松本城
日本の城の代表格として、姫路城などと並んで必ず名前が出る城である。
松本市のシンボルであり、当然、日本百名城の1つ。
やはりこの城、何と言っても現存の天守群である。

5層の現存天守は姫路城とこの松本城だけ。
ちなみに国宝天守も姫路、犬山、彦根とここだけ。それほど貴重なものである。

1936年(昭和11年)天守・乾小天守・渡櫓・辰巳附櫓・月見櫓の天守群5棟が国宝保存法により当時の国宝(旧国宝)に指定され、戦後、1952年(昭和27年)文化財保護法により改めて国宝に指定されている。

この天守群の存在がこの城の価値であり、この天守群がなかったら、ここもありふれた普通の城址にすぎないだろう。
天守群を除けは、城としての価値はそれほど高いとも思えない。

しかし、この天守群もかつては解体の危機にあったというが、市の有志の熱意で大切に保存されてきている。

多くの天守が明治初期の狂気じみた政策で解体されてしまっているが、この天守群を残したのはまさに松本市民の英断の賜物である。
この城 は典型的な平城であり、本丸の南西部に天守群を置き、北側以外を二の丸が囲み、さらにそれを三の丸が囲む。
いずれも曲輪は四角形であり、三の丸の外側、北に2箇所、東西に各1つの馬出があった。
形式としては梯郭輪郭併用式という縄張り。近世の平城であり、堀は全て水堀であり、堀に面した部分はほとんど石垣である。

この松本城の見所、やはり天守群である。
5重6階の高さ29.4mの天守を中心にし、北に高さ16.8mの乾小天守が、その間を渡櫓で連結、大天守の東に辰巳附櫓と月見櫓を連結する複合連結式天守という形式である。

下から見上げると圧倒的な迫力である。
しかし、素晴らしい惚れ惚れする均整の取れたプロポーションを持つ建物である。
しばらくぶりに入ってみたが、天守内部は400年前の光景がそのまま広がり、時間の重みを感じさせる。
さすがに階段は急であり、上り下りが怖いくらいである。

望楼型天守から層塔型天守への過渡期的な形態が見られるとか言うが、この点については良く分からない。
なお、外観が黒く、これが烏城という別名になっているが、黒壁は秀吉の大阪城天守閣に習ったものであるという。

一方、江戸時代の天守は姫路城に見られるような白壁が主体という。
その天守の建造年であるが、諸説あるようであるが、もともとの天守は乾小天守であったという説もあり、大天守はもっと後世のものとかともいう。
どうも「文禄2年(1593)説」が有力のようであるが、さて真実は?
ちなみに付櫓と月見櫓は、寛永10年(1633)に増築されたものという。
この天守についてはかつて傾いたことで有名である。
加助騒動の首謀者多田嘉助が磔刑にされ処刑された時の怨念で傾いたという伝説があるが、これはウソ。
天守が傾き始めたのは明治になってからである。
その原因は、解体修理結果から、軟弱な地盤に加えて、天守の支持柱が老朽化し、建物の荷重に耐えられなかったためと推測されている。

北西側から見た天守群 東から見た天守群 南側から見た天守群
本丸への正門である黒門 二の丸の入り口、太鼓門 二の丸御殿跡。 本丸東側の堀
二の丸東側の堀 天守内の急な階段 天守最上階の守護神二十六夜神 小天守最上階の花頭窓

本丸への正門である黒門は二重の門で内側の一の門は昭和35年に復元され、二の門は平成2年に復元された。
二の丸の太鼓門は文禄4年(1595)ころ築かれた登城の合図の太鼓を鳴らした場所という。平成11年に復元された。

城は、戦国時代、永正年間、来るべき戦乱を予期した信濃守護小笠原氏が平城の井川城から、要害堅固な山城の林城に根拠を移すが、その防衛網を担う支城の一つとして築城された深志城が前身という。
小笠原氏は武田氏に駆逐され、松本地方は武田領となるが、武田氏は地域支配の拠点として、山城である林城は不便であるため廃城とし、深志城を拠点城郭とし、拡大整備したという。
武田氏が滅亡すると、1582(天正10)年、徳川家康の元に亡命していた小笠原貞慶が旧領に復帰。深志城に入り、松本城に改名。
しかし、1590(天正18)年、小田原の役後、徳川氏は関東に移され、徳川家臣の城主小笠原秀政も古河へ移る。

それに代わって石川数正が入城、数正と子康長の2代の時に、天守が造られ、城と城下町が整備された。
大久保長安事件で石川康長が改易となると、城主に再度、小笠原秀政が復帰、その後、松平氏、水野氏、再度、松平康長にはじまる戸田松平家(戸田氏)が城主を務め、明治維新を迎える。
この間、1727年(享保12年)本丸御殿が焼失するが、幸い天守群は類焼を免れる。
その後の藩政務は二の丸御殿で行われたという。
明治維新後、1872年(明治5年)に天守が競売にかけられ、一時は解体の危機に瀕するが、市川量造らによって買いもどされて解体を免れる。
1903年(明治36年)から10年かかりで「明治の大修理」が行われ、1950年(昭和25年)から5年間かけて「昭和の大修理」として解体修理が行われている。