木島平の城

大塚城(木島平村)36.8545、138.4043
飯山市街地と千曲川を挟んだ対岸、東岸の山側が木島平村である。
この村は南東の志賀高原から流れ出る樽川、馬曲川の扇状地に発達した村である。

↑北側、木島平村役場側から見た大塚山、扇状地内の独立した丘である。

かつては、中野から千曲川の東岸に沿って長野電鉄木島線が走っていたが、自動車の普及、過疎化等で客足が減少し廃線となってしまった。
松代を通っていた屋代線同様、沿線の人口も少なく、採算が見込める路線とは思えなかったのだが、廃線により益々過疎化してしまったような印象を受ける。

この大塚城はその扇状地の中にいくつかある独立した丘の最大の丘「大塚山」にある。
標高は364m、扇状地の中にポツンと存在する丘なので遠くからでも、「あそこか」と直ぐに分かる。
場所は木島平村役場の南約300m、木島平中学校の西側約300mである。

丘と言っても比高は扇状地上部側から約30m、下部側からは約40mあり小山といった方が妥当かもしれない。
なぜこんな扇状地にけっこう高い丘が残されたのか興味あるところである。

@東側から登る道沿いの堀切と土壇。 A頂上部は広い平坦地である。

凸凹した山の周囲が扇状地の堆積物で埋まってできたのだろうか?
この付近にはそんな丘がいくつか存在する。
かつてはこの丘は古墳と思われていたそうである。
もちろん、こんな巨大な丘、人工的に造成できるものではない。自然物である。
遺物も出土するというので丘上に古墳か何かがあったようである。

しかし、城としての伝承はないようである。
でも、山頂部の平場Aとその周囲の帯曲輪@、これはどう見ても城郭遺構である。

この丘は天然の物見台や狼煙台としてはうってつけである。
ここを利用しない訳がない立地である。
現在、木が生えていて眺望は開けないのが残念である。

城を置くにはいい場所のように思えるが、ちゃんとした城ではなく物見程度であったのは、この丘が独立丘であり、包囲されたら逃げ場がないからと思われる。
そのため、城の伝承が残らなかったのであろう。
やはり城は危険に陥った時に脱出できる経路を持っていることが必要である。
毛見氏あるいは市河氏が関わるのではないかと思われる。
(宮坂武男:信濃の山城と館 を参考にした。

毛見氏館(木島平村往郷)36.8430、138.4142
木島平村役場から県道354号線を南東に約2q行くと県道451号線に入り、水穂神社がある。
館は神社から300mほど南西に行った樽川の東岸の段丘上にある。
土塁が残っているとのことであるが、ほとんど土膨れ程度のものに過ぎない。

↑ 建物の右側が土塁跡というが、地膨れ程度に過ぎない。

果たしてこれが遺構なのか?
周囲の地形を見てもどのような館だったかは全く想像もできないくらいである。
毛見氏はこの地の土豪であり、地頭を勤めていたという。
戦国時代は高梨氏に従っていたようだが、いつしか名前が登場しなくなる。
(宮坂武男:信濃の山城と館 を参考にした。