林城
信濃守護であった小笠原氏は現在の松本付近を中心に筑摩郡及び安曇・伊那地域を中心に勢力を張り、戦国大名化する。当初の根拠地は松本城の南2kmの平城の井川城であり、その詰の城としてこの林城を築いていた。
戦国時代になると林城に根拠を移し、周囲に桐原城、山家城、埴原城などの大型城郭を置いて防備を固める。
しかし、戦国大名として十分成熟しないうちに、武田氏の侵略を受け、さらに当主、小笠原長時の能力が?であったこともあり、武田氏の侵略に対応できず、この林城を中心とする大要塞群はまったく機能を果たすことなく、放棄されてしまう。
その後、松本城が完成するまで、一時期、武田氏が使用したようであるが、いつしか廃城になったようである。
武田氏も多少の修築は行ったものと思われるが、基本的な構造は小笠原氏の山城の特徴を留めており、小笠原氏の城を調べるうえで貴重なものという。
その林城、大城、小城という2つの城からなる。
松本市街の東方、美ヶ原方面への登り口、山辺地区の入口部南側の山である。
山辺小学校南の山が大城である。
この大城は守護の本拠地として、曲輪も広くなかなか壮大な城である。
美ヶ原から西側に突き出した尾根に築かれた大城と南側の尾根に小城がある。
その間の谷には大嵩崎集落があり、この付近から西側にかけて居館や家臣団の屋敷、城下町があったという。

小笠原氏
小笠原氏と言えば、信濃松本付近の出身かと思ったが、信濃から小笠原氏を追った武田の地元、甲斐の出で、源氏系というので何ていうことはないガチンコやった武田氏と同じルーツなのである。加賀見遠光の次子長清が甲斐国中巨摩郡小笠原村に来て小笠原を称したのが始まりという。
信濃に根をおろしたのは、文治元年(1185)、頼朝が源氏一族による信濃支配を狙うため、守護代として送り込んだものという。
遠光二男長清は、佐久伴野荘の地頭職となり佐久に根を下ろす。
一時、信濃守護、比企能員と北条氏の抗争で所領を没収されるが、「承久の乱」で活躍して復活。
その恩賞で阿波国守護職を与えられ、長経が赴任、これが後の三好氏である。
南北朝の争乱で、小笠原氏は幕府軍に従うが、後、足利高氏を支援。「中先代の乱」では、小笠原貞宗は北条時行を攻撃するが敗れる。
足利尊氏が幕府を開くと、小笠原氏の地位は向上、信濃守護となり、南朝方の宗良親王や南朝方の諏訪氏や仁科氏らの軍勢を駆逐する。
しかし、信濃国の管理は京の幕府から鎌倉公方の下におかれ、一時、守護職は上杉氏や斯波氏に渡るが、応永6年(1399)、小笠原長秀の手に戻り、京から入国する。
この長秀がとんでもない男で、やることは強圧的でメチャクチャ。
このため、村上氏をはじめ大文字一揆らが怒り決起。「大塔合戦」に発展。
長秀は破れ、京都に逃げ帰り、信濃守護職を失う。
しかし、小笠原氏は応永23年の「上杉禅秀の乱」の活躍で復権。
小笠原政康が信濃守護に復帰。さらに永享元年(1429)の「永享の乱」、その後ので「結城合戦」で勢力を拡大する。
しかし、政康死後の惣領相続を巡って相続争いが勃発。一族間の内戦が、文安三年(1446)、漆田原などで展開されるが決着は着かず、小笠原氏は鈴岡小笠原氏、伊那小笠原氏、そして本来惣領家である林城に拠る府中小笠原氏の三家に分裂。この中で明応2年(1493)、鈴岡小笠原氏が滅亡、伊那小笠原氏も信濃を去り、府中小笠原氏に統一された。
この時間ロスにより、小笠原氏の戦国大名化が遅れ、武田氏の侵略を迎える。
小笠原氏を統一したのが長棟、その長男が別の意味で歴史に名を残す長時である。
小笠原氏は統一されたが、信濃には佐久の平賀氏、諏訪の諏訪氏、西筑摩の木曽氏、北信濃の村上氏など小大名が乱立。
そこをいち早く、戦国大名化した甲斐武田氏に浸蝕され、平賀氏、諏訪氏と次々と征服される。
小笠原長時は村上義清と連合して対抗するが、部下を諜略され、天文19年7月、林城を放棄せざるをえなくなる。
その後、2年間に渡り長時は抵抗を続けるが、天文21年6月、越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼る。そして「川中島の戦い」が起こる。
その後、長時は京都に行き、同族の三好長慶を頼り将軍足利義輝に仕える。
しかし、永禄8年(1565)松永久秀と三好三人衆が将軍義輝を暗殺すると、長時は再び越後に向かい、上杉謙信を頼るが、天正6年(1578)、謙信が死去すると会津の葦名盛氏を頼り、天正11年(1583)波乱に富んだ70年の生涯を閉じた。家臣に殺害されたともいう。
しかし、小笠原氏、奇跡の復活をする。
長時の三男貞慶は、父長時とともに三好長慶を頼るが、永禄11年に織田信長が上洛すると信長に仕え、佐竹氏など東国大名との外交を担当。
そして天正10年(1582)、本能寺の変で信長が死ぬと、徳川家康の支援を得てついに府中復帰を果たす。
以後、小笠原貞慶は徳川氏の下で行動、時として独立大名化を模索するが果たせず、これが結局、吉と出、徳川譜代となり、徳川幕府の下で豊前小倉藩15万石の大名として、続き、明治維新を迎える。 (風雲戦国史 http://www2.harimaya.com/sengoku/index.html参考)

林大城(松本市入山辺)
大城は別名、金華山城といい。標高846mの金華山にある。
比高は220mの大きな山であるが、東側の橋倉集落方面から道があり、道路状態は良くないが、車で本郭直下まで行くことができる。
城址も史跡としてきれいに整備されている。

ただし、この道を造ったことで、曲輪の一部は破壊されているようである。
この道路沿いの主郭部東側には、明らかに竪堀と見られる遺構があり、道路から尾根を見ると案の定、尾根に三重堀切@があり、そこから壮大な竪堀が斜面を下っている。

その西側の曲輪には「化粧水」という井戸Aがあり、今も水がある。
そこを西に登って行くと主郭部である。主郭部は3段構造になっている。

東側の末端部の曲輪Bは前面を土塁が覆う。 その上の帯曲輪の1つ上が本郭Cである。
本郭は東西48m、南北21〜37m、西側の入口部を除いて石垣を持つ高さ2.5mほどの土塁Dが周囲を巡っている。

この石垣であるが、土塁の土留めの補強用程度のものであり、山家城の石垣に比べれは規模は小さく、乱れ積みという形式である。

なお、山家城の石垣は武田氏滅亡後、この地に復帰した小笠原氏が整備したともいうので、林城のものとは時代差があるようである。

このことから、林城は小笠原氏復帰後には使われていなかったと言えるようであり、武田氏に追われる前段階のもののようである。
この本郭から南東に延びる尾根を行けば、小城に行けるようであるが、この尾根沿いには多くの竪堀が構築されている。
本郭の北西側に腰曲輪、堀切を介して、二郭F、そして二郭の北西に駐車場となっている曲輪があるが、その間の通路E、Gは幅が5mほどある、石段となっている。
この石段は居館の入口通路といった感じである。
ここは避難城ではなく、山上守護館があったのであろう。

駐車場の場所の北西に土塁があり、虎口が開く、そこを通ると堀切、竪堀があり、その先の下りの尾根沿いに多くの曲輪が見える。
この道が大手道であったと思われる。曲輪は突き出し10mほどであり、20以上あるようである。
途中に2箇所、堀切があり、そこに門があったようである。
上の写真は西から見た林大城である。山の麓正面付近に居館があったらしい。
麓の民家が見える場所は根小屋に当たる。

@東に続く尾根の三重堀切の1つ A化粧水という井戸、今も水がある。 B本郭東下の土塁を持つ曲輪 C本郭内部
D本郭の土塁は石垣を持つ E二郭から見た本郭部、
階段が石段になっている。
F二郭内部 G二郭西下の曲輪。
ここまで車で来れる。

林小城(松本市里山辺)
別名、福山城という。大城のある尾根の南西の尾根にある単郭の城である。
標高は796m、比高は160m。最近、西から登る道が地元が整備し、案内板も設置されている。
そこを登れば15分程度で城址に行ける。
下の写真は西側から見た城址である。集落が家臣団の屋敷跡と言われる。

なお、山の先端部の墓地の裏から登るルートもあるそうある。おそらく、こちらが大手道であろう。
大城からの尾根続きを大きく南にカーブしても行けるようだが、このコースは距離が長すぎるようだ。
その地元が整備してくれた道を登っていったのであるが、しょっぱなから驚きの連続。
このコース、始めは谷のような場所を行くのであるが、途中に石積み@がある。
砂防施設かとも見えるが、とても石の積み方が後世のものとは思えない。
ここに門か何かあったのではないかのと思われる。
その先が広い窪地のようになっており、家があってもおかしくはない。ここは搦手口かもしれない。
さらに登ると、今度は竪堀Aがある。かなり大きいものである。
この竪堀、主郭部直下から続いており、途中で2本が1本になる。延長300m程度はあるだろう。高度差としては100mほどを下る。

さらに登って行くと、西側に延びる尾根に小曲輪が多く展開しているのが見え、堀切を越えると主郭部下である。
主郭部を見ると石垣が見え、竪堀が何本か下っている。
登城路は主郭背後の堀切Bに出て、主郭内に入る。
主郭C内は40m×20mの広さ、南側堀切に面して高さ4mほどの櫓台のような土壇Dがある。
この土壇は石垣で補強され、曲輪ないにも石の段が見られる。

主郭の下6mに東から北、そして南にかけて突き出し最大30mほどの腰曲輪Gがあり、そこに下りて、主郭側を見ると主郭の土塁部分を帯状に高さ1〜1.5mの石垣E、Fが覆っている。
若干崩れている部分はあるもののかなり良好な状態で残っている。
腰曲輪の北に延びる尾根沿いにも曲輪が多く展開する。

城の規模は小さいが遺構は大城のものより見事である。
本城については「古城」であるという説もあるが、遺構の面から大城より新しいことが推察できる。
また、南側は堀切1本だけで、その南側の高度が増す尾根筋(大城への道)には竪堀はあるが、堀切はなく防備が手薄である。
これかのことから、大城の出城として大城の拡張整備の一環として造られたのが今残る遺構と言えるだろう。
大城に比べると小城にはほとんど人は来ないと思われるが、小城の方が絶対、大城よりも満足できる城と思う。

@西の麓部にある石組み A主郭部から西下に二重の巨大竪堀
が下る。
B主郭背後の堀切 C主郭内部。南側に土壇がある。
D主郭南の土壇の石組み E主郭東側の石垣 F主郭北側の石垣を帯曲輪から見る。 G主郭北下の曲輪

注)2010年11月16日に松本在住の赤いRVRさんから連絡をいただいた。
@の石組み、残念ながら城郭遺構ではないそうである。
地元の方が昭和30年ころ砂防のために組んだものなのだそうである。しかし、あの積み方、主郭部の石垣とそれほど変わらん・・・。
確かにこの沢の裾に人家があり、大雨で土砂が流れたら大変である。

 

桐原城(松本市入山辺)
林城の北2qにあり、山辺の谷を両側から抑える位置にある林城の支城である。
追倉沢川と海岸寺沢に挟まれた東桐原集落背後の標高948mの山に築かれ、山辺小学校付近からの比高は300m。
しかし、800m付近まで車で行くことができるので、歩いて登る比高は150m程度である。

県道67号線で入山辺方面に走り、山辺ワイナリーの醸造所前を北上していくと城址登り口の案内がある。
その先は林道であるが、林道には入らず、林道脇の解説板の裏の山道を入ると城址に辿り着く。

城は鎌倉期、諏訪神氏系の山家氏が「山辺」の地頭となり、その一族の桐原氏が築いたという。
しかし、文明12年(1480)、山家氏は小笠原氏に滅ぼされ、寛正元年(1460)頃、小笠原氏の一族で犬甘城主犬甘大炊介政徳の弟、桐原真智が入る。

その後、天文19年(1550)頃、武田氏の侵攻の脅威が増す中、小笠原氏は林城防衛網の強化を図り、桐原城も林城の北を守る城として整備される。
その姿が現在の遺構に近い状態ではなかったかと思われる。

この城も小笠原氏が林城を放棄した時に放棄され、その後、武田氏が使用したとも言う。
この過程で武田氏により改修が行われているともいう。
いつごろ廃城になったのか定かではないが、再小笠原氏が去ったころではないかと思われる。

城主の桐原氏、小笠原氏と行動をともにしたのか、武田氏に従ったのか分からないが、何と驚いたことに現在の城址の土地所有者も桐原氏である。
おそらく子孫であろう。

この桐原城、北東から延びる尾根末端の標高948mのピークに本郭、その西側に二郭、三郭、四郭を展開させる。
最大の特徴は曲輪の切岸や虎口、ほとんど石垣構造という点である。
また、西側から北側の斜面が比較的緩やかであり、その方面に竪堀が何本も複雑に走らせる点である。
全体的に長野市の塩崎城に良く似る。

この点で武田氏の手が入っていることも想像される。
先に述べた山道を入って行くと、一度南に迂回しながら登ることになる。
途中、緩やかな山の斜面を下る竪堀@を何本も目撃する。これが緩斜面を覆う竪堀群であるが、当時はかなり深いものだったのであろう。
また、石垣と同じ材質と大きさの石がゴロゴロしているが、この道沿いにも石積み遺構があったのかとも思う。
いずれにせよこの山は岩が多く、石材の調達には困らなかったようである。

登り道は途中で北東に折れ、尾根を登る。すると堀切があり土壇Aがあり、その間に虎口が開く、その先に曲輪が数段あり、堀切が二重Bにある。
この堀は竪堀となって斜面を下る。その先から切岸が石垣となった曲輪が段々に現れる。
石垣H、I、Jは高さ1〜2m程度のものであり、土留め用のような感じである。

最上部が本郭であるが、二郭からは南側を迂回して入るようになっていたようである。
本郭は50m×30mほどのものであり、周囲を土塁が覆う。その外側は石垣Fで補強されている。
東側には高さ4mの土壇Gになっている。この部分は石で覆われていたようである。

@登り始めると早くも竪堀が山を下る。 A西尾根の虎口状の土壇 B主郭部西下の堀切 C二郭南側の石垣
D本郭背後の堀切 E本郭南側の石垣 F東の尾根に延びる堀状通路 G本郭東の土壇、ここも石垣だったらしい。
H二郭から見下ろした三郭 I三郭西側の石垣 J四郭の石垣虎口 K四郭南側の堀

この土壇の上に立ち東を見ると、定番の堀切Dが9m下にある。二重堀切になっている。
北側は横堀状に西に回り込みながら竪堀となって下っていく。
さらにその北側の斜面に何本もの竪堀がある。
本郭背後の堀切の東側はいささか曖昧であるが、堀状の通路Fがあり、この部分は埴原城と似る。
左の写真は南側から見た城のある山である。

山家城(松本市入山辺)
この城も小笠原氏の本城、林城防衛網の一旦を担う城として、埴原城、桐原城同様、戦国時代に整備されたと言われる。
和田方面からの侵攻に備えた城である。
松本市街から県道67号を美ヶ原方面に走り、林城からさらに4km行くと、左手に徳運寺が見える。
この寺の北の山が城址である。

この山は北東から張り出した尾根で、北西側と南東側は沢が侵食し、勾配は急である。
城のある場所は標高1057m、麓の薄川の位置の標高が750mであるので、ここからの比高は300m。
徳運寺には行かず、1本東の道を左折すると、公民館がある。この前に山家城の解説板がある。

道をさらに登って行くと、車は行き止まりとなり、また、城址の解説板があり、登城路となる。
この場所の標高が870mなので、城址まではあと200m弱。
そこに車が置ける。山路を登って行くと城址に着が、その途中の斜面には西側の尾根から下る竪堀@が目に入る。
曲輪らしい削平地が斜面に見られる。
山路が尾根上に出ると、そこが曲輪Aである。
そこから尾根に沿って東に行くと、大きな堀切Bがあり、曲輪3枚を経て、本郭南下の曲輪Cに着く。
この上、8mが本郭Dであるが、石垣が見える。

本郭は30m×20m程度の小さなものであるが、土塁が1周。北側が一段と高いというおなじみのパターン。
本郭の東側に回ると、あっと驚く風景。高さ3mほどの石垣Eが15mほど続く。
この付近の小笠原氏系城郭、いずれも石垣を持つが、この山家城の石垣が一番、見事である。
本郭の後ろにはおなじみの堀切Fがあり、北側の尾根に続くが、この堀切が凄い。5重?位の深い堀切Gが連続しており、竪堀が豪快に谷底に下っている。
この形式は千曲市の小坂城とまったく同じである。
この堀切群をこえると秋葉社が建つ曲輪である。この部分は詰の城というべき部分であろうか?
この曲輪は3,4段構造になっており、周囲の斜面に竪堀のようなものがある。
北側に堀切があり、さらにその先に細長い曲輪があり、堀切があって城の端となる。

城址解説ではこの秋葉社のある部分が古い城であり、石垣のある本郭が後で増築された部分と言う。
しかし、まったく、その逆の説もある。
いずれにせよ、この2つの部分は相互に独立している。この城の構造と良く似た城に、松本市内田の八軒城がある。

この八軒城の場合は低い位置にある城がメイン部分だったようである。
この山家城の場合も秋葉神社付近は住民の避難施設であったように思えるのであるが。
鎌倉時代末期、諏訪氏の一族が山家氏を称し、この地に居城を築いたと言われている。
しかし、文明12年(1481)小笠原氏に攻められ、諏訪氏系山家氏は滅亡。

その後、小笠原一族の折野昌治が山家氏を称しこの地を治めた。武田氏の侵略の脅威が増したころ、今の姿に改修されたという。
しかし、肝心の城主、山家昌治を始め多くの小笠原氏の家臣が武田氏に諜略され、これらが原因で小笠原長時は林城を維持できず、放棄し、この山家城も武田氏の手に落ちる。
その後、武田氏が手を入れたともいう。
また、今、見られる石垣は、武田氏滅亡後、この地に復帰した小笠原氏によるものともいう。

@西側の尾根から下る竪堀 A西尾根上の曲輪から主郭部を見る B主郭部と西尾根を分断する堀切 C本郭南下の曲輪
D本郭内部、土塁が囲む。 E本郭東側の石垣 F本郭背後の堀切 G秋葉社との間にある土壇と堀切