山口城(飯山市旭)
飯山市役所の北西3q、国道292号線(飯山街道)が飯山盆地から山地に入る入り口部、北側の山にある。
大城、小城そして居館と推定されるお屋敷からなる複合城郭である。

高梨氏一族、岩井弥六郎直信が永正年間(1504−20)に築城したというが、岩井氏は泉氏の流れという説もある。
武田氏の侵攻を受け、岩井氏は上杉氏に従う。
今に残る遺構は、武田氏の侵攻に備え上杉謙信が、飯山城の防衛、越後との交通路を確保するために整備した姿である。
天正年間の城主、岩井備中守信能は飯山城代を務め、上杉景勝の会津移封に従いこの地を去り、廃城となったという。

大城
標高582mの山頂部に主郭を置き、北西、北東、南に延びた尾根に曲輪を展開させる。
上から見るとY字形をしており、それぞれの尾根に展開する城域は祠のある最高位置の本郭を中心としてそれぞれ150mほどの長さになる。
大城へはすぐ南の標高510m地点まで車道があり、4WDなら問題なく行くことができる。


↑ 北東下のお屋敷から見た大城

終点に鳥居があり、その付近には平場@がある。
おそらくここも城域であろう。
ここから北に延びる尾根を登るのであるが、この尾根、幅が広い。
長さ150m高度差35mにわたり広い尾根が続くのであるが、だらだらしているだけであり平場はない。
非常に不思議である。

しかし標高555m付近にいきなり巨大な堀Aが現れる。
両側に土塁を持ち、幅は15mほどある。
土塁間が開き、堀に下ると土橋があり、土橋の脇は石で補強されている。

そこを越えると三郭Bである。65m×20mの広さがあり、南に若干傾斜している。
西側に土塁がある。この土塁は風避けではないかと思う。

北側が一段高くなり、その先に堀Cが現れ、そこを過ぎると二郭である。
二郭は40m四方ほどの広さであるが、台形状をしており、内部は2段になっている。
石塁Dがあるが、曲輪の縁ではなく、中央部にあり、非常に中途半端な印象を受ける。

@南に延びる尾根先端の平坦地は曲輪か? A南から尾根を登ると巨大な土塁を持つ
堀が現れる。
BAの堀を越えると三郭、西側に土塁がある。
C三郭の北端に堀があり、ここを越えると二郭。 D二郭内部には石塁があるが、位置が中途半端 E本郭内部、南側m東側に土塁が巡る。

この先に本郭Eがある。
現在はそのまま土塁間に開いた入り口からストレートに入れるようになっているが、本来は西側の帯曲輪を迂回して西側から主郭に入ったようである。
本郭西側が一段、低くなり切岸に石段が埋もれているのが確認される。
主郭は35m×25mほどの広さ。西側以外には高さ1.3mほどの土塁が覆う。
ほぼ中央部に城主、岩井備中守信能を祀る祠がある。
多くのHPなどを見ても、この城については大体、この部分までしか紹介されていない。

しかし、まだまだ、城域は広がっている。残念ながら、とてつもない藪である。
主郭から北西に4本の堀切群F、G、Hがあり、山続きの西側を厳重に遮断する。
これが北西尾根遺構である。
1本目の堀切Fは本郭から高度で13m下にあり、深さは5mほど、2番目の堀切Gは深さが6mほどある大きいものであり、さらに深さ4mほどの堀切が2本ある。
その先が西に続く山につながる。
この厳重な4本の堀切は西側の山方面からの攻撃を極度に警戒していることが分かる。

F北西尾根の1本目の堀 G北西尾根2本目の堀 H北西尾根3本目の堀
I北東尾根の遺構は平場が重なるだけ J北東尾根を東に下ると巨大横堀がある。 KJの堀のさらに東下にもう1本の巨大横堀が。

いずれの堀切も斜面部は竪堀となる。
一方、本郭から北東に延びる尾根にも遺構が存在する。
しかし、この方面の尾根は山に続いている訳ではないので、段々状の平場Iから構成されているだけであり、面白みに欠ける。
曲輪は本郭からは高度で26m下の地点となる。

ここからさらに、ここから東に下ると2本の巨大横堀J、Kが現れる。
本郭からは高度で90m下の位置である。
ただし、そこまで行く斜面、これは藪地獄である。
突破するのに時間と体力を要する。
この2本の横堀、幅は15〜20mほどあり、南北に150mほどに渡って途切れ途切れに続く。
しかし、すさまじい藪で全貌が把握できない。
この横堀の意味であるが、北側に位置する小城との連絡路ではなかったかと思う。
堀の延長上が谷津を挟んで小城なのである。
しかし、この横堀、南側が中途半端に終わっている。未完成品であったのかもしれない。

御屋敷
大城主郭から真東、直線で350m、高度差180mの場所に御屋敷という場所がある。
ここの標高は400mほどである。
直径50mほどの多角形をした盛り上がりであり、現在は畑になっている。
南側に虎口が残る。

かつては周囲を土塁が覆っていたというが、現在は崩されてしまっている。
西側には堀が存在したようである。

東側5m下に馬場という平場がある。
55m×30mほどの広さである。
この構造と伝承からして間違いなく、ここが居館だったようである。

大城の大堀の東下から見た御屋敷、右側の森が馬場。 @御屋敷内部は畑、周囲にあった土塁は崩されている。

A御屋敷から見た東下の馬場。
ここも畑となっている。
B御屋敷西側のこの道は堀跡である。 C御屋敷の南側、曲輪上まで4mほどある。


小城

大城の主郭から直線で北東400m、御屋敷から北250mの位置に小城がある。
規模は大きく見積もっても150m四方ほどである。
谷津を介して大城のある山、御屋敷から分離されている。
支城ではあるが、結構独立性が高い。

北西から延びた尾根の末端部分であり、標高は440m程度。
さすがにここに行く者は少ないようである。
最高箇所の本郭には祠があるが、でも、そこまでに行く道が崩落している。
過疎化に伴い、祠のケアもできなくなっているのかもしれない。

結論から言えば、この小城の方が、大城よりメリハリがあり素晴らしい。
この城には入り口が分からず、背後にある堀切@から入った。
北西の尾根続きがこの堀切で分断されているが、堀底は城側からは深さが7mほどある。
さらに深さ5mほどの堀Aがあり、そこを越えると最後は深さ9mもある巨大な堀B、Cが横たわる。
まるで谷のように見える。
斜面は長大な竪堀となって下っている。

息を切らして堀を登ると主郭西下の二郭に出る。
ここまで3本の堀切を越えるのであるが、体力の消耗は激しい。

主郭背後の曲輪は30m×20mほどの広さ。
ここが二郭なのであろうか?
東下に竪堀Eが下る。
一部に石垣が見られる。
この竪堀が登城路であったのかもしれない。

ここから主郭を目指すのであるが、この曲輪から主郭上までは高度差で9m、しかも切岸Dは急勾配、とても登れるものではない。
東側に迂回しながら何とか本郭Fに到達。

本来は二郭から本郭の南下の帯曲輪を回り本郭に入ったのではないかと思う。
本郭は35m×25mほどの広さ。西側と南側に土塁がある。曲輪内には祠がある。
東下に曲輪がある。

@城最北端の堀切。 A2番目の堀切 B主郭部直下の堀は長い竪堀となる。
C主郭直下の堀西側は崖状となる。 D B、Cの堀を登ると二郭。
東に高さ9mの本郭の切岸が聳えたつ。
E二郭から東に下る竪堀は登城路だろうか。
F本郭内部、平坦であり、石社がある。 G 東端の曲輪から見た千曲川方面、
 下の畑が居館跡と言われる。
東から見た小城

本郭からは南側をジグザグに降りる道があり、その道を行くと東端に物見のような曲輪は存在する。
この尾根の先端下の畑Gが屋敷跡という。
この小城は「家老城」とも言うそうであり、岩井氏の家臣が守っていたのかもしれない。
(日本城郭大系、宮坂武男「信濃の山城と館」を参考にした。)