |
城主は仁科氏一族の堀金氏であり、大永年間(1521〜27)頃の築城と言われる。
武田氏が小笠原氏侵略を開始すると、堀金氏はいち早く武田氏に従属し、平瀬城攻撃等に従軍し、それらの戦功により千国の地頭職を得ている。
しかし、永禄10年(1567)頃、失脚し、当主平太夫盛広は越中に逃れたという。
堀金氏失脚後は武田氏の城代が置かれ整備が継続されていたようであり、武田氏滅亡の頃まで使われていたと思われる。