白馬の城

三日市場城(白馬村神城)
白馬盆地南端に位置する仁科一族沢渡氏の拠点城郭である。大宮山城、沢渡城ともいう。
この地は仁科三湖がある狭隘部の北側に位置し、仁科氏本領の北に入口の防衛拠点であるとともに美麻方面から白馬に至る街道(県道33号線)の白馬盆地への出口部を抑える役目もあったものと思われる。

↑は西から見た城址である。麓に居館があったらしいが遺構らしいものは見られなかった。

沢渡氏の居館は三日市場の集落内にあったようであり、名前が示すように市が建つようなこの地区の中心部がこの集落であったと思われる。

この集落の東の山が城址であり、西の麓に神明社↑がある。
国の重要文化財等が多数ある歴史ある神社である。
解説によると、白鳳期に勧請されたのが始まりとも云われている。
神仏習合時代の御正体(銅製懸仏・2面、長野県宝)の裏には弘安9年(1286)の銘がある事から少なくともこれ以前から鎮座していたと思われる。
三日市場城主沢渡氏の崇敬社として庇護された。天正16年(1588)、当主沢渡盛忠、牛乗父子によりによって社殿が造営された本殿(間社切妻見世棚造,直線厚板葺)と相殿(間社流見世棚造,厚板葺)(共に写真の覆屋内部に鎮座)が現存し、棟札が存在する。
昭和24年(1949)に国の重要文化財に指定されている。
また、奉納された太刀は建武年間、大和国助次作で国指定重要美術品に指定されている。

少なくとも鎌倉時代には神社は存在しており、沢渡氏もそのころにはここにいたのであろう。

この神社の南側の尾根を登って行けば城址であるが、道はない。
適当に登れば何とか着く。神社のある場所の標高が775m、城は878mなので比高はそれでも100mほどある。

城は尾根を利用した直線連郭式ではなく、丸っぽい山頂部周囲に横堀を回す形である。
広さは120m×100mの範囲に及び楕円形をしている。
注目すべきは山の傾斜が緩い東側から北側斜面から西側斜面部の3方向に横堀Aを配置し、そこから6〜8状ほどの竪堀@、Hが下る畝状竪堀群を持つことである。
なお、南側斜面部には帯曲輪があるが、竪堀が存在した形跡がある。

@北側斜面を何本かの竪堀が下る。 A主郭部北下の横堀。横堀というより塹壕陣地だろう。 B二郭北下にはもう1つの横堀がある。

東側は尾根が続くため、定番の堀切で区画する。
主郭部は東西に2つの曲輪が並び、西側が上位の曲輪、本郭Cのようである。
22m×13m程度の広さである。
曲輪間は堀Dで区画される。東側の二郭は本郭側に土塁を持つ。
33m×26mの広さを有し、北側に横堀Bを持つ。
弱点である北側は2重の横堀を持つことになり、合理的な構造になっている。
神明社側の西側が大手であったと思われ、曲輪Gが存在する。

C本郭内部、狭いものである。 D本郭と二郭(右)間の堀 E二郭東側は2本の堀で遮断される。

この山から東、北東方向に尾根が派生し、この尾根からは美麻方面からの街道が見えるがこちらの方面には城郭遺構は確認できない。
また、畝状竪堀群が延びる先の北側にも平場があるが、そこにも城郭遺構は確認できない。
しかし、見張り台程度のものはあった可能性がある。

F本郭西下の曲輪 H西下へも竪堀が下る。下った先が神明社である。の

城主の沢渡氏は戦国時代、武田氏の侵攻を受けて従属するが、ここにそのままこの地にいたようであり、城も武田氏滅亡まで維持されていたようである。
沢渡氏は武田氏滅亡後、小笠原氏に従いこの地を離れるが、家臣として幕末まで続いている。

茨山城(白馬村神城)
三日市場城の北1q、美麻方面から白馬に至る街道(県道33号線)を挟んで北側、北側の標高752m、比高約40mの山にあり、城峯神社が建つ地が城址である。
立地からして美麻方面から白馬に至る街道を南北から抑える目的の三日市場城の支城であろう。




神社境内が主郭であり、境内@は60m×50mほどの広さがある。
かつてここに神社本殿等があったが、2014年11月22日の神城地震で大きく損傷を受けたため解体され、現在は小さな社が置かれている。
あの地震では境内も亀裂が生じたとのことである。
神城地震は被害が局地化であった特徴があるが、この城のある堀之内地区と南の三日市場地区があの時の地震で一番被害が酷く、TVで放映された被害はこの地区の映像だったとのことである。

境内南側の林の中に堀が存在するが、あまり明確なものではない。
南から参道が延びるがこの参道は後付けのものであり、斜面に竪堀が残る。

ただし、この斜面も地震でかなり被害が出ているようである。
社殿背後から西側にかけて土塁Aが回り、南西端には堀があり、西下に降りる道がある。
この降りた先が「堀之内」地区であり、文字通り居館があった場所である。

@主郭にあたる神社境内。前の社殿は損壊してしまった。 A社殿背後には土塁がある。 B主郭北には2つの古墳が土塁でつながった不思議な遺構が

社殿背後の土塁の北側は抉れたような地形になっており、東側は土塁になっている。ここに非常に変わった遺構がある。
古墳が2つあるのだが、その周囲に堀がまわり、土塁が接続されているB。
いったいこれは何のために造ったものか分からない。

古墳に敬意を表したものとも思えるが、その北には古墳は破壊されてその残骸があるというので、そうでもなさそうである。
とりあえず古墳の北端までは約150mある。
古墳の背後は平坦地であり、北側の山に続く。
なお、平坦地の北端に堀が存在するという。
この平坦地を見るとここが住民避難の場所のようにも思える。
緊急時の避難場所の意味もあったのかもしれない。

塩島城(白馬村北城)

JR大糸線信濃森上駅の南東500mにある姫川、松川の合流点に面した独立丘にある仁科一族塩島氏の城である。
この場所は白馬盆地の北端に位置し、この城の北で姫川が渓谷状となり、渓谷が開ける場所にあたる。
←曲輪Uから見た南東眼下の松川、川からの比高約40m。
白馬盆地防衛の北の拠点である。
最高地点の標高が713m、姫川と松川の合流点の標高が652m、駅付近が682mであり、松川の扇状地末端が盛り上がった場所であり、川に面した東方向は比高40m程度の崖になっている。
丘の西面はあまり比高はなく、この方面が弱い印象を受け、国道148号線から見ると城を見下すような感じである。

城自体は南北約350m×東西約150mと土豪の城としては大規模である。
しかし、全体に大雑把な印象を残す。現在は杉や広葉樹の林になっているが、近世は畑として使われていたとのことであり、遺構は大きく改変を受けているらしい。

城跡は遊歩道が整備されており北端近くの八幡社裏から入ることができる。
そこを入ると広い平坦地が広がる。

そこが日光寺跡Gである。100m×60mの広さがあり、北側に堀跡のような浅い溝Hがあり、その北に60m四方のスペースがある。

日光寺跡の南側に高さ8mほどの切岸がそびえる。
そこからが城郭部である。東側が北に突き出し櫓台になっている。

この曲輪V E上には三峯社が祀られ、南側に大きな堀Cがある。
この堀は西から東に傾斜するが、自然の谷津に手を加えた感じであり、大雑把来な印象を残す。

堀の東端は豪快な竪堀Dになって松川の流れる低地に下る。この大雑把な堀の北側の西側が最高地点であり、本郭T @である。
50m×20mの広さがある。

その西側下が横堀状Aになっているが、横堀というより前面に土塁を持った帯曲輪と言った感じである。
さらにその下が西側、駅方向に突き出した丘が延びる。

一方、本郭の東側から北東側に向けて扇型に曲輪UBが広がる。突き出しは60mほどある。

東端は松川に面した崖Fとなる。
曲輪内は東に傾斜しており、真ん中に堀を埋めたような浅い溝がある。
耕作に伴い堀を埋めたものかもしれない。
@本郭内部は平坦 A本郭東下の前面に土塁を持つ腰曲輪 B本郭西側の曲輪U、緩く傾斜している。
B主郭部北側の横堀は自然地形を拡張したものだろう。 CBの横堀は崖面で大きな竪堀となる。 E曲輪V内部
F主郭部東側、松川側の切岸。こちら側からの攻撃はない。 G武田の侵攻で焼かれた日光寺の跡地 H日光寺跡の北側に浅い堀がある。

小土豪である塩島氏の動員兵力は100名以下であろう。
家族を含めても300〜400名位が収納できる人数であろうか?
しかし、家族を避難させるならこの城より周囲にいくらでもある山の方がこの城に避難するより遥かに安全である。

住民についても同様である。
兵力に不相応な城の広さを考えると軍勢の駐屯地と言った感じである。
この城は北上する武田氏に攻略され、日光寺はその時に焼失したと言い、塩島氏は武田氏に従属したという。
武田氏滅亡後、塩島氏は小笠原氏に従いこの地を離れるが、家臣としてこの地を幕末まで続いている。