神戸城(飯山市瑞穂神戸向山)36.8831、138.4208
神戸というとあの大都市「こうべ」を思い浮かべると思うが、この神戸は「ごうど」と発音する。
兵庫県神戸市とは全く正反対の山間の田舎である。

↑北西側、神戸地区から見た城址。鉄塔右側の鞍部のようになっている部分。
実はこの神戸城の堀切、切通しの道路になっており、一度、そこを走っているのだ。
家に帰って調べたらそこが堀切を通っていたことがわかり地団駄踏んだのだが、後の祭り。それから数年、この付近を通ったのでリベンジしたという訳である。
しかし、規模からしてわざわざリベンジするほどの城ではない。
でも、そこは執念深い、嫌らしい性格である。
城の規模などは尺度ではない。

ということで再度、その切通しに行ったのだけど・・。
やはりリベンジするほどの規模じゃない。
城は小菅神社のある山から南西に派生する尾根の末端部近くの尾根上にあり、標高は402m。

@主郭はほぼ正方形。南側、西側に低い土塁がある。 A主郭(正面)西側の堀切。 B主郭東側の堀切は市道の切通しに利用されている。

約10m四方の曲輪@があり、その前後に堀切A、Bがあり、後ろの堀切Bが道路に利用されている小さいものに過ぎない。
でも主郭である曲輪、四角で土塁や虎口もあり、パーツは一応そろっているのである。

現在、切通しBは主郭側から約4mの深さがあるが、かなり掘り下げられているようである。
前(西側)に位置する堀切Aの先は細長く緩い傾斜を持った尾根が続いているが、そこには明確な城郭遺構はない。
来歴は不明であるが、付近にある犬飼館、犬飼山城の物見であろう。
(宮坂武男:信濃の山城と館 を参考にした。

犬飼館(飯山市穂高)
飯山市中心部から北東約4q、千曲川東岸県道38号線沿いに「菜の花公園」がある。
ここは童謡「朧月夜」の舞台である。
5月の連休時期に「菜の花」が満開になり、童謡に歌われる見事な風景がそのまま目の前に広がる。

↑「菜の花公園」から見た上流飯山市街地方面。犬飼館は左下に位置するが、菜の花に隠れて死角になっている。
 川は当然、千曲川。中央の山は飯縄山。

2010年、高校生だった娘とそこを目指した。
県道38号線は菜の花公園の駐車場に入ろうとする車で大渋滞。
公園の南側、渋滞の列の車中からふと左手を見ると、段々状の岡が見えるではないか。

一目見て館跡と判断できる形をしている。
しかし、渋滞の列から抜けられず、泣く泣くパス。
↑の写真@は東側を走る県道39号線から見た館跡。この段差がそそる。

それから10年、ようやくリベンジの時が来た。
館のある岡、西に樽川が流れ、すぐ北で千曲川に合流する。
北側、菜の花公園のある岡との間には「彦四郎川」が流れる水田地帯となっている。
この2つの川が水堀の役目を果たし、湿地帯に囲まれていた島状地形である。

館は1辺約100mの規模の独立丘を2段に削平している。
上段部が本郭Bであり、50m×40mほどの歪んだ方形をしており内部は畑、北東端に八幡社が建つ。

周囲は鋭い切岸になっており、北側は高さ8mほど、その他の部分は5mほどある。
その周囲の畑が二郭に相当する。
虎口Aは西側に開く。

畑にはなっているが遺構はほぼ完存状態で残る。

ここも典型的な小領主の平常時の居館跡である。
館主は犬飼氏と言われるが、室町時代は浅野氏、次いで高梨氏の領地になり、犬飼氏の名は見えなくなる。
高梨氏時代は家臣の草間氏が領有し、その家臣がいたらしい。
一方、地元の伝承では泉氏が築き、家臣の森氏が代々居住したが、永禄年間に武田氏の攻撃を受け上杉氏を頼ったという。
(宮坂武雄「信濃の山城と館」を参考にした。)
A本郭西側に開く坂虎口 B本郭内部は平坦で畑になっている。北端に八幡社が建つ。

静間館(飯山市静間中町)
JR飯山線、北陸新幹線飯山駅の南西約1qに城南中学校がある。
城南中学校と言ってもピンと来なかった。

管理人の世代にとってはここ静間は「飯山南高校」があった場所として記憶に残る。
昔は女子高だった。
この高校、スキーの超名門だった。
何しろインターハイで10連勝くらいしたはず。凄い実績である。

その後、男女共学になったが、スキーの強豪校は変わらず、何人もの冬季オリンピック選手を輩出した。インターハイスキーでは女子だけで20回優勝しているという。

しかし、そのスキー名門校も過疎化と少子化の波で飯山北高校、飯山照丘高校と統合され、「飯山高校」になってしまった。
悲しいことである。卒業生も残念の極みであろう。
その飯山南高校の跡地にできたのが城南中学校である。飯山南高校は本来は飯山駅南東の現在の日赤病院の地にあったが、校舎の老朽化のため1992年にここ静間に新校舎を建て移転していた。

その東に静間神社がある。その境内及び周辺が館跡である。
多分、飯山南高校のスキー選手もここでトレーニングをしていたのではないかと思う。


この場所は西の山から千曲川に流れ込む清川の扇状地の中段部にあたり、清川沿いの南側にある。
清川が水堀の役目を果たし、川面から館跡までは約8mの比高がある。

神社境内の主郭部Aは館跡は60m×40mほどの広さがあり、社殿が北西端の土塁B上に建つ。
この土塁は館の西側から南側を取り巻いていたようであり、南側にも一部、痕跡が残る。
その外側には堀があったようである。

さらにその外側には外郭があったのではないかと思われる。
北側は清川があるため土塁は無かったようであり、弱点部にのみ土塁と堀を巡らすという合理的な構造になっている。
東側は扇状地の末端側となり急勾配であるため、切岸だけの防御であったようである。

@静間神社の参道。 A神社境内。北西端残存土塁に社殿が建つ。 B北西側見た社殿。右下には堀があったという。

典型的な小領主の平常時の居館跡である。
領主としては地元では静間小太郎という名が登場する。
この者は地名を姓として名乗っているものと思われ、本来の姓が何なのか諸説あるようである。
静間氏は保元の乱に出陣した信濃の武家の中に名が見え、その後は越後の城氏に従ったらしい。
城氏が木曽義仲に敗れるとその名は登場しなくなる。
室町時代のこの地の地頭は小笠原氏であることが市河文書で分かるが、この地を高梨氏が支配したかこともあり、その当時の館主がどの系統の者であったかはっきりしないという。
(宮坂武雄「信濃の山城と館」を参考にした。)

北原館(飯山市静間北原)
静間館の北東約100m、清川を渡った対岸が北原館跡である。
館跡は集落の宅地になっており、清川に面した部分の切岸にかろうじて館の雰囲気を残すのみである。

主郭は約50m四方の大きさで3方が堀、南側が清川に面していた。
その外側を「コ」字形に外郭が覆う梯郭式であり、規模は約110m四方と推定される。
現在、堀は大部分が道路になっているという。
静間館と清川を挟んで北側にあるので静間館の出城を兼ねた一族または家臣団の館ではないかと思われる。
(宮坂武雄「信濃の山城と館」を参考にした。)
@主郭部の南側の切岸。電柱左付近に堀があったらしい。
水田も堀跡。右手が清川の谷となる。
A北原集落内のカーブする道路が堀跡。
左側が主郭部。


小佐原館(飯山市小佐原)

JR飯山線「北飯山駅」の北西約1.2q、「藤ノ木」十字路で国道292号線から県道409号線が北に分岐する。
県道409号線を300m北上し「皿川」を渡ると右手に「柳原地区活性化センター」があり、その東の岡に「やなぎはらライスセンター」の精米所がある。
この南側に皿川に面し林がある。
そこが小佐原館である。

館がある岡は北から南に半島状に張り出し、その南端に館がある。
すぐ南が皿川であり、川からの比高は10mほどである。

ライスセンターの南約100mに林があり、そこが館主体部であるが、丘続きの部分には堀が存在していたようである。
主体部は35m×16mほどの広さであり、内部は藪である。写真を撮ってもさっぱり分からない。
一部土塁が確認できる。皿川に面した部分は崩落しているともいう。
館としてはこれだけであるが、これだけでは何とも中途半端である。北側のライスセンターに続く部分が外郭部のような感じもするが真実は如何に。
「長野県市町村誌」では天文年間(1532-54)岩井直信の次男、小佐原源蔵信次が築いたとしている。
小佐原氏は後に上杉景勝に従い会津に移り廃城になったという。(宮坂武雄「信濃の山城と館」を参考にした。)
@ライスセンターから見た主郭部(林の部分)
手前の畑が外郭か
A北側の堀越しに見た主郭部の切岸。内部はひたすら藪!