藤沢城(伊那市高遠町藤沢御堂垣外)
蛇山城ともいう。
伊那市高遠から国道152号線、杖突街道を杖突峠方向に走行すると、藤沢地区御堂垣外集落の北側に山頂部付近の木が刈られた目立つ山がある。
下の写真は南側から見た城址である。山の上が木が切られている。

これが藤沢城である。
城は北から南に延びる尾根末端の盛り上がり「蛇山」に主郭を置く。
ちょうど南に突き出て先端部が蛇の頭のように太くかつ高くなっているので「蛇山」という名が付いたのではないかと思われる。
標高は1032m、御堂垣外集落の標高が950mほどなので比高は80mほどである。

国道沿いに小さい案内表示が出ており、その脇に数台の車が止められる場所がある。
そこから西に向かい、杖突川にかかる橋を越え、ひたすら山を目指す。
山の斜面は急坂であり、ジグザグに道がついている。少し疲れたころ、10分弱程度で尾根の鞍部に出る。

ここから尾根沿いに南に向かうと主郭部である。(帰りに尾根北側に堀切があるかもしれないと思い、進んでみたが、何もなかった。)
尾根の末端部が盛り上がり、尾根鞍部からは20mほど高い。

山頂部には土塁に囲まれた20m×10mほどの小さな本郭@があり、その南Bと北側Aにそれぞれ2,3条の堀切を入れ、小さな曲輪を2,3置いているだけのごく一般的な直線連郭式のシンプルかつ、小さな城である。

全長も80mほどに過ぎない。
しかし、ここからの眺め、素晴らしい。杖突街道が北から南まで見通せる。

さらに東下で、松倉峠(金沢峠)方面、北東からの道が杖突街道と合流している。
交通の要衝で、街道を監視する城である。
この規模では居住性はまったくない。
街道監視と狼煙を上げるだけの役目の城であろう。
当然、居館は山の麓にあった。

城主は、諏訪氏一族の藤沢盛景という記録があるが、かなり古い時代から城は存在していたものと思われる。
藤沢氏が武田氏に駆逐されると、武田氏の家臣の城となった。

天文18年(1549)には保科正直が居住したとも伝えられている。
天正10年、高遠城が織田軍に落とされ、織田軍は杖突街道を北上したものと思われるが、こんな小城では何の役にも立ちそうにもない。
おそらく高遠城からの敗残兵を収容し、北方に逃し、狼煙を上げて襲来を伝達後、放棄したのではないだろうか。
なお、高遠城は本能寺の変後、保科正直が奪還するが、彼は高遠城落城後はこの付近に潜伏していたのかもしれない。
ちなみにその子孫が、あの会津松平氏である。

@土塁に囲まれた本郭内部 A北側の堀切から見上げた本郭部 B本郭南の堀切 C本郭から見た杖突街道。
 先が高遠の町である。