埴原城(松本市宮の下)
小笠原氏の巨大城郭であるが、場所は少し分かりにくい場所にある。
城はJR篠ノ井線平田駅の東6kmの東から松本盆地に延びる山の末端の尾根にある山城である。
本郭部の標高は1004m、麓の居館跡からの比高は200mほどである。

小笠原氏の本拠、北4qにある林城の南を守るための拠点城郭である。
ともかく広大である。東西1km、南北600m程度の城域を持ち、小笠原氏の本城、林城よりも広い。

でも守備が必要と思われる尾根筋全てに厳重に堀切をバンバン入れたという感じであり、まとまりがない。
よほど心配性の人が造った感じの城である。ここまで必要か?と疑問をいだくような、主要部からかなり離れた場所にも堀切はある。

それはさて置き、主郭部付近の遺構は、メリハリがきき、石垣もあり、切岸も鋭く、堀切は豪快であり、さすが凄いものがある。
この部分だけ、見るだけでも十分に価値はあるだろう。

西の麓にある標高790mの蓮華寺@一帯が根小屋であったらしい。
車は蓮華寺の駐車場が借りれる。寺の北側の舗装道を上がっていくと遊歩道があり、城址に行ける。
この居館付近は段々になっており、下の段は民家の敷地である。
北と南から尾根が西に延び、居館を両腕からコの字形に包むようになっている。
その頭に相当する部分に主郭部がある。
この道を上がると明らかに虎口Aといった感じの場所があり、そこを通ると御屋敷跡Bというかつて畑だったと思われる居館の跡に出る。
さらに登って行くと、尾根筋に曲輪や竪堀が目に入って来る。
北に延びる尾根筋(以下、北尾根という。)に出ると大きな堀切Cがある。ここからが主郭部である。
北尾根は蓮華寺の北側を覆う尾根に続き、この尾根を下って行くと四重の堀切Sがあり、さらにその先にも堀切等がある。
また尾根から竪堀が何本も下り、派生した支尾根まで堀切等が築かれている。

この堀切Cを過ぎ、南東に尾根を登ると、小さな曲輪Dが尾根筋に積み上がる。
総計、本郭までは東にカーブしながら10以上を数える。
途中、大きな曲輪VEがあり、本郭部の南側を帯曲輪Mとなって覆う。
一方、堀切から南にそのまま遊歩道を進むと「構」という曲輪WOに出る。
この付近の標高は930m、本郭からは70mほど下である。

ここから西に蓮華寺の南側を覆う尾根(西尾根という。)が派生し、八幡平などの曲輪Qや多くの堀切Rがバンバン続く。
さらに「構」から南に派生する尾根(南尾根という。)にも堀切、曲輪が連続Pし、斜面に竪堀が下る。
「構」から主郭部の南側を周りこむと井戸跡Nがあり、ジグザグに主郭部南斜面を登ると本郭である。

この本郭の入口部が圧巻。石垣F、Jなのである。本郭南の石垣造りの虎口を入ると本郭Gである。
内部は50mほどの広さ。東端に土壇があり、さらに東に東を土塁で覆われる曲輪UHがある。
この付近から北に尾根が2本延び、その尾根にも堀切、竪堀が確認できる。
主郭部東の土塁上から東を見ると、これが凄い。深さ20m近い大堀切Iである。まるで谷である。
葛尾城や 城にあるものと同程度のシロモノである。
この堀切からは南北に竪堀が下る。

この堀底から東を見ると、これがまた面白い遺構がある。「堀状通路」Kである。
竪堀の底を通路にしたような感じであり、両側は土塁、曲輪状になっており、そこから竪堀が南北斜面に下っている。
堀状通路を上がって行った東端が石垣造りの井戸Lである。この堀状通路は水汲みの者を守るもののようである。
ここまで厳重になっているものは見たことがない。
この城、余ほど、水を確保しにくいのであろうか。
この井戸付近から東に広く緩やかな宮入山から派生する尾根が延びるが、そこを行ってみたが、城郭遺構は見当たらなかった。
この方面はまったく無防備である。
この方面に回りこまれると主郭部が直接攻撃を受ける危険性があるが、想定外なのであろうか、それともあの巨大堀切があるので心配していないのだろうか?一方でこの井戸から南西方向に緩やかな尾根(尾根Wという。)が延びる。
この尾根にはかなり埋もれて、はっきりしないが、竪堀が何本もある。

上の写真は南西側から見た城址のある山である。
なお白黒の鳥瞰図中のマル数字は下の写真の撮影位置を示す。

@上り口にある蓮華寺 A館跡に入る虎口のような部分 B居館跡 C道を登って行くと北尾根との間の堀切に出る。
D Cの堀切を主郭部に向かうと尾根沿いに
小曲輪が積み上がる。
E Dの曲輪群の上に広い曲輪Vがある。 F本郭南の虎口部の石垣 G本郭内部。東側に土壇がある。
H本郭東側に位置する曲輪U I 曲輪Uの東端の土壇から東を見ると、
20m下に堀切が、
J本郭南東端の石垣 K 主郭部東下の堀から東に延びる堀状通路と言われるもの。
L堀状通路の東端にある井戸 M主郭部南下の帯曲輪 N 主郭部南下の井戸 O「構」という名の曲輪W
P曲輪W南の二重堀切 Q西尾根の八幡平、曲輪X R曲輪X南側の堀切 S北尾根の二重堀切の1つ

埴原の牧の官選の管理人、埴原氏は村井に小屋城を構え、村井氏を称し、小屋城の詰城として築いたのこの埴原城である。
小屋城との間は4kmほど離れており、遠すぎる気がしないでもない。
戦国前期、小笠原氏が信濃守護として勢力が大きくなると、村井氏は小笠原氏の配下になったものと思われる。
しかし、小笠原氏は戦国大名として未熟な段階で、既に戦国大名化していた武田氏の侵略を受けるようになる。
まずは、天文11年(1542)諏訪氏が滅ぼされ、天文12年佐久地方が侵略される。
そして天文14年ころから小笠原氏への侵略が始まる。
天文17年、武田信玄(当時は晴信)は上田原で村上義清に大敗。
この間をぬって小笠原長時は武田氏に反撃するが、塩尻峠で大敗。
本拠の松本盆地への侵入を許し、北熊井城などが占領され、天文19年小屋城が占領され、小笠原氏に圧力をかけ、小笠原長時は本城の林城他を放棄する。この時に放棄された城の1つがこの埴原城である。
今残る遺構は、武田氏の侵攻に対し、小笠原氏が林城の防衛拠点として、埴原城の防御を強化した結果と言われる。
天文19年の小笠原長時の林城放棄の記録では「イヌイの城」が落とされ、それがきっかけだったとされている。
この「イヌイの城」こそがこの埴原城ではなかったかと言われる。(林城に対して埴原城はイヌイの方角)
南方の防衛拠点であるこの城の喪失で防衛戦略が破綻したのであろう。
この時は戦闘で陥落したのか、謀略で落とされたのかは分からない。
武田氏占領後、廃城になったという説もあるが、拠点とした深志城の防衛網の1つの拠点として維持されていたと思われる。
ただし、武田氏がどの程度改修したのかは分からない。
天正10年(1582)、武田氏が滅亡すると小笠原氏が復帰するが、この城の改修を行っているともいう。
したがって、埴原城の遺構は、小笠原氏、武田氏、再小笠原氏の3段階で改修されているようであり、その識別は不可能である。


鍬形原狼煙台(松本市中山)

埴原城と林城の間は山がせり出していて直接見えない。
また、北西に中山があり、松本市方面、当時の信濃府中方面が死角となる。
このため、標高836mの中山の山頂に狼煙台を置き、埴原城と林城間の連絡を中継したようである。

その中山、南斜面は中山霊園、車で山頂近くまで行けるが、肝心の狼煙台のあったという山頂部、何とマレットゴルフのコースであった。

その北側は昔のままの山であるが、堀切等の遺構は見られなかった。
なお、ここからのアルプスや松本市街の眺望、素晴らしい。
もちろん、埴原城、林城、深志城、犬甘城も見える。
この地に建つと狼煙台が置かれた理由が体感で理解できる。


右の写真は埴原城の麓、蓮華寺前から見た狼煙台のある中山。
上は北アルプス。右側の尖った山は「槍ヶ岳」。
中山の最高地点はマレットゴルフ場 山頂の北側には何もないただの山。 中山の展望台から見た松本市街と北アルプス

小屋城(松本市村井)
別名 村井城ともいう。
JR篠ノ井線村井駅の北西の「小屋」集落が城址という。
地勢は水田地帯にある微高地である。300m四方ほどの大きさであり、内部が区画されていたという。
集落になっており、遺構を捜してみたが、明確なものは確認できない。
城址解説板があるだけである。

江戸時代1724年(享保9)に編集された信府統記の松本古城記では、木曽義仲の臣手塚太郎光盛居住の地と伝えると記載しているが、この話は伝説の域を出ないだろう。
官牧埴原牧の牧人埴原氏の系統といわれる村井氏による築城と考えるのが妥当であろう。
村井氏は鎌倉時代から戦国時代にかけて、現在の松本盆地南部一帯を支配し、ここを居館に埴原城を詰の城としていたという。
一応、小笠原氏の配下にあったようである。

戦国時代になると武田信玄の侵略で諏訪地方が制圧され、天文17年(1548)7月から小笠原長時との抗争が始まる。
しかし、塩尻峠の合戦以降、小笠原氏は劣勢となり、村井氏は埴原城に逃れる。
この時、埴原城は強化されるが、武田信玄の諜略の手は小笠原氏の家臣団に延び、一方で占領した小屋城を拡張整備し、林城攻略の拠点とする。
そして天文19年7月、本格的な侵攻を始め、圧力をかける小笠原長時は耐えられずに本城、林城放棄して逃亡し、林城など小笠原氏の城は自落してしまった。
村井氏も行動をともにしたようであり、歴史から村井氏は消える。
以後、武田氏の拠点は深志城に移り、村井城は中継地として使われたようである。

(現地解説板を参考、航空写真は国土地理院の昭和50年撮影のもの)