塔の原城(安曇野市明科中川手)
明科地区から県道302号線に入り、篠ノ井線の線路を越えて直ぐに長峰山、天平の森に向かう道を進んだ途中に城がある。
途中で道が分岐し、そこに看板があるが、外れ落ちていて見逃し、長峰山まで行ってしまった。

分岐する未舗装の道に入ってしばらく行くと城址の解説板がある。
その場所から北に突き出た尾根先が城址である。
標高は750m、麓が500mなので比高は250mである。

青柳城に良く似ており、本郭背後を四重の堀切でバンバン掘り切る。
さらに南にも堀が1本見られ、現在道路となっている部分も堀じゃないかと思われる。
本郭南の最後の堀Aは深さ10m以上の豪快さであり、その北側、尾根先端が本郭Bである。

東側に腰曲輪が5段あり、虎口がある。
この付近は石垣造りであったようである。
本郭は2段になっており、40m×15mの曲輪が2つ重なり、南の堀切側に土壇@がある。
本郭の先端からは明科の町や犀川の流れがバッチリ見える。
先端からは下の尾根沿いに曲輪が13あるといい、堀切が続いているのが見える。

この城は中川手の地頭となった海野氏の一族が塔原氏を名乗り、今の明科中の場所に居館を置き、その詰の城として築いたという。
天文22年(1555)の武田氏の侵攻で塔原氏は、小笠原氏を見限り武田氏に属し、中塔城などで抵抗を続ける小笠原氏は越後に亡命する。
天正10年(1582)武田氏滅亡で小笠原氏が松本に復帰するが、塔原氏、青柳氏等、小笠原氏を見捨てて武田氏に付いた一族はみな滅ぼされ、この塔の原城も廃城になった。
小笠原貞慶の怨念、恐るべき。
@堀切越に見た本郭の土壇 A本郭背後の堀切 B本郭南端の土壇を本郭内から見る。 本郭先端から見た犀川と大町方面

光城(安曇野市豊科光)
犀川に面したズバリ城の名前そのものの名の山、標高911.7mの光城山にある。
麓の標高が550mというので比高360mもあるが、ここもありがたいことに山頂の城跡付近まで車で行けるのである。
山全体がハイキングコースになっていて、城址は公園として整備されている。
お手軽に中世の山城を堪能できるのはありがたい。
右下の写真は西の麓から見た城址のある光城山である。
下から見ると凄い迫力のある山塊である。

国道19号線「田沢北」の交差点を県道57号に入って東に向かい、1kmほど行くと北側に林道が山に延びる。
このクネクネとした道を登れば良い。ちゃんと舗装されており、十分すれ違いもできる。
舗装道が途切れた付近に駐車し、少し南に歩くとそこが城址である。

この道はかなり改変を受けているようであるが、東側に竪堀があり、井戸跡が見られる。
この道を行くと尾根筋に堀切Dが見え、そこが古峯神社の建つ本郭@である。
長さ50m、幅30mほど。
神社の背後に土塁がある。古峯神社は火の神であり、そのことからここが狼煙台であったことを示唆しているという。
周囲には腰曲輪Cがある。
その南に深さ5mほどの堀切Bがあり、二郭に相当する長さ50mほどの曲輪Aがある。
この曲輪内に土塁で囲まれた部分がある。

光城は鎌倉時代にこの地に地頭として赴任した海野氏の一族、海野六郎幸元が戦国時代初期に築いて、光之六郎幸元と名乗ったと云われる。
海野氏の一族は会田、刈谷原、田沢、塔の原に城を築いてこの地の土豪として、小笠原氏に従っていたが、武田氏の侵略で降伏、自落する。
天正10年(1582)に松本に復帰した小笠原貞慶によって修復され、物見の城としてしばらく使われたと思われる。

@本郭に建つ古峰神社 A本郭から見た南の二郭。
手前に堀切がある。
B本郭と二郭間の堀切
C本郭を北の腰曲輪から見る。 D本郭北側は堀切が連続する。 城址から見た西下を流れるの犀川と安曇野
そして北アルプス。絶景である。