八軒城(松本市内田)
八間城、八間長者城とも言う。 松本市南東部、塩尻市との境にある「崖の湯温泉」の北側から東側を取り巻く山にある。 崖の湯の標高が950m、城のある部分は1010〜1040mにかけてである。 崖の湯の山七旅館の脇から登ればすぐに城址なのであるが、この道はすでに廃道状態でかろうじて歩ける程度である。 温泉側は急な崖状であるのできつい。 尾根に出ると南北に延びる横堀@がある。 かなり見事な堀であり、北側で東西に延びる竪堀Aと合流し、西に下る。 (この合流点、水が湧いていてグチャグチャ状態である。) 竪堀はさらに北側にも1本存在する。 自然の侵食谷を利用したものであるが、幅が15〜20m程度あり、見事なものである。 かなり埋没しているようであるが、かつてはどれくらいのものであったのだろうか。 この横堀から東の山に登る道の痕跡があり、そこを登ると50m四方ほどもある平場Bがある。 その東側に展望台の廃墟Cがある。 ここが西側の主郭部と思われる。 |
この東側にやたら目立つ土壇Dがあり、60mにわたり細尾根Eが東に延びる。 ここから登りになるが、標高1040m地点に長さ40mほどの曲輪Fが2つある。 しかし、この曲輪の切岸はただの山の斜面であり、造りは甘い。 やはり、主郭はCの曲輪であり、背後の曲輪は主郭を守るためのものだろう。 その東側にかなり埋もれた土橋と堀切Gがあり、そこが城の東端のようである。 ここから東はただの山である。 結局、横堀、竪堀だけが見事な城である。 歴史等は分からないが、住民の避難城ではないだろうか。 左の写真は崖の湯温泉から見た城址がある山。 |
@いきなり現れる横堀 | A豪快に山を下る北側の竪堀 | B堀の上には平坦で広い曲輪が。 | Cここが主郭か?展望台の廃墟が。 |
D北の細尾根に続く土壇。 | E東に続く細尾根 | F東の曲輪内部。造りは甘い。 | G 東端の堀切と土橋 |
犬甘城(松本市蟻ヶ崎)
松本市街北にある城山公園の西側部分が城址。
この字「いぬかい」と読む。
標高は743m、市街地松本城の標高が580mなので160mの比高がある。 でも、公園になっており、坂は急ではあるが、車で行くことができる。 公園になっているだけあり、付近の山城とはまったくちがう。 この山は西側が下に篠ノ井線が走る急勾配、東の緩斜面になっており、東の緩斜面が公園になっており、ピークの尾根部分が城である。 公園化されたはいるが、大きく4つの部分がは確認させ、堀切が3本ある。 一番北側の部分が主郭部@である。ここは2段構造Aになっている。 その南に堀切Bを介して、2つの曲輪があり、最南端の曲輪には展望台がある。 東側は公園化でかなり改変を受けているようであり、かつてどうなっていたのか分からないが、池になっているのが横堀跡Cかもしれない。 西側の急斜面には竪堀が豪快に下っているのが確認できる。 この城山公園は明治8年(1875)に松本最初の公園で、それまでは藩主戸田氏の管理下であったという。 ここに桜、楓などを植えて民衆に開放したという。 この城は小笠原氏家臣、犬甘氏の城で小笠原氏の本拠、林城の西方を守る支城の一つであった。 天文19年(1550)、小笠原長時は林城を放棄して、平瀬城に移り、林城の支城は次々と自落するが、犬甘城と平瀬城は武田氏に対して頑強に抵抗する。 |
しかし、犬甘城のすぐ南にある深志城の城代となっていた馬場信春が、物見のために苅谷原崎まで出てきたところを、村上氏の援軍と勘違いして政徳以下数騎で近寄ってしまい、包囲されて犬甘城に戻ることが出来ず、城主不在となった犬甘城は落城してしまったという。
城にもどれなかった犬甘政徳は平瀬城の平瀬義兼を頼るが、小笠原氏が武田氏に完全の追われ、越後に逃れると、小笠原氏に付き従っていたようであるが、記録は残るものの、犬甘氏の足どりは分からなくなる。
@城の北端部 | A 曲輪Uから一段高い曲輪Tを見る。 | B曲輪U、V間の堀切 |
C 曲輪V東の池は横堀跡か? | D 曲輪V、W間の堀切 | E 曲輪W、X間の堀切 |
井川城(松本市井川城)
信濃守護小笠原氏の初期の居館という。
昭文社の地図を見ると、鎌田小学校の東、松本駅の南600m付近に「井川城跡」がプロットされている。
かなり入り組んだ住宅地の中で、見つけられるか自信はなかったが、とりあえずカーナビにおよその位置を入力し、案内してもらう。
これなら近くまでは行けるだろう。どこをどう走行したかさっぱり分からないが、住宅地の中にある田んぼの中にちらりと、写真で見た土盛と木が見えた。
さすがカーナビ。
適当に車を置き、田んぼ道を歩いてようやくその場所に到達。この土壇、10m四方ほどに過ぎず、櫓跡とも言う。
遺構はたったこれだけである。周囲の田んぼが館の跡らしい。
この場所は、北に田川、西に奈良井川、東に頭無川、南に穴田川が入り組んで流れる湿地帯であったようで、それなりの要害性があったようである。
この「井川」という地名自体がその状況を良く表しているものと思われる。
小笠原氏は貞宗の代、南北朝の騒乱で足利尊氏に与して活躍し、その功で建武2年(1335)に守護として赴任、当初は伊那郡松尾館に居たが、信濃の中心地であるこの地に館を構えたとみられる。
しかし、実際は築城はもっと古く、「小笠原系図」で、貞宗の子、政長が元応元年(1319)に井川館に生まれたと記されているので、鎌倉時代末期とも考えられる。
付近には「古城」、「中小屋」、「下の丁」、「中の丁」などの館や政庁に係る地名が残り、城下町も形成されていたものと思われる。
戦国時代になると、小笠原氏は来るべき戦国の騒乱を予期し、より要害堅固な東3qにある山城の林城に本拠を移した。
その後、徐々にこの城は使わなくなったのではないかと思われる。
(現地解説板を参考、航空写真は国土地理院の昭和50年撮影のもの)