西山城(大町市西山/松川村北和田)

仁科氏の本土、今の大町市の南の入口を守る山城。
北アルプスから大町盆地に西から突き出た半島状の山にある。
この山、通称、城山と言い、ずばり城、そのものの名前。
この標高870mの城山のピークが、主郭部である。
この城、尾根に大城、小城の2つが並ぶ。
右の写真は南の松川村方面から見た城址である。左のピークが大城。右の電柱の上のピークが小城である。右側にあるピークは大城と小城の中継の平場があるだけである。
山の先端部南側下に解説板があり、そこが登城口である。
この道をジグザグに登っていくと先端部の三郭に出る。
一応、現地の表示は大城を一郭、小城を二郭、そしてこの物見を三郭としている。
麓の標高は650m、三郭の地が740mなので、ここまで比高90m、結構急坂である。
しかし、きついのはここまで、後は尾根を行くので比較的楽である。
三郭まで登る途中に猿が沢山いる。人馴れしていないようであり、こっちが威嚇すると逃げていく。
先端部、三郭という名になっているが、先に書いたように先端の物見台である。
盆地の反対側の山麓には国宝の仁科神明宮がある。ここは3段の曲輪になっており、長さは50mほど。先端に天恵松がある。この3段の曲輪を過ぎ100mほど行くと土塁を持つ堀切がある。
この形式、佐竹系城郭で見られるものと同じである。深さは4mほど、両斜面に竪堀が下る。
さらに60m行くと土橋状の場所があり、そこから登りとなる。
いよいよ小城の城域である。高さで15mほど登ると堀切があり、その上、6mから2段の曲輪を経て、小城の本郭である。(現地表示では二郭)
東に10mほどの突き出しがあり、長さは20m、幅15m位、西側に土塁がある。
ここの標高は790m、麓からの比高は140mである。
その土塁上から下を見ると7m下におなじみの二重堀切がある。この小城だけで立派な山城である。
その先に堀切が1本あり、大城まで700mほどの尾根道が続く、途中に2箇所ほど中継の曲輪らしいものがある。
大城に近づくと傾斜はきつくなり、大きな堀切と高さ10mほどの切岸を持つ曲輪から大城の城域である。
この先に2つの曲輪があり、さらに本郭下を巡る腰曲輪がある。
この曲輪は部分的に土塁を持つ。
その上が最高標高箇所であり、本郭である。

標高は870m、比高は270m、かなりのものである。本郭は径30mほど、南側と北側に虎口があり、それ以外の部分を土塁が覆う。
曲輪内には城山神社が建つ。本郭の背後には堀切が2,3本あるがそれほど厳重な構えではない。
もっとも北アルプスに続くこの方面から攻められる心配は少ないであろう。
城主は仁科氏家臣の矢口氏と伝えられる。(鳥瞰図中の○付き数字は、下の写真の撮影位置を示す。)

@先端の物見、背後に段々の曲輪が見える。 A しばらく行くと土塁を持つ堀切がある。 B 小城の本郭。背後に土塁がある。 C 小城の本郭の背後にはおなじみの二重堀切があり、竪土塁と竪堀が下る。
D大城入り口部の堀切 E 大城の本郭に建つ城山稲荷 F 大城本郭背後の堀切 G 大城本郭西側の曲輪

大崎城(大町市大崎)

西山城の北側4kmに位置する。
西山城からの狼煙を北東に位置する仁科氏館に伝えるのが役目の城と思われる。

右の写真は北側から見た城址である。中央部の盛り上がって頂上が平坦な部分が城址である。その左下の水力発電所が目印となる。
水力発電所の反対側から登るが、先端部からは険しいので登らない方が良い。
この西から突き出た山、南側に少し張り出した部分があり、ここから登ると傾斜が緩くて登りやすい。
ここを登って行くと小さな神社があり、平坦地となっている。
写真Cがそれである。左の鳥瞰図では左に延びていく尾根の先にある。
居館とは思えないが、この場所も城の一部であろう。
ここを北に登ると土塁と堀があり、いきなり本郭である。

本郭は40m×20m。南側に3段ほどの曲輪があり、南に虎口がある。
標高は808m、麓からの比高は100mほどである。
北側と西側には土塁がある。本郭の北側に深さ3mの堀切があり、二郭がある。
二郭は40m×15m位で北に土塁がある。
その北は40mに渡って三重、あるいは四重の堀切になっている。
普通、堀切からは竪堀が下るが、この城は東には竪堀が下るが、西側は腰曲輪が重なった感じであり、竪堀は1本のみである。

長さの総計150mほどの小さな尾根式城郭である。
なお、先端部にも曲輪があるというので、ここも大城、小城からなるミニ西山城という感じであったようである。

(鳥瞰図中の○付き数字は、下の写真の撮影位置を示す。)
@ 本郭内部、結局、ここも藪である。 A 本郭北側の堀切 B 堀切から見た土壇 C 麓近くにある神社。ここは居館跡?

森城(大町市木崎森)

仁科氏の領土は、安曇野北部、ほぼ大町市付近である。
森城は木崎湖の南西の湖畔にあり、信州では珍しい水城である。
仁科領の北の防衛拠点であり、築かれたのは古代まで遡る可能性があるという。右の写真は北東側から見た城址である。
正面の森が城址。
その前に木崎湖が横たわる。

今の城址は湖畔のちょっとした岡に過ぎず、とても要害性は感じさせない。
城の西側の水田がかつては木崎湖の一部であり、木崎湖の中に南から突き出た半島であったようである。
そうなるとかなりの要害性があったと思われる。
このかつては湖の一部であった水田地帯の西の山際に千国街道が通っており、街道を扼する城でもあった。
本郭と言われる場所が、仁科神社の境内という。境内は70m四方くらいの大きさである。
南側と西側を土塁が覆うが、南側の土塁は果たして本物か?
西側が一段低い地が馬出と二郭であったらしいが、堀や土塁は一部を除いて失われている。
本郭の北に一段低く曲輪があり、さらにその下に安倍神社の建つ場所がある。この場所が城の先端部に当たる。
安倍神社がここにあることは、仁科氏が古代氏族の安倍氏の流れである証ともいう。
安倍神社の東に木崎湖から掘り込んだ水堀があるが、これが戦国末期に仁科盛信が築いたという三日月堀なのか?
仁科神社の南側の切通しは堀切の跡であり、その南側の高台が三郭である。
西側から掘り込みが入っている。その南は民家やペンションが建っており、遺構は不明瞭であるが、堀が入っていたという。
この部分は家臣団の住居があったのであろう。
湖にはおそらく乱杭が打たれていたのであろう。
一方、仁科領の北方面に対する守備の要として有力な仁科氏一族が城主であったと思われる。
戦国時代、仁科盛政が武田氏に殺され、仁科氏は滅亡する。
この時、武田氏に従うことに反発する仁科一族の有力者が上杉氏と連絡を取り、森城に立てこもったという。そのため、武田軍の攻撃で落城し、この反乱を口実に仁科氏を滅ぼしたともいう。
この城は武田氏の手に落ち、武田信玄の五男盛信が仁科氏の名跡を継承、乗っ取って城主となり、越後の上杉氏に備えるため森城を大きく改修したという。
右の写真は昭和52年撮影の国土地理院撮影のものである。
かつて湖に突き出た半島状の場所に立地していたことが、良く分かるであろう。

(鳥瞰図中の○付き数字は、下の写真の撮影位置を示す。)



@ 本郭に建つ仁科神社 A 本郭(左)と二郭間の堀切 B 本郭の東下はもう木崎湖である。
C これが三日月堀の跡か? D 三郭と南側の堀跡 E 水田になってしまった城の西側の湖。
右手の山麓を千国街道が通る。

仁科氏館(大町市十日町)

天正寺館ともいう。
大町市の中心街の西にある正寺館が館跡である。
天正寺が主要部であるが、遺構は寺の裏手(北側)に土塁と堀が残る程度である。
二重方形館であったようであり、寺本堂の北側に土塁があり、これが内郭の土塁のようである。
そして道路に面した堀と土塁が外郭の遺構のようである。
外郭の幅はかなり狭い。
外郭の土塁と堀は寺の北側だけ現存しているが、それ以外の部分は宅地となりほとんど湮滅しているようである。
しかし、東側の民家の間に堀跡と思われる窪地が畑として残っていた。
寺の山門が館の大手口の位置であろう。
鎌倉時代末期に仁科氏が館之内館から移り、仁科氏滅亡までここが居館であったようである。
館は西側から東側に傾斜を持つ扇状地にあり、堀は水堀であったが、途中に堰を入れて水を満たしていたという。御所川の流れを引き込んでいたという。堀にその堰が残っていた。
御所という地名、川の名が残っているくらいであるから、仁科氏の居館として格式が高かったのであろう。鳥瞰図中の丸付き数字は下の写真の撮影場所を示す。

@天正寺北に残る外郭の堀。 A天正寺本堂の裏の土塁が内郭の土塁らしい。 B寺の東の民家の間に残る外郭の堀跡。 C天正寺の山門。館当時の門もこの位置らしい。

大念寺館(大町市堀六日町)

青竜寺館に隣接してあったという。青竜寺の南東150mくらいの場所が館跡だったというが、現在、館跡らしいものは、何もない。
単なる住宅地である。ただし、この付近の字が「堀」というそうであるので、字名にのみに館の名残があるだけのようである。
大念寺とは、ここにあった寺の名前であるが、この寺は鎌倉時代後半ころ建立され、明治2年に政府の指導し、松本藩が強く推進した廃仏棄釈で、住職は還俗させられ、廃寺にさせられたという。
多分、館が廃館になった後、寺がここに移転してきたようである。
土塁、堀で囲われており、77m×30m程度の広さだったという。高見伊賀という者の居館であったという。
寺跡から出土した地蔵像がJA大北大町支所南側の市道沿いに置かれ、如来形石仏が大町市文化財センター玄関脇にあるというが、これらは館の遺物ではないであろう。。

仁科青竜寺館(大町市六九町)

仁科氏館の東側200m、国道147号線をはさんで青竜寺館があった。
ここも仁科一族の館であったが、廃館後、青竜寺という寺が建てられたのでこの名が付けられている。
多分、仁科氏の分家筋の居館ではなかったと思う。
したがって、本来、何ていう名の館であったかは分からない。
写真の部分、何となく堀のように見えるが・・果たして?

古城(大町市松崎)

仁科氏初期の居館、館之内館の支館という。
大町警察署南東側の高瀬川の比高5m程度の河岸段丘上にあり、この台地上に館があったという。

かなり大規模な館であったらしいが、堀、土塁等は湮滅しているようで確認できなかった。

切岸の勾配が鋭く、これがかろうじて館の遺構という感じである。

丑館館(大町市松崎)

「うしだて」と読む。薬師寺の場所が館跡。
館之内館の北の守りとして薬師如来を置いた寺を建てたというので、出城を兼ねた寺院であったようである。
この館も仁科氏初期の居館、館之内館の支館という。
大町市街地の東の高台にあり、市街を一望の元に見渡せる。西側の切岸が城っぽい感じがするが、遺構らしいものはない。
この館の名前は静御前の乗っていた牛の墓にちなむのだそうだ。
伝承では奥州に行った義経を追って静御前が旅をするが、この地で乗っていた牛車の牛が死んでしまい、その遺骸を葬ったことが謂れという。
それ以来ここを「牛立」と呼び、寺の薬師を「牛立薬師」と呼ぶのだそうだ。


仁科氏について
平貞盛の子孫とか、源氏の井上の分かれとか色々言われているようであるが、最も有力な説は、古代豪族安倍氏系の安曇氏の一支族が仁科御厨の管理に赴任し、土地の名を名字としたものと推定されている。(古代、ひすいを追って糸魚川から入ったという説もあるが、飛鳥時代にひすいの採取は、まだ、行われていたのだろうか?)
その時、建設したのが仁科神明宮であり、この神社の形式等は伊勢神宮など大和朝廷の流儀を伝えていることも推定を裏つけている。
仁科氏は前九年の役などの戦役に従軍した記録があり、源氏に従っていたようである。
源平の戦いでは木曽義仲の軍に従軍し、仁科太郎守弘、仁科次郎盛家などの名前が見られる。
横田河原の戦、越中国砺波山の戦に仁科二郎が登場し、水島合戦にも仁科次郎盛宗の名が見られる。
さらに建久8年、源頼朝の善光寺詣に仁科太郎が同行した。
あの承久の乱は、仁科氏の後鳥羽上皇出仕問題が直接の引き金となって起き、上皇側についた仁科次郎盛遠は敗れ所領は没収されたらしい。
一方では別の一族は幕府方について存続した。ただし、鎌倉時代には仁科氏の勢力は衰えたようである。
鎌倉幕府が滅亡すると、信濃守護は小笠原氏となるが、対抗上、仁科氏は南朝方に付く。
しかし、南朝方が劣勢になると、村上氏や仁科氏も形上は小笠原氏に従属するが、反抗の火種は燻る。
それが発火したのが「大塔合戦」である。
この合戦で村上氏と仁科氏を盟主とする大文字一揆が結成され、高梨、井上、須田氏も合流し小笠原氏を駆逐する。
しかし、小笠原氏は復興し、仁科氏も小笠原氏に従うようになり、姻戚関係を持つようになる。
戦国時代前期には小笠原氏とは微妙なパワーバランスの下で仁科氏は並立し、着実に勢力を広げ、盛国の代には安曇・筑摩郡にかなりの領土を持つようになった。
しかし、盛康の代になると武田氏の侵略が開始され、仁科氏も小笠原氏、村上氏とともに戦う。
しかし、武田氏に圧迫され、小笠原氏が越後に逃れると、仁科盛康、その子盛政は武田氏に従属する。
天文12年(1543)ころのことと言う。
永禄4年(1561)5月、盛政が武田信玄に殺され、仁科氏は滅亡してしまう。
なお、永禄10年(1567)八月、生島足島神社起請文に仁科盛政の名が残されているので隠居させられ、仁科氏の家督は、信玄の子盛信が継ぎ、まんまと乗っ取られたのかもしれない。
いずれにせよ盛政の代で、実質的にで仁科氏は滅亡してしまう。
その後の盛信の最後などは、仁科氏の歴史の中では、関係ないどうでもいいことなので記載しない。
仁科氏本家は滅亡するが、多くの分家が出ており、その子孫は綿々と続いている。
管理人もその1人である。
上杉氏に従った仁科氏もいたようであり、米沢藩士として続いた。