麻績古城(虚空蔵山城)と麻績城(麻績新城)及び居館(長野県麻績村麻)
2019年11月23日、勤労感謝の日に「らんまる殿」の案内で訪問することができた。
比較的、車で直下まで行けるのが麻績古城あるいは虚空蔵山城と呼ばれる城である。
こんなに近くまで車で行けて、豪快な遺構に会えるのはコストパフォーマンスが高い。
でも、豪快な遺構、それが危ないキーワード、防御力満点ということである。
すなわち危険ということである。甘く見たら死ぬこともありえる。
↑南東側上信越自動車下から見た麻績古城、新城及び狼煙台
麻績村中心地、JR中央線(篠ノ井線)聖高原駅(標高622m)、長野自動車道麻績ICそして村役場のある北の山裾、標高671mに法善寺がある。
ここから少し北に入ると谷津部に標高700mに観月苑の駐車場がある。
ここから北の谷筋を登る道が延びる。
この道を5分ほど行けば既に麻績古城の城域である。
比高30mほど登ると、山道は堀切@に出る。竪堀が通路になっている。
ここの北に岩場Bが聳える。そこまでの間に小さな曲輪がいくつかある。
岩場の上が本郭Dである。
しかし、どうやって登るのか?高さは7mほどある。ロッククライミング?
よく見ると、岩場にロープがあり、それにしがみついて登ると本郭直下の曲輪に出る。でも怖い!。
@駐車場から登ると5分でこの堀切に出る。 | A@の堀切を南に行けば、この曲輪の先に物見台がある。 | B本郭直下の巨岩、本郭西側、南側は巨岩が囲む。 |
CBの巨岩の間をよじ登ると石積の本郭虎口に至る。 | D本郭内部は周囲と違って平坦、北側、南側を土壇が覆う。 | E本郭西側には腰曲輪が存在する。 |
F本郭北下の大堀切の堀底 | GFの堀切を越えると二郭が展開する。 | Hニ郭の北にまた巨大堀切が。ここは二重堀切。 |
石積で補強した虎口Cを入ると本郭Dである。
ここの標高は776m(36.4637、138.0447)、北の山(標高943m、36.4678、138.0453)の麻績新城がある山から南に延びた尾根末端が盛り上がった場所である。
本郭は径35mほど。周囲が岩とは思えないような平坦さである。
西側に腰曲輪Eがあり、北側をU字形に高さ3mほどの土塁が覆う。
この土塁上に立って北下を覗くと、そこは谷、いや深さ15mの巨大堀切Fである。
そこまで降りるのがまた、大変である。何しろ怖い!
いずれにせよ。この城の本郭はどこから登ろうが、降りようが大変なのだ。遮蔽された空間である。
ともかく堀底まで下る。堀底から本郭側を見上げると覆いかぶさるような迫力がある。
堀切の北側は約60mに渡り、幅15mほどの2段の曲輪Gが「く」字形にあり、土塁が北端にある。
その土塁上から北を見下ろすと深さ15mの2重堀切Hがある。
その北側は麻績新城への登りの尾根となる。
一方、登って来た堀切の底から南に向かうと細長い曲輪Aの先に岩だらけの場所がある。
ここから聖高原駅方面が良く見える。物見台であろう。
さて、古城から新城までは比高が184m、かなりの急斜面である。
これをまともに登ったらとんでもない体力と時間のロスである。
このため、法善寺の西側、西沢川沿いの道を北山方面に登る。
すると新城のある山の西側に出る。ここに新城の搦手口の案内板がある。
ここの標高は800m、若干、高さを稼いだことになる。
ここから新城のある山の北の沢を東に回り込んで、新城の東の標高889mの鞍部に出る。
このルート、歩く距離は少し長いが、傾斜は緩やかなのが利点である。
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新城と狼煙台間の鞍部北下、標高850m付近に緩く傾斜した広い空間があるが、ここは小屋があったのか、住民避難スペースだろうか?
北向きなので日当たりは良くなく、じめじめした感じの地である。しかし、水には不自由しない。
水場であることは間違いないだろう。
ここから新城と狼煙台間の鞍部(標高891m)に出る。この鞍部から西側の細尾根を比高50mほどよじ登れば城域である。
途中に小さな繋ぎの場といえる曲輪がある。
この細尾根から南斜面を見ると、恐ろしいくらいの急傾斜である。
斜度は50°くらいあるだろう。滑落したら大変である。
古城が眼下に見える。古城からの道はこの急傾斜を上がるのである。
この細尾根を登った先がいよいよ城域である。
@最東端の曲輪は細尾根である。 | A@の曲輪西に堀切が。 | B小曲輪を経てその西にまた堀切が。 |
C最高箇所の曲輪の西は一気に下りとなる。 | DCを下ると真ん中に土塁がある曲輪だが、堀切ではない。 | E細尾根に展開する曲輪群の終点の堀切。 |
FEの堀切の西が本郭、ここは広い。 | G本郭の周囲に帯曲輪が展開する。 | 古城南下にあった居館跡 |
山の形に合わせた東西約200mの直線連郭式であり、西端の主郭が広くなり、しゃもじ形をしている。東側は細尾根を削平し堀切を2条AB配置した主郭を守る曲輪@Cが展開し、さらに堀切Eを介して本郭Fとなる。
Cの曲輪より本郭の方が10mほど低い。
本郭は40×26mの広さを持ち、広く、内部は平坦である。
南から西側にかけて約5mほどの段差を置いて幅8mほどの帯曲輪Gが巡る。
この帯曲輪もよく削平されている。
さらに下の方にも犬走り状の帯曲輪が存在するという。
この新城であるが、古城の詰めの城である。
古城が名前の通り古くからあった城であろうが、それなりの堅固さを持つが、戦国時代では不安だったのだろう。
その背後の高い山に詰めの城を築いたものと言われる。
なお、新城と狼煙台間の鞍部を北に向かうと狼煙台といわれる標高1022mのピークに着くが、ここは頂上部が平になっている程度であり、明確な遺構はないという。
古城の築城は明らかではないが、この地の土豪、服部氏と言われる。
服部氏は麻績氏とも小見氏ともいうが、鎌倉時代、小笠原一族の小笠原長親が麻績の地頭となったのが始めという。
(この麻績氏の歴史、服部氏が登場し、麻績氏となり、乗っとた青柳氏が麻績氏を名乗ったり、亡命していた服部氏が復帰したり非常に目まぐるしく、混乱する。
なお、服部、麻績とも機織りを技とした古代氏族秦氏一族の末裔が名乗っており、その一族が土着してここが麻績という地名になったものと言われる。
ここの服部氏、麻績氏は古代氏族秦氏の末裔ではなく、地名を姓にしたもののようである。)
一族の詳しい動向や系図は不明だが、諏訪頼重の側室で武田勝頼の祖母にあたる女性は小笠原の家臣
小見(麻績)氏の娘とされている。
一族からは青柳氏が出ている。
戦国時代、天文22年(1553)、武田氏の侵略が始まると一族である青柳清長が武田氏に従い、本家、服部氏を駆逐し麻績氏を名乗る。麻績新城は武田氏の脅威が増加した頃、築城されたのでないかと思われる。
服部氏は越後に亡命する。以後、麻績氏は武田氏家臣として活動する。
しかし、天正10年(1582)、武田氏が滅亡し、織田信長に従った木曾義昌の所領となる。
本能寺の変で織田氏が信濃から撤退すると天正壬午の乱が始まり、麻績は上杉景勝が占領、亡命した服部氏の麻績左兵衛清正を復帰させるが、信濃府中を回復した小笠原貞慶との争奪の地となり、取ったり、奪われたりする激しい戦いとなる。
この過程で服部氏、青柳氏も滅亡する。(青柳氏については、仁科一族等と同様、主家を裏切り武田に付いたことに対する復讐鬼、小笠原貞慶により粛清されたことによる。)
この戦いで麻績古城、麻績新城も使われたと思われるが、攻防戦があったのかは分からない。
ただし、今残る遺構はこの時に整備されたものであり、緊迫感を今に伝える。当然ながら麻績古城に居住していた訳ではない。
あくまで緊急時に避難する場所である。平時は麻績古城の南麓の居館跡に居住していた。居館跡は民家である。山麓を段々にしているだけで遺構のようなものはない。
意外と小さい感じである。ただし、青柳氏が麻績氏を名乗った時にここが使われていたのかは不明であると言う。
(宮坂武男「信州の山城と館」、「らんまる攻城戦記」を参考にした。)