野沢温泉村の城
長野県野沢温泉村というと有名な漬物「野沢菜漬」の本場である。
野沢菜は元々、蕪なのだが、この地では蕪は育たず茎と葉に栄養がいく、そのような菜っ葉を温泉で洗って漬け込んだものが野沢菜漬である。
この味、家によって味が千差万別、同じ味はないともいう。
それぞれ、隠し味があるとか?
凄いものになるとマムシを乾燥させた干物を入れる家もある。(これがメチャ美味い。)
大体、村の名前に温泉が付く所はあるのだろうか?
ここは本来、豊郷と言う。
「豊郷村」というべきなのだろうが、「野沢菜」の方が有名だし、温泉も湧く。
そこで観光目的で野沢温泉村としたらしい。
そればかりではない。
ここは数メートルの積雪がある日本トップクラスの豪雪地帯、スキーの本場である。
長野県では白馬とならんで多くの冬季オリンピックのスキー選手を輩出した地である。
多くのスキー場、今は経営が苦しいようだが、ここには経営努力が功を奏し、欧米人が多く来るようになり一時の不況を脱したという。
その野沢温泉、冬場にしか行ったことがなかった。
もちろんスキーをしに行った。
その時のエピソードがこれである。
したがって、冬の雪に覆われた野沢温泉しか記憶にない。
雪のない野沢温泉に行ったのは始めてである。
違う風景に見える。
そんな野沢温泉にも城はある。
そんな2点を西浦城と平林館を。
山本勘助の実在を証明した市河文書に係る市河氏の一族平林氏の城館である。
しかし、当時、雪深い土地である。いったい冬場はどうやって生活していたのだろう。
西浦城(野沢温泉村平林)
JR飯山線「上境」駅の北東約600m、千曲川を挟んで東の対岸の台地上にある。
ここには千曲川にかかる「湯滝橋」から国道117号線を約800m北上し、国道が大きく東にカーブする地点の北側に位置する。
千曲川の水面からの比高は約50mある。
国道117号線からはほぼ同じ高さに見えるが、一応独立した山である。
この山の東の農道@が堀跡らしい。
↑南東側から見た館跡。山城に近いのであるが、南東側が高いので岡城程度の高さにしか感じない。
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B本郭には城址碑が建つ。 | C本郭南の堀切と土塁。この先が曲輪U | D本郭北側の曲輪V。ひたすら笹薮! 手前に堀があるが、笹で分からん! |
城は南北約200m、東西最大約100mの二等辺三角形をしており、南北に連郭式に堀切で隔てられた曲輪を配置し、東側斜面に段々に腰曲輪Aを展開させる構造を持つ。
最高箇所の曲輪TBが本郭と推定され40m×10mの広さがあり、南北に堀切CDがある。
この部分は遺構が明確であるが、他の部分は藪で良く確認できない。
(宮坂武雄「信濃の山城と館」を参考にした。)
平林館(野沢温泉村平林)
西浦城から国道117号線を東に向かい平林地区に入ると右手の岡にこんもりとした森が見えてくる。
一目でそこが神社であることが想定できる。
その森こそが平林館があった「国中平神社」である。
この神社の名前、まず読めない。
「くぬちむけ」と読むのだそうである。
一体、どう逆立ちすれはそう読めるのか?珍地名である。
↑ 東から見た館跡に当たる国中平神社の林。 畑が的場、丘右下に国道117号線が通る。写真右下の道は古い街道か? この館がある平林地区は東西に延びる半島状の形をしている。 北は千曲川が流れ、川面からは約65mの比高がある。 その間を国道117号が通る。 南側は谷津を利用した水田地帯で比高は約10mである。 館は東西に延びる岡の東側にあるが、東端には位置しない。 館の北側、東側は比較的平坦@であり、的場などがあったという。 |
神社境内Aは約50m四方の広さがあり、北側と東側を土塁が覆う。
特に北側は2重土塁Bになっている。
その外側には堀があったようである。
A神社境内、北側(左手)から東側を土塁が覆う。 | B神社北側の土塁、2重になっているがなぜ? | C西側の平林集落から見た神社。この付近の字が「寺屋敷」 |
この館も典型的な小領主の平常時の居館跡と考えられるが、北側のみ土塁が2重になっているのはなぜだろう。
その外側に街道があった可能性もある。
平林の集落は城下集落であろう。
(宮坂武雄「信濃の山城と館」を参考にした。)
平林氏は山本勘助の実在を証明したことで知られる「市河家文書」の所有者、奥信濃の土豪、市河氏の一族であり、地名を取って平林を名乗った。
市河氏の出身は甲斐国市河荘と言われ、甲斐源氏の祖、源義光の子・武田義清の弟である市河別当刑部卿阿闍梨覚義を祖とする。
市河氏の名は平安時代後期の治承・寿永の乱において甲斐国の武士に「市河行房」の名が見られ、建久4年(1193)に行房の子・市河定光が頼朝の富士の巻狩において、父の敵討を行った曾我時致と戦っている。
承久の乱では北陸道を進軍する北条朝時軍の中に市河六郎刑部の名が見える。
南北朝時代には南朝方の新田義興に属した「市河五郎」の名が見られる。奥信濃に根をおろした経緯は諸説あり分からない。
甲斐出身説以外に 越後に勢力を持っていた桓武平氏繁盛流大掾氏(常陸平氏)の支族城氏(越後平氏)の流れとする説もあり、地理的にこの説の方が合理的のようにも思える。
『吾妻鏡』治承4年(1180年)条によれば、市河高光は甲斐の市河荘を本貫地とし、信濃国船山郷(現在の長野県千曲市)に領地を持っていたことが記載される。
鎌倉時代中期に市河重房が信濃国志久見郷(長野県下高井郡北部)の地頭職に名が登場するが、市河重房と市河高光の関係は、未だ判明していない。
元弘3年(1333)市河助房は新田義貞の挙兵に加わるが、最終的には足利尊氏に与し所領を安堵される。
その後の中先代の乱、観応の擾乱にも関わるが、小笠原氏に従うようになる。応永7年(1400)の大塔合戦では、市河刑部大輔入道興仙(頼房)が甥の市河六郎頼重らとともに、小笠原氏について参陣し、危うく滅亡に瀕している。
その背景には隣接する高梨氏との対立関係があったようである。
応永30年(1423)に義房が小笠原政康に従って、小栗満重の乱で足利持氏と対立した京都扶持衆山入氏・小栗氏・真壁氏らを救援するため常陸国に出陣している。(結城合戦の参陣記録には市河氏の名はない。 )
戦国時代は武田氏の信濃侵攻が活発化し、奥信濃まで影響が出る。
地理的に市河氏領は信越国境に近く、弘治2年(1556)頃、武田氏の調略の手が延びる。
この調略の使者に山本勘(菅)助の名が登場する。
その結果、市河氏は長尾氏と縁戚関係を持つ高梨氏との対立の関係で武田方に帰属している。
その後、川中島合戦が活発化するが、何とか所領を維持している。おそらく武田と上杉の双方の間で上手く立ち回ったのであろう。
天正10年(1582)3月に武田氏が滅亡すると、市河信房は織田家臣の森長可に従うが、本能寺の変で森長可は信濃を去り、市河氏は上杉景勝に従う。
慶長3年(1598)、上杉氏が会津に転封され、市河氏も会津へと移り、関ヶ原の戦い後、上杉氏に従い米沢へ移る。
明治維新による廃藩置県で禄を失った市川氏は、その後北海道へ屯田兵として入植する。
現在も子孫が北海道に存在し、「市河家文書」を伝世している。
(Wikipedia参考)