小岩嶽城(安曇野市穂高有明)
この城に行ったのは単に前の道をとおりかかり、偶然、城址の案内があったからにすぎない。
小岩嶽城という名前は知っていたが、どんな城だったかは全く記憶になく、名前が険しい山にある城のようであるので、どうせとんでもない山城じゃないかと思っていた。
しかし、実際はそんな先入観を根底から覆すような城であった。

城址は公園になっており、駐車場前には観光用の門が建っている。
これは城址とは全く関係はないが、結構、時代考証もしっかりとしており、戦国時代を髣髴とさせるものであった。
一時代前なら石垣造りの白壁の門が建てられたであろう。

この場所も城域であったのであろうが、肝心の主郭部はここから西に向かう谷間の最奥にあった。
あれた道を歩いて行くと土塁があり、虎口が開いている。
土塁の前後には堀がある。
土塁を造る時に土を掘った跡でもあるのであろう。
虎口には石があったので石垣造りであったようである。

郭内は3段ほどに曲輪が形成され谷奥を行くと山城の部分に行けるようであるが、時間が無く山城の部分には行かなかった。
杉林のじめじめした場所であり、多くの人が戦死した城であり、墓も建っている。
非常に不気味である。しかも、休日なのに誰もいない。

駐車場までの道を戻ると、途中に藪に埋もれた堀があった。
さらに東に行くと、段差があり、曲輪の跡とも思える場所がある。
南側の尾根先端に展望台があるというので行ってみる。

駐車場前に建つ模擬門。結構戦国時代らしい雰囲気がある。
秋の紅葉に映えて美しい風景であった。
門から西の谷の奥に歩いて行くと主郭部の土塁があり虎口が開く。
何となく不気味な雰囲気がある。

特にそこまでの間にも城郭遺構らしきものはないが、下の平地の南側に土塁らしきものがあり、東に延びていた。
この展望台のある場所からの眺めは良い。当時も物見台程度のものはあったのであろう。

仁科氏から出た一族、古厩郷を領した古厩氏の城であるが、居館は別の場所にあったともいう。
この城は緊急時の避難城であり、仁科氏領土の南を守る城であったようである。
武田氏の侵略に果敢に抵抗し、悲劇的な最後を遂げた城と聞いていたので、高い山の上にある尾根式の城郭ではないのかと思っていた。

しかし、全く予想外であり、高い山の上には物見台程度の小規模な遺構があるだけで、麓の谷間の扇状地に段々上の曲輪を置き、土塁、堀を多重に巡らした部分を主要部にした城であった。

東方向のみが開け、残り3方は山であるため、東方向のみに防御を集中すればよい効率的な城である。
山上の詰の城と麓の根小屋からなる「根小屋形式」の城郭は信州に多いが、この城は山上の城は余り発達せず、麓の根小屋が極端に発達した城と言える。

これは、東方向のみに防御を集中すればよいという館の立地条件によるものであろう。
この点、この城は塩田城にそっくりである。

谷の一番奥が城主の居館であり、扇状地上に広がる東側の緩斜面に家臣の屋敷があったようである。
城域は今の小岩岳集落も含めた広範囲にわたるらしい。

現在も集落内には空堀の一部と地割が見られると解説板に書いてあった。
解説板によると「本郭は約1平方キロメートル、その平は南北138m、東西40m、北に天満沢、南に富士尾沢と空堀を控えた自然の要害です。全面に三段の郭、山頂に至る間にいくつかの帯郭・堀切を設け、水源もあり矢竹も自生し、峯の物見は安曇野を一望できます。」とのことである。

虎口の東側には堀がある。 虎口には石があり、石垣造りであっ
たようである。
土塁の裏側(西側)も堀状になっている。 これは庭園の跡であろうか?
さらに奥に向かうと一段高くなり
2段目の曲輪がある。
2段目の曲輪の山側にはさらに曲輪
がある。

右の道が山城に続く。
模擬門の南側の平地南に土塁列が 城を囲む南の尾根にある展望台か
らは安曇野が一望の下に眺められる。

城が築かれたのは戦国時代前期、仁科氏によるものと思われる。
この城も武田氏の侵略の目標となり、天文20年(1551)10月に攻撃を受け、」さらに翌天文21年(1552)8月に再度攻撃を受け、1ヶ月にわたる戦闘の末に落城し、城主の古厩氏は自害し、500人以上が戦死あるいは捕らえられて奴隷として売買されたという悲劇の城である。

この時の伝説として、山の手からの水の手を武田氏に漏らした老婆の話や落城の日に子供相撲を奉納していたが、以後、その日は必ず雨が降るため「戦死した武士の涙雨」といったというような話が伝えられており、人々に強い印象を与えたようである。
信濃の人の多くは武田信玄を嫌うが、このような話が長きにわたり伝えられ、遺伝子にまで情報として記憶されているのかもしれない。
ただし、落城はしても古厩一族は滅亡せず、残った一族は武田氏に従い川中島の合戦にも出陣している。

真田氏のように一族の滅亡だけは避けるように暗黙の了解で一族は二股をかけたのであろう。
同じことは須田氏や井上氏も行っているので戦国の常識であったのかもしれない。
なお、この城も落城を以って廃城になったわけではなく、武田氏に従った古厩氏が継続して居城していたようである。

武田氏が滅亡すると古厩氏はこの地を復帰した小笠原氏に従う。
しかし、天正11年(1583)古厩氏の謀反を疑った小笠原貞慶が小岩嶽城に攻撃をかけ古厩氏を滅亡させ、この時に廃城となった。

小笠原貞慶が古厩氏を始めとする仁科一族を攻撃した理由は、かつて小笠原長時に同盟していた仁科一族が武田氏に付き裏切り、これが没落の最大要因となったため、恨みを持っていたためと言われる。

いずれにせよこの小岩嶽城は数々の怨念が篭る城と言えるだろう。
あの城址の不気味さもこれらの怨念が醸し出すものかもしれない。