日岐氏の城

日岐城(生坂村日岐)
平成の大合併で長野県の村も随分と少なくなった。
現在、長野から松本までの間、国道19号線を走ると村はこの「生坂村」しかない。

この沿線はほとんど山間である。
明科で梓川と高瀬川が合流し犀川となり、犀川がこの筑摩山地を大きく蛇行を繰り返しながら抜け、川中島まで流れる。
犀川に沿って国道19号線が走る。
この国道19号線、かつては長野ー松本間の幹線道路であったが、今は長野自動車道に代わり、交通量は少ない。
しかし、カーブは多いものの、道路は広く、景色も良いので抜群のドライブ道路である。
時速80qで快適に飛ばすことが可能である。このため、管理人は長野自動車道、明科〜長野間は利用しない。

国道19号線を利用する。国道19号線は我が家の裏を通っていることもあり、長野自動車道を利用するのに比べても時間的に違わないのである。

日岐城がある生坂村地区は犀川沿いでも最も景色が良い。生坂村の中心地、役場のある地区は犀川が大きく蛇行する場所にあるので、国道19号線は生坂トンネルで直線化している。
その生坂トンネルの松本側を抜けた場所に生坂ダムがあり、ダム湖が広がる。
そのダム湖に半島状に西側から突き出た山が日岐城である。
山の南から東、そして北に犀川が大きく蛇行する。
犀川が水堀の役目を果たす。
この城、簡単に行けそうであるが、そうは行かない。なかなか難物である。

行く道は2通りあり、1つは東の麓、裏日岐地区からから登る道、この道が大手道であり、東の山麓に居館があったらしい。
でも、この道、荒れているようである。
中腹に大手曲輪があり、そこを経由しても先端の物見台まで比高で100m以上ある。ちなみに城は標高600mから630mにかけて長さ350mにかけての尾根にあり、ダム湖の標高は492mである。

↑北東側、国道19号線生坂トンネル入口前から見た城址。麓の公園が日岐氏館跡。

もう1つのルートは背後西側からアクセスする方法、こちらかは遊歩道が延びているとのことであり、こっちは搦手に当たる。
こっちの方が楽と考え、躊躇なく選択。しかし、甘かった。
この山の西側、北陸郷(きたりぐごう)地区、結構広く、民家や畑もある。

ここからの眺めも抜群である。
ダム湖から生坂中心部、松本方面、北アルプス、日岐大城、素晴らしい眺めである。
買い物等、暮らすのはともかく別荘地としては理想的環境である。
犀川からの比高は200m以上あるが、車で登れる。

この地区から城までの距離は直線で600mほどあるが、一見、簡単そうなルートである。
しかし、問題は標高差であった。
背後の北陸郷地区の標高は700m、城の標高は600mほどである。
したがって比高100mの道を下ることになる。
城はかなり低い場所にあるのである。
北陸郷地区から見れば穴城ということである。

↑南側、国道19号線から見た城址

この北陸郷地区にも城の背後を守るような施設があった可能性がある。
土壇のようなものはあったが、古墳のようでもあり不明確である。
穴城状態であるため、東の麓から登っても疲労度は同じということである。
遊歩道と言っても荒れている。それほど行く人がいないのであろう。

@尾根を下って行くと木橋がかかった堀切に出る。 Aさらに進むと本郭部が聳え、その袂に堀切がある。 Bここが本郭であるが、・・寂れている。来る人はいるのか?
C本郭の東下には深い堀切がある。 Dさらに東に向かうと二郭。 Eさらに東が三郭。鍛冶がいたと言うが。
F最東端が物見台であるが、周囲が藪で・・。 二郭から見下ろした南の犀川、生坂ダムのダム湖。
道路は国道19号線。
日岐城から見た東の山にある詰めの城、日岐大城。
実際に小笠原貞慶に攻められ日岐一族はここに籠城する。

ともかく遊歩道を進んでみる。直線距離は大したことはないが、山道を下るのは登ると同様疲れる。
何しろ落ち葉で道が埋もれ滑って転ぶのである。
城までの道は想定以上に長い。
ようやく、尾根に電線を通すために拡張した堀切に出る。
ここから城域である。

さらに2つの堀切@、Aを越えると主郭部が目の前にそびえる。
遊歩道になっているので堀切に木橋が架かっているのがありがたい。主郭上まで20mほどある。

この上が本郭Bであり、東屋もあるが、草茫々。
広さは一辺30mの三角形をしている。
標高は626.8m、東下に堀切Cがあり、その下が二郭D、さらに東下に三郭Eが続く。
三郭の東に大手曲輪に下る道があるが、荒れていて行くのをやめた。
一方、東側は少し登りになり先端に物見台Fがある。
標高は604mであるが、行くまでに倒木があり、木が延びていて何もみえない。

城は仁科一族、日岐氏の城である。
もちろん地名を取って名乗ったものである。
仁科一族は守護小笠原氏に協力していたが、戦国時代、武田氏の侵略を受けて武田氏に従属、武田氏滅亡後、復活した小笠原貞慶に従うが、先代長時を裏切った恨みによる復讐にあって攻撃を受ける。
しかし、山岳城砦に籠る日岐氏の抵抗は激しく、最後は上杉氏に亡命し従する。
その後、小笠原氏に従属するが、何故かあの復讐鬼貞慶は日岐氏を皆殺しにせず、小笠原氏の家臣となって続く。
なお、上杉氏の家臣となった一族の者や帰農した者もいたという。

日岐氏館(生坂村裏日岐)
日岐城の東の山麓付近が居館の地という。
現在はダム湖の水面がすぐそばまで迫っているので水辺にあるように見えるが、元々は川に面した段丘上にあったことになる。
現地に行ってみると館跡はただの果樹園、民家と公園であり、何の雰囲気もない。
それより一段高い「正福寺」跡地の方が場所的には良さそうであるが、ここは山間、山との位置関係から日照の問題があるのかもしれない。

館跡の標識が建つ場所はブドウ畑 一段上の平坦地が正福寺跡、ここの方がよさそう?

小屋城(生坂村上生坂区)36.4281、137.9395
この生坂の中心地、村役場がある場所では犀川が大きく西に蛇行する。
かつて犀川に並行して走る国道19号線も川に沿って大きく西にカーブしていたが、現在は生坂トンネルができたのでずいぶん走りやすくなった。
その生坂トンネル、そのほぼ真上(ちょっと西)に位置するのが小屋城である。

↑ 南側日岐館前から見た小屋城、手前には犀川が流れる。山裾には国道19号線の旧道が走る。
それほど高くは見えないが、比高は約180mある。尾根を右に行くと日岐大城である。


2020年5月にチャレンジしたが、木舟城、日岐城を巡った後で既に体力が尽き、断念した。
それから2年、2022年のGWに「らんまる殿」の同行を得て攻略することができた。

犀川を挟んだ南側が日岐城である。
この2つの城で犀川沿いの街道を抑えているのである。
この城も仁科氏の流れを組む日岐一族(丸山氏とも言う。)の城である。


城は生坂ダムのダム湖からは約180mの比高があるが、城の西の万平館のある台地(標高620m)からは比高約50mに過ぎない。
台地東端からは京ヶ倉、日岐大城に登る道があるが、獣避けの柵を開けて入る。
この道は小屋城の北側を回り、登山道の始点となる小屋城東の鞍部(標高611m)に出る。
道沿い南側に平坦地があるが、ここが居館跡という。ここから登山道と反対側に登って行くと城址である。
したがって、万平館の避難城であるとともに日岐一族の最終の詰の城である日岐大城への逃避口を確保する役目もあるだろう。

実際、天正11年(1583)小笠原貞慶に攻められた時、日岐一族は日岐大城に避難し、一族の滅亡を免れるが、その史実から小屋城が避難の安全確保という所期の目的が機能したと言えるであろう。

城は東西2つの部分からなり、東側が主郭部である。
この主郭部の切岸が凄い。
切岸の勾配は45°はある。
斜面を這いながら登る。東側に帯曲輪と堀切@があり、腰曲輪Aがありその上が主郭Bである。
主郭は24×13mの広さがあり、削平度は良好である。

ここから西を見ると驚き、深さ10mの2重堀切CDがある。
この堀切の西側に堀切と細長い曲輪Eがあり、さらに登りとなり、最高箇所に土壇がある小曲輪Fがある。
ここは標高673m、主郭より若干高い。
その西は尾根がダラダラとした下りとなり、2本の堀切GHがある。

@主郭東下の堀切と曲輪 A主郭直下の腰曲輪 B主郭は広く、削平度も良い。
C主郭脇から見た西下の大堀切、深さ約10m、まるで谷である。 D堀切の西側から見た主郭の切岸 E大堀切の西側には曲輪が続き、堀切がある。
F城西側の最高箇所は土壇がある。ここは物見だろう。 G Fから尾根を西に下ると堀切が・・逆茂木が・・・。 H さらに西に小さな堀切がある。埋もれている。

高津屋城(長野県生坂村)
一応、城としたが・・・現地の看板に「城」とあったので・・・。敬意を示して・・・。
でも、実際は物見台程度のものである。

生坂村を流れる犀川にかかる「昭津橋」36.4429、137.9381の西(直線で)約700mにある。
しかし、比高は300mもある。

↑昭津橋から見た城址。ここからの比高は300m近い。でも、車で直下付近まで行ける。

山上の少し東に「高津屋森林公園」がある。
ここにはバンガローなどがある。
ここまで狭く急な道ではあるが、車で行ける。
そこから遊歩道を西に少し登った場所が山頂部、城址である。

一応、そこは展望台になっている。
でも、果たしてどれくらいの人が来るものか?
ここからは南約3qに日岐氏の本城日岐城と支城の小屋城が見え、東には日岐大城が見える。
眺望に関しては文句ない。
まさに物見の場である。
ここから狼煙を上げればこの地域のほとんどの城にも麻績その間を犀川が流れる。
それらの城のオーナー、日岐氏に属する城であろう。
標高は767m。

最高箇所には東屋が建つ・・・ではない、これは土俵の覆い屋である。
そこが主郭で東に副郭が、さらに東に曲輪か斜面か分からない状態が続く。
本郭は33×17mの広さ、西下には堀切があるが、藪が酷くて確認できない。
かつてここには秋葉社があり、奉納相撲が行われていたといい、それを記念したものがこの土俵という。

主郭は2段構成になり、最上部に土俵の覆い屋が建つ。 東斜面はだらだらとした下りとなる。遺構は確認できない。


万平館(生坂村上生坂)
日岐城背後の北陸郷地区から北下に生坂村役場や小学校がある村中心部が見える。↓

その地区の一番高い場所が「万平」といい。
広い平坦地になっている。真下が国道19号線生坂トンネルである。
標高は620m、犀川からは比高約130mである。

ここにあったのが「万平館」である。
しかし、現地に行ってみたが、遺構は何もない。
井戸跡があるとはいうが分からなかった。
宅地と畑が広がっているだけである。仕方ないので村の文化財、道祖神、庚申塔群の写真を撮って撤退。こ
の道祖神、有名な大岡の道祖神のように藁で編んだ飾り物をかけられている。
素朴でなかなかいいものである。

この館の東に小屋城がある。そこに行こうとしたが、鉄柵で閉鎖されている。登山のため、開けて入ることは可能であるが、躊躇。
出没した「熊」の写真が掲げられているのである。
この柵は熊の侵入防止用のものである。
そんなの見たら小屋城まで行く気は一気に失せる。
さらにこの先を行くと、詰めの城である日岐大城まで行くことができる。

詰めの城への入口を守る城が小屋城であり、その居館だったと思われる。
館主は日岐一族丸山氏と伝わる。(犀川を境に日岐氏と丸山氏に分かれていたようである。)
ここも武田氏滅亡後、復活した小笠原貞慶に従うが、先代長時を裏切った恨みによる復讐にあって攻撃を受け、丸山氏は上杉氏に亡命したという。

殿村の館(生坂村)
犀川の北岸、旧国道19号線沿いにある生坂中学校の南側、標高520mの犀川の河岸段丘上にあったが、現在は保育園の敷地となっており、遺構はない。
万平館に移る前の丸山氏の居館だったという。