復讐に燃えた殺戮大名、小笠原 貞慶と古厩城(安曇野市有明)

小笠原貞慶(おがさわら さだよし)という戦国時代の武将、御存じでしょうか?

部下の裏切りを許せず、片っ端から殺害した復讐と殺戮に狂った人物ですが、自分は?と言えば、何度も裏切りを重ねたという矛盾の塊のような人物です。
彼は信濃守護であった小笠原長時の3男ですが、親父長時の時代、運悪く隣国、甲斐の武田晴信(信玄)の侵攻を受けてしまいます。

平穏の時代なら長時でも何とか守護は務まったでしょうが、いかんせん相手が悪かった。
長時、村上義清らは武田氏に対抗するが、天文17年(1548)の塩尻峠の戦いで敗退。
それをきっかけに没落の道を歩む。

それでも長時、果敢に武田氏に反撃を加え、局地戦では何度か武田氏に勝利し悩ませています。
現在、武将としての評価は低いが、平均以上の能力は持っていたようです。
しかし、相手は1枚も2枚も上、戦国の横綱です。

戦闘で手を焼くと見ると、得意の調略に戦術を切り替え小笠原家臣に調略を仕掛け、ほとんどの部下を寝返りさせることで追い詰め、長時は子の貞慶ともども越後上杉氏に亡命、その後、同族の京都の三好氏を頼る。
貞慶は天正7年(1579)、長時から家督を相続する。

謙信の死後、御館の乱が起きると長時は会津蘆名氏のもとに身を寄せ、そこで死去するが、貞慶は織田信長に仕え、武田氏が滅亡し、本能寺の変後は徳川家康に鞍替えする。
そして徳川氏や小笠原旧臣の支援を得て上杉氏から深志城を奪還し、信濃復帰を果たす。
すでにここで恩のあった上杉氏を裏切っている訳である。

その後、欲張って筑摩郡北部の青柳城、麻績城を上杉景勝と争うが惨敗、翌12年(1584)には木曾義昌の本領木曽福島城を攻める。
その間、父を裏切った仁科氏一族などを片っ端から粛清する復讐劇を展開する。

しかし、部下の裏切りは許せないが、自分は?というと・・・
天正13年(1585)、石川数正が家康を裏切ると、行動を共にして秀吉に従い、小田原の役の功で秀吉から讃岐半国を与えられるが、秀吉の怒りに触れて追放された尾藤知宣を保護したため、秀吉の怒りを買って改易され、浪人。
その後、子の秀政とともに再度、家康の家臣となり、下総古河に3万石を与えられ、文禄4年(1595年)死去。享年50。

しかし、家康、よくもこんな男を許したものだ。
良くも悪くも言われるが、やはりただものじゃない。
ここが貞慶と決定的に違うところである。

その家康の恩を感じたのか、子秀政は大阪夏の陣で奮戦して戦死し、それがまた家康の感心を買い、結果、小笠原氏は小倉15万石の大名となり、幕末まで続く。
結果として、家は大名までなったので結果オーライ、その功績者ではあるが・・
しかし、流転の激しい欠陥人物であった。

その小笠原貞慶の復讐のターゲットになった1人が古厩(ふるまや)氏。

古厩氏は仁科氏から分かれた一族であり、古厩因幡守盛晴が安曇郡有明に古厩城を築き、古厩を姓とし、古厩郷を支配していた。
しかし、信濃国守護小笠原氏との抗争に敗れ、仁科一族は小笠原氏の家臣となる。
古厩城の詰めの城として整備されたのが、小岩嶽城である。
http://yaminabe36.tuzigiri.com/naganoHP2/koiwatake.htm

後に武田氏の侵略が安曇郡まで延びると、小岩嶽城を舞台に壮絶な戦いが繰り広げられ、落城。

しかし古厩氏はここで滅亡した訳ではなく、武田氏に付いた分家筋などの古厩氏一族もおり、仁科一族のほとんどの武家は武田氏に従う。
肝心の武田氏が滅亡し、小笠原貞慶が復帰すると、父親を裏切った仁科一族に対する復讐が始まり、上杉景勝への内通の疑いをかけられ滅ぼされている。
(当然、冤罪であろう。半島の北の国にも似たような感じの人がいたような?)

小岩嶽城で小笠原長時に忠誠を誓い武田との壮絶な戦いを演じた義理もいっさい考慮していない措置であり、武将としての度量が知れる話である。

その古厩氏の本拠、古厩城は安曇野市有明にある在の正真院の境内が城址という。
ここは北アルプスから流れる中房川の扇状地であり、西側から東側に向けて傾斜する地形である。

↑ 古厩城 右上が正真院、左手の林が主郭部という。
(1977年国土地理院撮影の航空写真を利用)


その正真院に行ってみたが、城郭遺構はない。
城郭遺構らしい部分もほとんどない。
土塁が崩され堀を埋め、宅地や畑になってしまったようだ。

古厩城跡にあたる正真院山門 寺の裏側m民家と木のある付近に堀が存在した。 寺西側の墓地の部分が主郭と言うが・・・

寺院西の水田を挟んで西側にある墓地部分が主郭部というが、そこは若干盛り上がっているにすぎない。
以前は境内の西と南に堀が残っていたようであるが、それらしい部分も曖昧。

複郭の城で主郭は108m四方、副郭は東西54m、南北108mであったという。
要害性のある地形ではない。あくまでここは居館であり、初期に使われていたのではないだろうか。
戦国時代は要害性も備えた小岩嶽城の山麓部の居館部に居住したのであろう。